そーすけ。

自分の口からは言えないことを文字にして羅列するだけ。

そーすけ。

自分の口からは言えないことを文字にして羅列するだけ。

最近の記事

この社会に存在しているということ

いざ暇になり、本を読んでいるとウズウズしてくる。何かをしたくなるのだ。それも達成感がありそうな難しい課題に取りかかりたくなる。 YouTubeに動画を上げるとか、社会問題に挑戦してみるとか。なにかしたくなる。でも今、この暇な時間が終わり、タスクをこなして少し疲れるとゲームをしてYouTubeを見て満足する。これの繰り返し。 今noteを書いているのも、何かをしたいと思っているからだ。書き終えた頃には多少の満足感とともに珈琲を飲んで本を読むのだろう。 この記事が100いい

    • 教育実習は死ぬほど楽しかった

      人にもよるが教育実習は大変だと言う。僕も行く前はめっちゃ不安だった。夜遅くまで帰れないのが普通って聞いてたから。でも実際は違った。帰ろうと思えば5時には帰れた。 実習では僕を含めた3人。その2人はいつも夜遅く帰っていた。そのなかで僕は5時には帰れたけど暇だったのでお喋りをしながら6時頃に帰っていた。 正直、学校の先生よりいい授業が出来る自信があったし、生徒との関係作りにも自信があった。実際、授業は先生よりいいものを展開したつもりである。教材研究とかも含めて5時には帰れた

      • 時間はあるが金がねぇ

         暇人かって言われればそうとしか答えられない。でも不思議と不安はない。超絶幸せってわけではないけど不幸ではない。価値観によるものかな?  さっき読んだ本に貧困な国に行けば価値観が変わるかもって書いてあった。たしかに。10カ国弱しか行ったことないけどフィリピンに惹かれるのはそれが関係してるのかも。  僕が何十万も支払って英語を習いに行ったのがきっかけ。それだけ英語が話せるようになりたくて費用対効果もいいと判断していた。  そこで働いていたフィリピーナは憧れるほど英語がペラ

        • 対話

          ここ数年、反りが合わない人とは無理して仲良くする必要がないというスタンスで生きてきた。高校では常に集団行動みたいな生活を送ってきたからこそ、大学では自由気ままに過ごしてきた。 しかし、自分とは合わない人のことは気にしないスタンスのつもりが、寧ろ気にしていて批判の対象になっていたのでは?と、ふと思った。 志が低い同業者のことを批判して、自分のやっていることが偉いことだといつの間にか思っていた。 学問の世界に足を踏み入れたとき、批判とオリジナリティが求められることに戸

          学歴モノサシを振りかざすあなたは賢いの?

          自己紹介の時に必ずと言えるほど聞かれる学歴。 「大学どこ?」 気になるのはわかるよ。中には何を学んでいるかが気になるから聞くという人がいるが、それなら「何を学んでいるの?」って聞けばいいじゃんって思う。 この話をすると大抵は良くないよねって共感してくれる。でもね、知ってるよ。あなたもどこかで学歴モノサシを使っていることを。 気が抜けた瞬間ポロッとこぼれ落ちる言葉。私じゃない他人のことを指しているのだけれども、その誰かを○○大学のって修飾している。 企業側が学歴フィルター

          学歴モノサシを振りかざすあなたは賢いの?

          無限に続く競争社会

          小学校でクラブに入ってからというもの、今までずーっと競争を続けている。優れているか劣っているかのレースを。 部活、恋愛、勉強、就職、給料、いつまで経っても誰かと比べている。社会的ステータスってやつ。 いつになったらこの競走から抜け出せるの?学校から抜ければスクールカーストやらの競争から脱却できるものの、会社に入ればまた優劣がつきまとう。どの仕事でも。 教師になっても生徒からの支持率、信頼度、授業のクオリティなどなど。他の人と比べれば給料が安いだの休みがないだの。教師はブ

          無限に続く競争社会

          盲目のインフルエンサー信者

          たまに知らない人の投稿を見てみることがある。とりあえず"スキ"がたくさん付いている記事を見る方が当たりが多いと思っているので、スキの多い記事を開いてみる。 たしかに文字のフォントを変えたり、見出しをつけたりして見やすくなっているものの大体がつまんない内容。マジでつまんない。 スキの数の割に内容がつまらないのは何故だろうと思い、投稿者のプロフィールを見たら大量のフォロワーを抱えていることに気づいた。 そういうことか。何を言っているのかではなく、誰が言っているのかが大事とい

          盲目のインフルエンサー信者

          SNSをやめた。

          これまで生活の一部だったSNSをやめた。TwitterとInstagram。正確には、アカウントは残っているが投稿するだけ。誰の投稿も見ない。見えない。 TwitterとInstagramを見ているだけで、新たな情報に触れているという感覚に陥るのが嫌だった。てか時間の無駄だと思ったからやめた。理由はたくさんある。 最初は怖かった。これまでSNSでなんとか繋がっていた関係が断たれ、関係の無い人になってしまうことが。接点がなくなることが。 だが結果は違った。本来必要なかった

          SNSをやめた。

          人間関係の断捨離

          こんなことしたら変に思われるかな。過激な発言をしたらヤバイやつって言われるかな。こんなことを常に考えつつどんなコミュニティでも自分の見え方を気にしている。 自分がヤバイやつって思われた途端にアウェーになり友達が増えない。ロックバンドが言いそうな言葉に例えると、自分を圧し殺す。押すより圧すの方がしっくりきたのでこっちを採用。 多分、日常生活で自分の言葉純度100%で話せば確実に面倒くさいヤツというレッテルを貼られるに違いない。 まぁ、これだけ他人からの印象を気にしているの

          人間関係の断捨離

          赤の他人への関心

          これまで貧困や教育について精力的に学んできたつもりだ。学校教育の是非とか貧困政策とか。 全部飽きた。 知りもしない人の人生のために自分の人生を捧げるほどお人好しではない。結局どこかで他人事だった。貧困や教育について本気になっている自分は客観的に見て良い人だった。社会的に素晴らしいことをしているような気分だった。 外部からの強制的な課題から束の間ではあるが解放された今、自分のことについてよく考える。これまでのことについて何でこんなことをしていたのかと疑問に持つようになった

          赤の他人への関心

          対話と討論

          最近討論をする機会が多い。ただ、毎回思うことがある。専門家でもない私たちが討論することになんの意味があるのだろうか? その話題に対しての知識を多く持ち合わせる者や言葉を巧みに操れる者が勝者となり正論となる。その場限りの正論だが。 素人の行う討論など自分がより優れているということを小さなコミュニティの中で競うくだらないものだと思っている。 私はそのような議論の場で求めているのは、貴方の意見や考え方であり、何が正しいのかを決めることではない。ましてや勝ち負けなどどうでもいい

          対話と討論

          「死ね」という言葉の重み

          私は死ねと言われても傷つかない。寧ろ、死ねという言葉は重すぎるが故に禁忌とされ、逆説的な意味と捉えられると思っている。 出会ってすぐの人に死ねなんて言わないし言われない。長い時間の中で形成された関係性でのみ使用されるからこそ、冗談というニュアンスを含む。 ただ、そう捉えているのは全員ではない。中学生の頃1度仲のいいと思っていた女の子の友達に「死ねよ笑」とメッセージを送った。私からすれば笑という記号も付けて2重に冗談という意味付けをしたつもりだったのだが、彼女にとっては受け

          「死ね」という言葉の重み

          死骸に群がる蟲(人)

          Twitterのタイムラインに流れてきた自殺ツイート。興味本位で覗いて見た。ツイートを遡ってみると1週間くらい前から自殺を仄めかしていた。いや、断言していた。 その人は障害者だったらしい。その人は線路を最期の場所に選んだみたい。ずっと自殺で電車を使うと多大な人に迷惑がかかるのにどうしてだろう?と思っていたが、自殺するのも大変らしい。 電車を利用する人からすれば人身事故は本当に迷惑だろう。でもその裏には、その迷惑度を遥に上回るくらいの、私にはわからない当人だけが抱える複雑な

          死骸に群がる蟲(人)

          欲の果て

          気分が乗らないから何にも出来ない。何も手につかない。だから今自分がやりたいことを、欲のまんまに行動してみた。 まずはアニメを見る。炎炎ノ消防隊おもしろい。それを見ながらアンパンを1つ。いつもなら栄養バランスの関係上我慢をしているところだが、恐る恐る口にする。5つ入りのミニあんパンの2つ目まではとても美味しく感じたが、残りの3つは少し苦しくなった。別に食べたくはないのだが口に入れたくなる。この感じは過食症のそれに似ているものなのかもしれないとふと思った。 そのままアニメを見

          隣の芝が青く見える問題

          何をやるにも自分以外の人間が付き纏う。ゲームは対戦相手がいるし、勉強してもあいつの方が頑張っているとかあの子の方が優秀だとか。かと言って個性的路線で行こうとしても、他の人のほうがオリジナリティがあるとかないとか。 ずっと勝負の世界で生きてきた私(だいたい負けてきたが)にとって何をするにも勝ち負けが伴う。読んできた本の数とか試験の点数とか人生の豊かさとか。 そうするとSNSを見る度にキラキラしているなと。まぁ、とても短い素晴らしい瞬間を切り取って貼り付けているだけなのは充分

          隣の芝が青く見える問題

          隠れビッチ

          タイトルには性的な快楽と書こうとしたけど周りからの目を気にしてやめた。周りの目を気にしないことがこのnoteを書くことのメリットの1つだったんだけどな。まぁ、そんな時もあるか。 てか、こんなこと書く私に教師になる資格があるのか疑問に思う。周りの人は素質があるよとか言ってくれるけどさ、そりゃ表面上は先生に向いている人格にするさ。だって周りの目を気にしているんだもの。逆に裏表ないことの方がなんか浅そう。どーでもいいか。 タイトルがコロコロ変わる。この行にきて3回目だ。性的な快

          隠れビッチ