伊藤左千夫について
伊藤左千夫(一八六四~一九一三)は現在の千葉県生まれ。おおよそ明治時代を生きた歌人である。親は農家であり、左千夫自身も二六歳で独立して牛乳搾取販売業をはじめた。一九〇〇年、左千夫三六歳の折に正岡子規門下となって作歌に専念する。左千夫らとともに子規庵で行われた歌会に端を発したのが根岸短歌会であり、子規没後は左千夫が中心となった。一九〇三年には根岸短歌会の機関誌「馬酔木」を創刊し、同誌終刊後の一九〇八年には「阿羅々木」(のち「アララギ」)を創刊した。大正期に歌壇を席巻する「アララギ」の基礎を築いた歌人である。写生短歌を得意とし、連作短歌の提唱者でもある。
伊藤左千夫が牧場を経営したのは本所茅場町三丁目十八番地、現在の東京都墨田区江藤橋三の五の三(錦糸町駅の近く)である。
水害連作について
伊藤左千夫は三度も水害遭っており、その度に連作をつくり、また写生文を残している。
明治三三年(三七歳)……「こほろぎ」十首
明治四〇年(四四歳)……「水籠十首」十首
・写生文「水籠」
明治四三年(四七歳)……「水害の疲れ」四首
・写生文「水害の前年」「水害雑禄」
すべて八月に起きた水害である。東京都心は現在でも水害に悩まされている。昔はひとしおだっただろう。明治以来の地下水の汲み上げが地盤沈下を招き、地震や水害の危険性が高くなってしまったらしい(東京都建設局)。
さて、左千夫の短歌に対する評としては、「アララギ」誌上で岡麓・斎藤茂吉・土屋文明・竹尾忠吉・高田浪吉・辻村直・鹿児島寿蔵・小原節三・広野三郎・今井邦子の十名が五年かけて合評した『左千夫歌集合評 上下』(1947)がある。このnoteでは『左千夫歌集合評』から歌を引用し、彼らの評を抜粋する。写生文も適宜引用した。
なお、ふりがなは適宜割愛し、【 】で語釈を付した。語釈は永塚功『和歌文学大系75 左千夫歌集』(明治書院, 2008)を参照している。
こほろぎ
八月二十八日の嵐は、堅川の満潮を吹きあげて、茅場のあたり潮を湛へ、波は畳の上にのぼりぬ。人も牛もにがしやりて、水の中に独夜を守る庵の寂しさに、こほろぎの音を聞きてよめる歌。
【堅川】東京都墨田区と江東区を流れる人工河川
うからやから皆にがしやりて独居る水づく庵に鳴くきりぎりす
【うからやから】家族
【きりぎりす】ここではこおろぎのこと。
牀のうへ水こえたれば夜もすがら屋根の裏べにこほろぎの鳴く
くまも落ちず家内は水に浸ればか板戸によりてこほろぎの鳴く
【くまも落ちず】隈(曲がり角)も漏らすことなく
【家内】家の中、屋内
只ひとり水づく荒屋に居残りて鳴くこほろぎに耳かたむけぬ
【水づく】水につかる
牀の上に牀をつくりて水づく屋にひとりし居ればこほろぎのなく
ぬば玉のさ夜はくだちて水づく屋の荒屋さびしきこほろぎのこゑ
【さ夜はくだちて】降つ。夜はふけて
物かしぐかまども水にひたされて家ぬち冷かにこほろぎのなく
【物かしぐ】食物を炊く
まれまれにそともに人の水わたる水音きこえて夜はくだちゆく
【まれまれに】時たまに
【そとも】家の外
さ夜ふけて訪ひよる人の水音に軒のこほろぎ声なきやみぬ
【訪ひよる】訪ねてくる
水づく里人の音もせずさ夜ふけて唯こほろぎの鳴きさぶるかも
【水づく里】茅場町のこと
【鳴きさぶ】鳴くようである
写生文「水籠」
水籠十首
八月二十六日、洪水俄かに家を浸し、床上二尺に及びぬ。みづく荒屋の片隅に棚やうの怪しき床をしつらひつつ、家守るべく住み残りたる三人四人が茲に十日余の水ごもり、いぶせき中の歌おもひも聊か心なぐさのすさびにこそ
【しつらひつつ】設置しつつ
【いぶせき】うっとうしい
【心なぐさのすさび】心の慰めの気まぐれ
水やなほ増すやいなやと軒の戸に目印しつつ胸安からず
【胸安からず】落ち着かない
西透きて空も晴れくるいささかは水もひきしに夕餉うましも
ものはこぶ人の入り来る水の音の室にとよみて闇響す
【水の音の】水の音が
【とよみて】響みて。大きな音を立てて
物皆の動きを閉ぢし水の夜やいや寒々に秋の蟲鳴く
一つりのらんぷのあかりおぼろかに水を照らして家の静けさ
【おぼろかに】おぼろげに
灯をとりて戸におり立てば濁り水動くが上に火かげただよふ
【火かげ】前歌「らんぷ」の光のこと
身を入るるわづかの床にすべをなみ寝てもいをねず水の音もせず
【すべもなみ】方法がないので
【寝てもいをねず】寝ても寝を寝ず。横になっても眠れない
がらす戸の窓の外のべをうかがへば目の下水に星の影浮く
庭のべの水づく木立に枝たかく青蛙鳴くあけがたの月
空澄める真弓の月のうすあかり水づく此夜や後も偲ばむ
【真弓の月】弓の形をした月。三日月
【後も偲ばむ】時間が経っても思い出すだろう
水害の前日
水害雑禄
水害の疲れ
水害の疲れを病みて夢もただ其の禍の夜の騒ぎ離れず
水害ののがれを未だかへり得ず仮住の家に秋寒くなりぬ
【のがれ】避難先の居宅
四方の河溢れ開けばもろもろの叫びは立ちぬ闇の夜の中に
【四方の河】『水害雑禄』には「天神川も溢れ、竪川も溢れ、横川も溢れ出した」とある。すべて茅場町周辺の河川
針の目のすきまもおかず押し浸す水を恐ろしく身もしみにけり
この水にいづこの鶏と夜を見やれば我家の方にうべやおきし鶏
【うべや】なるほど
【おきし鶏】家に置いていた(飼っていた)鶏
闇ながら夜はふけにつつ水の上にたすけ呼ぶこゑ牛叫ぶ声
付・『秀歌十二月』八月
このnoteは前川佐美雄『秀歌十二月』読書会との関連で執筆されました。
『秀歌十二月』は古典和歌から近代短歌にわたる150首余の歌を一二ヵ月にわけて鑑賞したものです。立項外の歌を含めると400首ほどになると思われます。
『秀歌十二月』の初版は1965年、筑摩書房から刊行されました。これは国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です。同書は2023年5月に講談社学術文庫から復刊されました。
読書会を円滑に進めるため、歌に語釈・現代語訳などを付したレジュメを作成しました。レジュメはぽっぷこーんじぇるが作成していますが、桃井御酒さんの詳細な補正を受けています。疑問点などあればお問い合わせください。