アーティゾン美術館『空間と作品』
10月11日(金)
娘の大学が、入試準備のため、休講になりました。
そうかー、もう推薦入学の時期なんですねー。
これ幸いと、アーティゾン美術館へ行ってきました。
有名どころが勢揃いなので、絵画初心者の娘でも楽しめるでしょう。
今回の展覧会は、3フロアすべてに、アーティゾン美術館の所蔵品だけが展示されており、まずはその圧倒的なコレクション数に驚かされます。
そして嬉しいことに写真撮影可。
以下、キャプションのないものはすべて筆者撮影です。
見どころは『空間と作品』とタイトルにある通り、作品そのものだけでなく、作品が展示されている空間全体です。
画家が絵を描くモチベーションは大きく3つあると思います。
・依頼されて描く(仕事)
・展覧会に出品して入賞を狙う(地位や名誉)
・描きたいから描く
それらタイプによって、鑑賞され方が変わります。
どうやって生まれ、どう展示され、どう鑑賞され、どう人の手をわたってきたのかを、研究または推察して、展示会場を作りましょう、という趣旨です。
つまりは過去の作家と、現在の学芸員・研究者およびインテリアデザイナー等とのコラボレーション、と言えるかと思います。
セザンヌ『鉢と牛乳入れ』
一辺が20センチ足らずの小さい絵です。
床に置かれているのは何の本でしょうか?
絵本や図録のように見えます。
ここは読書部屋かしら? いえ読書に適した椅子ではなさそう。
上海アールデコの椅子だそうです。
娘に「セザンヌって知ってる?」と訊いたら、
「知ってるような気がする。あ、化粧品だった」と言っていました。
老舗のプチプラコスメですね、私の愛用品です。
佐伯祐三『テラスの広告』
考え事をするスペースでしょうか? 恐ろしく殺風景な部屋です。
彼の代表作のほとんどはフランスで描かれ、30歳で結核で亡くなった時も、フランスに住んでいました。
奥さんも娘さんもいたので、もっと生活感のある部屋に飾られていたのではないかなあ、などと想像してみると楽しいです。
山口長男『累形』
気心の知れた大人たちが集まって、語り明かすような、ムーディな部屋ですね。
ピカソ『腕を組んで座るサルタルバンク』
ピカソがこの絵を描いたのは1923年。石橋財閥コレクションに加わったのは1980年のことです。
その57年間に、転々と所有者を渡り歩きました。
ピアニストのウラジミール・ホロヴィッツ(1903ー1989)。
1944年にニューヨークに5階建の家を購入し、その2階に、この絵を飾ったそうです。
円山応挙『波に鴨図』
展示会場に和室まで作っちゃうとは!
しかも畳に上がって、鑑賞できるのですよ。
この襖には紙が継がれた形跡があり、部屋のサイズが変更された可能性があるそうです。
持ち主が変わったのか、部屋を改築したのかは、わかりません。
反対側の壁からは、障子を透過してくるような、やさしい照明。
こんな感じで、全体のコンセプトがお分かり頂けたと思います。
ところで私は、青木繁の絵画が多いことに気づきました。
そこで青木繁について、ちょっと調べてみました。
青木繁『海の幸』明治38年
青木繁の作品が多い理由はすぐわかりました。
出身が福岡の久留米。久留米と言えば、ブリヂストンの創設者にして、ブリヂストン美術館(アーティゾン美術館の前身)を創立した、石橋正二郎さんの出身地ではないですか。
石橋正二郎さんの小学校の図画の先生が、坂本繁二郎という、この方も著名な画家ですが、坂本繁二郎と青木繁は年齢が同じで、幼な友だちでした。そんなゆかりから、石橋正二郎さんは、青木繁の絵をコレクションしたのですね。
青木繁は父親から厳格な英才教育を受け、5歳で尋常小学校に入学したときは、すべての教科で一番でした。
しかしひとりだけ、自分より優れている人がいました。
坂本繁二郎です。
絵だけは坂本繁二郎に勝てない。
青木繁はアレキサンダー大王を崇拝していたそうです。
そして絵画のアレキサンダーになる、と画家になることを目指すのです。
その頃、絵画の世界に新風を巻き起こした黒田清輝。
黒田清輝に憧れて、17歳のとき、念願の東京美術学校洋画科選科に入学します。
青木繁『自画像』明治36年
黒田清輝を中心に発足された「白馬会」で、第1回「白馬賞」を受賞します。
顔が見えなくて申し訳ないのですが、「俺様」の表情。
オレンジ色の輪郭がオーラのよう(現物はオレンジの油絵の具がてらてらしています)。
前途洋々、アレキサンダー大王の一歩を踏み出したところだったのでしょう。
そして上記の『海の幸』は、青木繁を画壇の中央に押し上げた代表作で、のちに油絵で初めて重要文化財に指定されたため、教科書にも載っています。
場所は千葉県房州。
坂本繁二郎と、恋人・梅田たねさんも一緒に行きました。
当時盛んだった、マグロ延縄漁で活気づいた漁村の風景を描いているそうです。
ひとりだけ色白で美しい人がいます。
この方が梅田たねさんだと言われています。
ちなみにこれは写生ではなくて、空想だそうです。
そのとき下宿していた小谷家は、「青木繁海の幸記念館」になって保存されています。
画壇では活躍していた青木繁ですが、当時、油絵はあまり売れなかったらしく、生活は豊かではありませんでした。
というか、ジリ貧でした。
梅田たねさんと同居し、子どもも生まれていましたが、生活を支えるのは二の次の、芸術至上主義。
そんな中で命運をかけて描いた絵がこちら。
『わだつみのいろこの宮』
『古事記』上巻の物語をモチーフにしています。
明治40年の東京府勧業博覧会に出品されたこの作品を、夏目漱石が『それから』の中で、
と書いています。
これは青木繁の賛美としてよく挙げられますが、文脈からすると、ダヌンチオへの批判だと私には思われます。
この直前の文章は以下の通り。
青木繁の絵を見て
のですね。
ダンヌンツィオの『死の勝利』や『快楽の子』は、当時の若者に圧倒的に支持されていました。華麗でロマンチックな文体、そしてファシスト運動の先駆者。
漱石はそれを快く思っていなかったのかもしれません。
話が逸れたので戻します。
この『わだつみのいろこの宮』は、青木繁が全身全霊をかけた自信作でしたが、出展作品240点の中で、一等7人、二等6人、三等10人のうち、3等の末席という結果となりました。
失望した青木繁は、画壇を批判し、画壇から去り、久留米に戻るのでした。
そして28歳という若さで亡くなってしまうのです。
まだまだご紹介したい絵がたくさんありますので、また次の機会が設けられればなあと思います。
最後までお読み頂きありがとうございました。
<参考資料>