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たべもの、たんか、春

二日保たず散る花見ればなまなかに人の思考やまた飮食おんじきや/斎藤史


はじめまして、ぽっぷこーんじぇるです。いま短歌ユニット朝ごはんじゃないの三人で「春のたべもの短歌会」という企画を開催しています。

食べることはあまりにも身近です。むしろ近すぎて見えないことがありそうです。

僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむる、へんにあかるい共同墓地で/岸原さや

『声、あるいは音のような』

これから食べものと短歌について話してみます。よかったらお付き合いください(すこし長いので、気になるところだけでも)。そして、気が向いたら企画に参加してみてください。

※春のたべもの短歌会は終了しました。記事はnoteのマガジンから読むことができます。

何を食べるのか

噛む

現代人は食事のときに噛む回数が減っていると聞きます。この良し悪しはともかく、百万年単位でみると人類の進化に甘噛みは必須でした。

あるとき、人類が火を使いはじめました。火によって焼く、煮る、蒸す、燻すなどの調理が可能となり、熱したやわらかい食物を食べられるようになります。そうすると、咀嚼器官はコンパクトになっていくでしょう。つまり、脳が大きくなるスペースができるのです。

また、火を使って調理するにはある程度の学習が求められるでしょう。火の起こし方、調理法、調理過程の分担など、仲間と共有すべきことはいっぱいあります。こうして料理から脳が体が成長し、さらに社会性が生まれたという仮説もあります。

微笑みをわずかゆがめし甘噛みの波の起点に犬歯のありき/奈瑠太

「うたの日」2022年11月16日

呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる/穂村弘

『シンジゲート』


春の季語①料理・加工品

春の季語になっている料理・加工品を調べてみると、

福豆、ひなあられ、桜餅、うぐいす餅、わらび餅、ひし餅、草餅、田楽(田楽豆腐)、目刺、しじみ汁、菜の花漬、木の芽和

などがありました。福豆は節分、雛あられと菱餅は雛祭、桜餅は花見のときに食べますね。

屈強な男が桜餅を買ふ/佐々木德子

現代俳句データベース

あたたかき飯に目刺の魚添へし親子六人の夕かれひかな/与謝野寛

『灰の音』

思えば上に挙げたものはすべて日本食です。

すきやきの残りに作るビビㇺバブをキムチの色に染めている子の/李正子イチョンジャ

『ナグネタリョン』


食べたい

人間は何でも食べます。

急行を待つ行列のうしろでは「オランウータン食べられますか」/大滝和子

『短歌パラダイス』小林恭二

「可愛すぎて食べてしまいたい」と言います。実際に人を食べる人がいる……という話はしないほうがよさそうです。カニバリズム食人という言葉はよく知られているでしょうか。

飲ませて、と唾液を強請るそれがもうカニバリズムなのかもしれない/十迷色

2021年5月7日のツイート

そういえば、食と性はよく似ています。「可愛すぎて食べてしまいたい」もそれに近いところがありますね。具体例を挙げるなら、古代ギリシア語のσπέρμαスペルマは種子と精液の両方を表しますし、日本語では陰部がよく食材にたとえられます。上の歌はそうした食欲と性欲の一致を端的に表しています。

するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら/村木道彦

『天唇』

そのように考えると、この高名な歌もちがって見えてくる気がします。初句の「するだろう」が過去の肉体関係をほのめかして、でもそれは二句・三句で否定されて、「マシュマロくちにほおばりながら」が性欲に代わる食欲を……いや、ちょっと無理があるでしょうか。


人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ/与謝野晶子

『みだれ髪』


◇近代短歌とたべもの◇

たべものの和歌は万葉集を除いて少ないようです。近代短歌はどうでしょうか。いくつか引いてみます。

厨べに青みいそげる玉葱ねぎの芽を切りつつおもふわが待春歌/斎藤史
草にゐてわりごひらけば真上より野天の春日結飯むすびを照らす/木下利玄
カステラの黄なるやはらみ新しき味ひもよし春の暮れゆく/北原白秋

『朱天』、『一路』、『桐の花』

斎藤史の歌は冬ですが、ほかは春の歌です。しばらく評を考えたのですが、どれもおいしそうな歌だし、お腹が空いてきたので割愛します。


鰻の茂吉

食といえば、斎藤茂吉のうなぎ好きは有名です。一年間に九四回食べた年もあるといいますが、その愛好ぶりは歌を見ればすぐにわかります。

けふ一日ことを励みてこころよく鰻食はんと銀座にぞ来し
きみがため白焼と蒲焼の鰻くふかへりみすればみづからのため
開帳のごとき光景に街上の鰻食堂けふひらきあり
これまでに吾に食はれし鰻らは仏となりてかがよふらむか
肉厚き鰻もて来し友の顔しげしげと見むいとまもあらず
ひと老いて何のいのりぞ鰻すらあぶら濃過ぐと言はんとぞする

『白桃』、『霜』、『小園』二首、『つきかげ』二首

「ことを励」んだあと、「鰻」を食べるためにわざわざ銀座に向かいます。「きみがため」と言っても本当は自分のために食べるのです。
そんな茂吉も、年齢を重ねると鰻の「あぶら」が胃にもたれるようになります。食べに食べた鰻に感情移入することもありました。鰻の歌だけで茂吉の生活が見えてくるようです。


何を食べないのか


何が食ひたい言はれて答容易ならず食ひたいと思ふ物がないのだ/土屋文明

『青南後集』


こおろぎ食

すこし前にツイッターで蟋蟀こおろぎ食が話題になりました。給食に出たとかせんべいになったとか、ギリ食べれるとか絶対に無理とか、かなり錯綜していて追いきれていません。
考えてみると、日本に限っても昆虫食の文化はあります。蜂の子、いなごは有名でしょうし、戦中戦後の食糧難の時代は蚕のさなぎが貴重な栄養源でした。
また、海から離れた長野県では魚介類がとれず、動物性たんぱく質を摂取するために昆虫食が広く行われていたといいます。『長野県史 民俗編 第三巻(一)中信地方』の「食料」をみると、蜂の子、蝗、蚕の蛹のほか、蟷螂かまきり、蝉、蛙、そして蟋蟀が挙げられています。

のがるるは火鍋に入れず憐みて蝗生きよと戸外に放す/菊池映一

『短歌現代』1997年11月

酔ふてこほろぎと寝てゐたよ/種田山頭火

『草木塔』

安易に否定したくないものです。蟋蟀は秋の季語なのでこのぐらいにしておきます。


春の季語②食材

このように考えてから歳時記の春の季語をみると、「食べられるもの」と「食べているもの」のズレに気づきます。言ってしまえばだいたいのものは食べられるからです。
和布わかめ海苔は食べる。潮干狩でとれた浅蜊あさりはまぐりは食べる。桜鯛さくらだい蛍烏賊ほたるいか雲丹うには食べる。田螺たにし栄螺さざえは食べる。菠薐草ほうれんそうレタスアスパラガスは食べる。ぜんまいわらびは食べる。山葵わさびにんにくは食べる。しかし、土筆つくし蒲公英たんぽぽ、蜂の子、蛙、きじなどになると、食べる人は減ってきそうです。

蛤を焼く縄文の潮の香の/大屋達治
ほろほろと泣き合ふ尼や山葵漬/高浜虚子
命ごとぶつ切りにして桜鯛/長谷川櫂
たんぽぽのサラダの話野の話/高野素十

『寛海』、『五百句』、『蓬莱』、『野花集』

蜂の子のかろき脂が舌にとけ酒あたたかく腹にしみゆく/春日井瀇
雉食へばましてしのばゆ再た娶りあかあかと冬󠄀も半󠄁裸のピカソ/塚本邦雄
夕べすほうれん草は茎立てり淋しさを遠くつげてやらまし/土屋文明
唐揚げの下のレタスを食べてみる駅のひだまり冷えた膝裏/藤本玲未

『香菓 合同歌集』、『綠色硏究』、『ふゆくさ』、『オーロラのお針子』

塚本邦雄の歌は難解です。女性を「再た娶」るのは「ピカソ」で、彼は「あかあかと」照り、燃えています。「雉」の頭は赤いですから、食べるときに彼の姿が思い出される、という感じでしょうか。


食べるものがない

「食べない」のそばには「食べるものがない」があります。飢餓です。
日本、東北地方の飢餓を記録した歌人に結城哀草果ゆうきあいそうかがいます。東北地方一帯は1934年から5年にかけて冷害による厳しい凶作に遭いました。

五百戸の村をしらべて常食じやうしよく白米はくまい食ふが十戸ありやなし
南瓜ばかりくらふ村人の面わみれば黄疸のごとく黄色になりぬ
雪ふりし山にのぼりて草根ほり木の実をひろふけもののごとく
木の実と草根をくらめし食はぬ人らは黒きふんたれにけり

『すだま』

言葉もありません。「獣のごとく」は単に比喩ではなく、実際に顔が「黄色」くなり、「黒き糞」が垂れてしまいます。壮絶なリアリズム短歌です。


さまざまなパターン

そういえば、人以外が何かを食べる歌もあります。

蝶々のもの食ふ音の静かさよ/高浜虚子

「ホトトギス」1914年1月号

たたかひに出でゆく馬に白飯しらいひを焚きて食はせぬと聞きつつ黙す/斎藤茂吉

『寒空』

戦のために、馬に白米を食べさせてしまう兵士。その心意気に言葉を失う茂吉。

また、本来は食べられないものを食べる歌もあるでしょう。

喜んでほしくて食べた泥だんごなのに子供らみんな泣き出す/小坂井大輔
虹をたべるやさしいマナー七色をくずさぬようにナイフを入れる/杉崎恒夫

『平和園に帰ろうよ』、『パン屋のパンセ』

そして、食べられることや食材そのものを主題とした歌もあるでしょう。

きららきららさくらに食われつぎつぎに人溶けてゆく人間だもの/渡辺松男

『歩く仏像』

鐵鉤に吊りあげられてわが頭上 桃色の朱肉となりてゆく豚/斎藤史

『風に燃す』


また、食器や調理器具、調味料に注目した歌もあります。

とりあえずで買った百円均一の食器のままで町になじんだ/戸田響子
庖丁を凶器のごとく下げて居りなまぐさきものを夜毎にれうる/斎藤史
晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて/葛原妙子

『煮汁』、『風に燃す』、『葡萄木立』

ほかにどんなパターンがあるでしょうか。


喩としての食

焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き/俵万智

『チョコレート革命』

食べることや食材を比喩として使うこともありそうです。上の歌はその非常に有名なものです。
先に述べたとおり、食欲と性欲は類似しています。「お父さんが好き」という言葉は料理と結びつけられることでとてもグロテスクになっています。しかし、それは極めてリアリスティックでもあります。


食の喩の頂点は塚本邦雄でしょう。

突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼
殘雪󠄁のごとき買ふはちがつの巷 歷として今日日本の忌
平󠄁穩無事に五月過󠄁ぎつつ警官のフォークを遁げまはる貝柱
りの手に貝類の無色の血 革命といへど人の死の上

『日本人靈歌』

前半の二首は戦争を、後半二首は革命をうたっています(「五月過󠄁ぎつつ」の「五月」はメーデーの月)。俵万智の歌とは違ったかたちで食の"生臭さ"がとても効果的に活かされています。

こうした発想は次の歌に繋がっていきます。

食ふことをしんじつ喜び貪れどもなぜかかる美しからぬ時を持たねばならぬ/斎藤史

『うたのゆくへ』


もう一度塚本邦雄の歌に戻ります。

喪章なす四月の若布 はじめよりわれわれは日本島の流刑者/塚本邦雄

『日本人靈歌』

春の歌です。「喪章なす四月の若布」は制服でしょうか。日本そのものを蔑視する目線は彼の高名な「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」にも通底していますが、いま、なかなかこういう歌をつくれそうにはありません。


◇現代短歌とたべもの◇

最後に現代短歌を見てみます。ファーストフードや栄養食品、弁当や給食、お菓子など、たべものも、たべもの短歌も、広く大きくなりました。

煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか/千種創一
ハブられたイケてるやつがワンランク下の僕らと弁当食べる/うえたに  
公園でピアスあけっこした春に倒れてた食べかけのチョコボール/藤宮若菜

『砂丘律』、『ぼくの短歌ノート』穂村弘、『まばたきで消えていく』

朝ごはんじゃないの歌を並べてみます。

ふるさとに寿司屋はあるがふるさとの御馳走ならばたけのこごはん/姿煮
風がなく寒くないからスーパーの前で食べきる半額の寿司/寿司村マイク
ぼくたちも寝るときは寿司 神様にやさしく握られてから 回る/ぽっぷこーんじぇる

「うたの日」2022年3月21日、「うたの日」2023年01月25日、初出

寿司、食べたいですね。

参加お待ちしています。


飲食物の歌は、古典和歌にはきわめて少ない(…)。近代短歌が開拓した領域といっていいだろう。近代短歌が追及した自我の問題、孤独の問題と噛み合う点があったから、斎藤茂吉をはじめとして意識的にこれをうたった歌人が少なからずあったのだった。私たちは、いま、近代の問題をそのまま継承しているわけではない。が、食い、飲むという行為が、生存における根源的行為である以上、今後もまだまだ、さまざまな角度からうたわれつづけなければならないだろう。/佐々木幸綱

「オランダ作歌ノート8」『心の花』1993年1月号


最後にこっそりと、春のたべもの短歌会でやりたいことを書いておきます。
「春のたべもの」という時節に合ったテーマに従って、みんなで短歌をつくること。ハッシュタグを追えば、投稿者の短歌が見れること。そこにかすかなコミュニティが生まれること。運営はすぐれた歌の発見に徹するのではなく、投稿された歌を広く見渡して、「春のたべもの短歌」の全体像を把握するとともに、少しでも独自性のある歌に対して、評という形で広く感想を伝えること。

これはあくまでぽっぷこーんじぇる個人の意見です。しかし短歌会の方針として、いくつかの受賞作を除いて歌に格段の優劣をつけるつもりはありません。
改めて、ぜひ春のたべもの短歌会にご参加ください。一同心からお待ちしています。

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