response - 死, イメージ : 夢想/空想の境界で
物事を遠くから見ると、すべてがルーティンであり、この世界は循環している。季節は巡り、花は落ちて、実は朽ち果てて、種は鳥によって運ばれて彼の地でまた芽吹く。
この身がつかいものにならなくなったらどこへ往くのだろうと考えることがある。
夜、眠ろうとするときに、夢想と空想の迫間で、虚像と現像を往き来しながらその境界はやがて曖昧なものとなっていく。
眠りに落ちることは言わば「一瞬死ぬこと」であると思う。
朝になれば意識が戻ると思えるから眠ることはこわくない。でも、朝になっても意識が戻らなかったら…? と空想を始めると眠ることも死ぬことと同じくらいにこわいものになる。冷たくなった肉体。
ひとり暮らしの私の肉体が見つかるまではしばらくの時間がかかるだろう。朽ち果てて、運ばれて……彼の地でまた芽吹くのだろうか。まるで幽体離脱したみたいに、冷たくなった自分の肉体を夢想/空想している……そのうち朝になって目が覚めて、夜中の夢想/空想のこともすっかり忘れてしまっているのだが、何かの拍子に想起することも多い。
例えば、駅の改札口でICカードをタッチするときに、学校の下駄箱で外靴や上履きを出し入れしていた学生の頃を思いだすのだ。
あの頃と同じで、靴を履き替えたところで自分はどこへも行けない。改札口を抜けてみてもどこへも行けない。
このように、物事を遠くから見ると、すべてがルーティンであり、この世界は循環している。季節は巡り、花は落ちて、実は朽ち果てて、種は鳥によって運ばれて彼の地でまた芽吹くように自分の日常も、閾の内に収まりきった自分の日常も循環の一部だ。潮の満ち干きのようなものだ。
どこへも行けない。そのことを受容するときに人生の楽さと苦しみを同時に甘受することになる。そしていつものように朝に起きることを当然のように思って夜の眠りに就く。