たべもの、たんか、春
はじめまして、ぽっぷこーんじぇるです。いま短歌ユニット朝ごはんじゃないの三人で「春のたべもの短歌会」という企画を開催しています。
食べることはあまりにも身近です。むしろ近すぎて見えないことがありそうです。
これから食べものと短歌について話してみます。よかったらお付き合いください(すこし長いので、気になるところだけでも)。そして、気が向いたら企画に参加してみてください。
※春のたべもの短歌会は終了しました。記事はnoteのマガジンから読むことができます。
何を食べるのか
噛む
現代人は食事のときに噛む回数が減っていると聞きます。この良し悪しはともかく、百万年単位でみると人類の進化に甘噛みは必須でした。
あるとき、人類が火を使いはじめました。火によって焼く、煮る、蒸す、燻すなどの調理が可能となり、熱したやわらかい食物を食べられるようになります。そうすると、咀嚼器官はコンパクトになっていくでしょう。つまり、脳が大きくなるスペースができるのです。
また、火を使って調理するにはある程度の学習が求められるでしょう。火の起こし方、調理法、調理過程の分担など、仲間と共有すべきことはいっぱいあります。こうして料理から脳が体が成長し、さらに社会性が生まれたという仮説もあります。
春の季語①料理・加工品
春の季語になっている料理・加工品を調べてみると、
福豆、雛あられ、桜餅、鶯餅、蕨餅、菱餅、草餅、田楽(田楽豆腐)、目刺、蜆汁、菜の花漬、木の芽和
などがありました。福豆は節分、雛あられと菱餅は雛祭、桜餅は花見のときに食べますね。
思えば上に挙げたものはすべて日本食です。
食べたい
人間は何でも食べます。
「可愛すぎて食べてしまいたい」と言います。実際に人を食べる人がいる……という話はしないほうがよさそうです。カニバリズムという言葉はよく知られているでしょうか。
そういえば、食と性はよく似ています。「可愛すぎて食べてしまいたい」もそれに近いところがありますね。具体例を挙げるなら、古代ギリシア語のσπέρμαは種子と精液の両方を表しますし、日本語では陰部がよく食材にたとえられます。上の歌はそうした食欲と性欲の一致を端的に表しています。
そのように考えると、この高名な歌もちがって見えてくる気がします。初句の「するだろう」が過去の肉体関係をほのめかして、でもそれは二句・三句で否定されて、「マシュマロくちにほおばりながら」が性欲に代わる食欲を……いや、ちょっと無理があるでしょうか。
◇近代短歌とたべもの◇
たべものの和歌は万葉集を除いて少ないようです。近代短歌はどうでしょうか。いくつか引いてみます。
斎藤史の歌は冬ですが、ほかは春の歌です。しばらく評を考えたのですが、どれもおいしそうな歌だし、お腹が空いてきたので割愛します。
鰻の茂吉
食といえば、斎藤茂吉の鰻好きは有名です。一年間に九四回食べた年もあるといいますが、その愛好ぶりは歌を見ればすぐにわかります。
「ことを励」んだあと、「鰻」を食べるためにわざわざ銀座に向かいます。「きみがため」と言っても本当は自分のために食べるのです。
そんな茂吉も、年齢を重ねると鰻の「あぶら」が胃にもたれるようになります。食べに食べた鰻に感情移入することもありました。鰻の歌だけで茂吉の生活が見えてくるようです。
何を食べないのか
こおろぎ食
すこし前にツイッターで蟋蟀食が話題になりました。給食に出たとかせんべいになったとか、ギリ食べれるとか絶対に無理とか、かなり錯綜していて追いきれていません。
考えてみると、日本に限っても昆虫食の文化はあります。蜂の子、蝗は有名でしょうし、戦中戦後の食糧難の時代は蚕の蛹が貴重な栄養源でした。
また、海から離れた長野県では魚介類がとれず、動物性たんぱく質を摂取するために昆虫食が広く行われていたといいます。『長野県史 民俗編 第三巻(一)中信地方』の「食料」をみると、蜂の子、蝗、蚕の蛹のほか、蟷螂、蝉、蛙、そして蟋蟀が挙げられています。
安易に否定したくないものです。蟋蟀は秋の季語なのでこのぐらいにしておきます。
春の季語②食材
このように考えてから歳時記の春の季語をみると、「食べられるもの」と「食べているもの」のズレに気づきます。言ってしまえばだいたいのものは食べられるからです。
和布や海苔は食べる。潮干狩でとれた浅蜊や蛤は食べる。桜鯛や蛍烏賊や雲丹は食べる。田螺や栄螺は食べる。菠薐草やレタスやアスパラガスは食べる。薇や蕨は食べる。山葵や蒜は食べる。しかし、土筆、蒲公英、蜂の子、蛙、雉などになると、食べる人は減ってきそうです。
塚本邦雄の歌は難解です。女性を「再た娶」るのは「ピカソ」で、彼は「あかあかと」照り、燃えています。「雉」の頭は赤いですから、食べるときに彼の姿が思い出される、という感じでしょうか。
食べるものがない
「食べない」のそばには「食べるものがない」があります。飢餓です。
日本、東北地方の飢餓を記録した歌人に結城哀草果がいます。東北地方一帯は1934年から5年にかけて冷害による厳しい凶作に遭いました。
言葉もありません。「獣のごとく」は単に比喩ではなく、実際に顔が「黄色」くなり、「黒き糞」が垂れてしまいます。壮絶なリアリズム短歌です。
さまざまなパターン
そういえば、人以外が何かを食べる歌もあります。
戦のために、馬に白米を食べさせてしまう兵士。その心意気に言葉を失う茂吉。
また、本来は食べられないものを食べる歌もあるでしょう。
そして、食べられることや食材そのものを主題とした歌もあるでしょう。
また、食器や調理器具、調味料に注目した歌もあります。
ほかにどんなパターンがあるでしょうか。
喩としての食
食べることや食材を比喩として使うこともありそうです。上の歌はその非常に有名なものです。
先に述べたとおり、食欲と性欲は類似しています。「お父さんが好き」という言葉は料理と結びつけられることでとてもグロテスクになっています。しかし、それは極めてリアリスティックでもあります。
食の喩の頂点は塚本邦雄でしょう。
前半の二首は戦争を、後半二首は革命をうたっています(「五月過󠄁ぎつつ」の「五月」はメーデーの月)。俵万智の歌とは違ったかたちで食の"生臭さ"がとても効果的に活かされています。
こうした発想は次の歌に繋がっていきます。
もう一度塚本邦雄の歌に戻ります。
春の歌です。「喪章なす四月の若布」は制服でしょうか。日本そのものを蔑視する目線は彼の高名な「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」にも通底していますが、いま、なかなかこういう歌をつくれそうにはありません。
◇現代短歌とたべもの◇
最後に現代短歌を見てみます。ファーストフードや栄養食品、弁当や給食、お菓子など、たべものも、たべもの短歌も、広く大きくなりました。
朝ごはんじゃないの歌を並べてみます。
寿司、食べたいですね。
参加お待ちしています。
最後にこっそりと、春のたべもの短歌会でやりたいことを書いておきます。
「春のたべもの」という時節に合ったテーマに従って、みんなで短歌をつくること。ハッシュタグを追えば、投稿者の短歌が見れること。そこにかすかなコミュニティが生まれること。運営はすぐれた歌の発見に徹するのではなく、投稿された歌を広く見渡して、「春のたべもの短歌」の全体像を把握するとともに、少しでも独自性のある歌に対して、評という形で広く感想を伝えること。
これはあくまでぽっぷこーんじぇる個人の意見です。しかし短歌会の方針として、いくつかの受賞作を除いて歌に格段の優劣をつけるつもりはありません。
改めて、ぜひ春のたべもの短歌会にご参加ください。一同心からお待ちしています。