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個人の集団化:感染症禍の「生政治」

当時を振り返って まえがき
個人を責めるのではなくて、なぜ集団のなかから「苦悩する個人」が生まれてしまうのかを考える。優しい社会をつくっていけたらいいと思います。責任は誰かひとりが背負うものじゃない。

2023年3月24日


「生政治(バイオ・ポリティクス)」というミシェル・フーコーが提案した概念がある。これは、人間の生存を防衛するために人間の生存そのものを管理する、という考え方。

もともと「生政治(バイオ・ポリティクス)」は「政治(ポリティクス)」の内にある概念なのだけれど、感染症禍では「生政治」が肥大化し「政治」を食ってしまうという現象が起こる。

肥大化した「生政治」が「政治」を食い殺すことの、何が問題なのだろう、ということについて考えていきたい。

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そもそも「政治」には人権、表現の自由、参政権などといった個人の権利が多く含まれている。

「生政治」は個人というより集団のレヴェルで「人間の生存を防衛する」ことを目的にしている。だから集団のうちの、あるひとりが身勝手な行動をとらないように抑制する。

いや、そもそも人間個人というのはマシーンではないので、基本的にいえば、何をしでかすかわからない不確実な存在であるわけです。

しかし、集団単位になれば、人間は個人単位よりも遥かに計算可能なシステムと化します。このたびの感染症禍、あるいは戦時中の日本でいえば、僕たちは相互監視によって歪曲した理性を押しつけあっていたわけです。

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どういうことかというとこの感染症禍においては、当初から、現在も変わらず、個人の治癒よりも社会を防衛することが優先されています。

たとえば、感染してしまった人が謝罪をするという現象について。

彼らは謝罪することを迫られて謝罪している。では、彼らは誰にむけて謝罪しているのでしょうか。戦時中、持病があって従軍できなかった人間は誰から後ろ指をさされるのでしょうか。……これは緊急事態に限ったことではなくて、平時においても。

アルコールをはじめとしたさまざまな依存症に悩む個人を責めるのではなく、どうして社会はそれを受け容れ、社会の側から改善を図ることができないのか。

それは僕たちが、「集団化された個人:顔のない個人」に成り下がってしまっているからであるかもしれません。



◎この文章は、2021年5月に北千住BUoYで上演予定の戯曲『No. 1 Pure Pedigree』のなかに収録されている「Ⅳ」という詩の解説文のドラフトです。

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◎今日のおかわり記事
昨年のいまごろに書いた記事です。
たかが、いち年前。されど、いち年前。
いまとはかなり考え方が違うので、じぶんでも驚いています。

いまは、解説を書くこと(たとえそれが依然として判然としづらいものであったとしても)は作者の親切心だと思っている。できるだけ多くの人の胸に、作品が届くのであれば進んで解説を書いていきたい。

まぁ、解説文を書くという行為は、相変わらず難しいままですが。



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