「選集という展覧会」(三枝昂之編『前川佐美雄歌集』書評)
はじめに
直近のBR賞に応募したものです。
本文
選集を読むのはむずかしい。たとえば千種創一の第一歌集『砂丘律』を読むとき、わたしたちはそれが一つの完成された作品だと考える。それは作者の思想が注がれた水槽としてありながら、作者の人生とは一定の距離をとり、わたしたちは水槽を部屋のほの暗いところに運んで、人目をしのびつつ、そのさまを無心に眺めることができる。
しかし、選集では複数の歌集が作者名というひとつの糸で繋がれている。わたしたちは選集を読むとき、それぞれの歌集を完成された作品として読むのではなく、それらを作者の人生のなかに閉じこめてしまう。そのとき歌集は水槽ではなく、ある長さを生きた作者の体液である。だから『前川佐美雄歌集』は水族館ではなく、前川佐美雄という一人の作家を特集し、彼が亡くなるまでを追いかけた展覧会である。
『前川佐美雄歌集』には編者の三枝昂之による解説がある。さながら展示のキャプションだ。わたしたちはこの解説を読むことで、前川の人生と短歌を固く繋ぎとめることができる。
一九〇三年、前川は奈良に生まれた。一八歳で「心の花」に入会、一九歳で絵を学ぶために上京し、絵画を通じてモダニズム芸術の影響を受ける。父の死を受け三〇歳で帰郷し、以後故郷での長い生活がはじまる。前川は歴史ある奈良の地で結婚し、古典の世界に没入し、戦争を嘆きつつ、やがて類型的な戦意高揚歌に陥り、疎開先の鳥取で敗戦を迎えた。戦後、前川は失意のうちに出発し、ほどなく敗戦を乗り越え、六七歳で我が子の暮らす神奈川に移住した。前川は神奈川の地で故郷を追慕しつつ、八七歳でこの世を去る。
『前川佐美雄歌集』に完本で収録されているのは制作年順の第二歌集『植物祭』と第四歌集『大和』だ。この二つは展覧会の見どころであり、その時期の前川の思想を見わたすことができる。以下、三枝の解説を踏まえつつ独自に整理してみよう。
『植物祭』に載るのは東京の歌、『大和』は奈良の歌だ。『植物祭』には大正末期から昭和初期の歌が収められている。前川はモダニズム絵画に影響を受けた。では、絵画に影響を受けて短歌をつくるとはどういうことか。以下、歌の引用は新字体に改める。
まつさをな五月の山を眺めをりあの山の肌は剥がすすべぞなき
(黒い蝶)
丸き家三角の家などの入りまじるむちやくちやの世が今に来るべし
(四角い室)
遠い空に飛行船の堕ちてる真昼ころ公園の噴水がねむい音なり
(噴水)
鏡のそこに罅が入るほど鏡にむかひこのわが顔よ笑はしてみたし
(鏡)
床の間に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見るべし
(夜道の濡れ)
〈五月の青々とした山の肌は剥がせない〉というのはいかにも絵画的な発想である。〈丸い家と三角の家が入り混じる世界〉は絵本のようだ。三首目は二つの異なる場面を並べた絵のようである。遠景には墜落する飛行船があり、近景には噴水に安らぐ公園があり、そこに〈私〉がいる。この〈私〉はまた、重大な事件を見ようとしないわたしたちの姿でもあるようだ。
四首目・五首目は〈私〉を絵のなかに置く歌だ。それは絵描きが自画像を描くときに似ている。絵に自分を描こうとすれば、それはかならず客体となり、ある形象を持たなければならない。たんに「私」といえば自分のことになる言語とは大きく異なる。
五首に共通する発想は、いわば実世界と絵画的世界のコラージュだ。〈私〉が生き、認識し、知覚する実世界とは別に、視覚的に想像されるイメージの世界がある。前川は現実にイメージを引き入れる。
絵のように現実が描き変わってほしい。変わらないからこそもどかしい。これは若者のロマンだ。
ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし
(秋晴)
いますぐに君はこの街に放火せよその焔(ひ)の何んと美しからむ
(樹木の憎悪)
『大和』には帰郷した前川の昭和一一年から一四年の歌が収められている。帰郷直後の歌は第二歌集『白鳳』の後半部にあり、はじめ前川は東京に戻りたかったようだ。
棒ふつて藪椿の花を落しゐるまつたく神はどこにもをらぬ
(神神)
しかし、前川は故郷で和歌の伝統に傾斜し、戦争に反対するも、やがて天皇を称える戦意高揚歌を詠むようになる。それは時代性もあるだろうが、彼の故郷がたまたま奈良であったことが大きな影響を与えたように思われる。
前川は昭和一四年、現代の精神で古典を読みなおす新古典主義を提唱する。『大和』はモダニズムの手法を身につけた彼が伝統に傾斜しつつ、戦意高揚歌に陥らないぎりぎりの地点で編まれた歌集だった。
ゆく秋のわが身せつなく儚くて樹に登りゆさゆさ紅葉散らす
(修羅)
窓を破つていきなり鬼だいや雪ださあわからないわしは分らない
(鬼)
春の夜にわが思ふなりわかき日のからくれなゐや悲しかりける
(韓紅)
百人一首の「さびしさにやどをたちいでてながむればいづくもおなじ秋の夕ぐれ」(良暹法師・七〇)に典型的だが、和歌の世界で秋は悲しいものだ。〈私〉は秋の切なさに耐えきれず、紅葉を散らして秋を終わらせようとしている。先の秋晴の歌が実景と視覚的イメージのコラージュなら、この歌は季節感に馴染めない〈私〉と和歌の伝統のコラージュである。
二首目も三首目も歴史性への傾斜にほかならない。鬼か雪かはすぐに分かるはずなのに、伝統にのまれつつある〈私〉は決して判断しようとしない。春の夜になると青春期を思い出し、その燃えさかるような日々に悲しみを感じる。彼は確実に歴史性へと沈んでいった。
春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ
(大和)
この高名な歌には奇妙なところがある。はたして誰が「大和と思へ」と命じているのだろうか。まずは〈私〉が呼びかける歌として読める。見通しの効かなくなる戦時下の日本において、そこにこそ大和の本来の姿があると宣言する――というより、自分に言い聞かせるような歌。あるいは、命じるのは大和そのものだろうか。たとえば大和の神が、春を代表する景物として愛されてきた霞をとらえ、霞に覆われることによって一元化された我が国の名を、人々は今こそ思い起こすがいいと睥睨する歌。
この二通りの読みは前登志夫『山河慟哭』に示されているが、命令する主体が〈私〉であり大和であるとは、〈私〉が大和になっているのと変わらないではないか。戦争の疑義と支持、国体との合一までを含意するこの歌は、天皇が象徴でなかった時代にたまたま大和に生まれ、東京でモダニズム芸術を摂取しつつ、奈良で古典和歌を継承した前川にしか読めなかっただろう。決定的な達成であるとともに、致命的な危うさも含んだ記念碑的な一首であった。
戦後の前川についても簡単に触れよう。
砂川のあさき流れにうたかたはかげもなく消ゆうたかたなれば
(『積日』葛の花)
海蟹をほぐして食へり妻子らとあられもなしに食ひちらしけり
(鳥取まで)
無茶苦茶の世となれと曽(かつ)て叫びしがその世今来てわれを泣かしむ
(『紅梅』二月三月)
今はとて餓鬼の類となりたるか一尾の鰈骨まで食ひぬ
(飲食の歌)
うたかたのように消えてしまった思い。それは元々叶わぬものだったのだろう。若き日の願いが実現してしまった嘆き。前川はもう都会に迷いこんだ青年ではない。けれども、自己を餓鬼にたとえ、すぐさま食というモチーフを獲得する手腕は確かに彼のものだった。
観覧を終えたわたしたちは、まるで絵はがきを買うように彼の短歌を書きうつすだろう。それは手帳でもSNSでも頭の中でもかまわない。持ち運ばれた短歌は絵はがきと違って本物である。
わたしの手を通して彼の短歌が編まれていく。捌かれた魚はたしかに死んでいるが、調理しなければ食べることはできない。彼の短歌を骨まで啜ることで、わたしと彼がコラージュされ、わたしはすこしだけ彼になっている。
わたしが死ぬとき、わたしのなかにどれだけの人が住んでいるだろうか。
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