対話と討論
最近討論をする機会が多い。ただ、毎回思うことがある。専門家でもない私たちが討論することになんの意味があるのだろうか?
その話題に対しての知識を多く持ち合わせる者や言葉を巧みに操れる者が勝者となり正論となる。その場限りの正論だが。
素人の行う討論など自分がより優れているということを小さなコミュニティの中で競うくだらないものだと思っている。
私はそのような議論の場で求めているのは、貴方の意見や考え方であり、何が正しいのかを決めることではない。ましてや勝ち負けなどどうでもいい。
異なる考え方を持つ人達が集まり多様な意見がある中で共感出来たり、刺激を貰ったりするだけでいい。そこから自分の思考が広がることが大切だと思っている。
だが、結局のところ自分の意見が否定されるとムキになり批判の応酬合戦。勝てば優越感、負ければ劣等感。いらないそんなもの。
否定や批判を受けると嫌な感じになるのはわかる。だからこそ、言葉を使い分けて関係を悪くしないことに務める必要があると思う。ここでトゲのある言葉を並べる人は優越感に浸りたいのだろうと思う。
ただ、批判は大切なこと。しかし、いつ何時討論をしたい訳ではない。互いの承認を得てからするべきであろう。ただ共感して欲しかったり認めて欲しいときもあるのだから。
このようなことを言うのは私がずっと優越感に浸りたいと思っていたからだ。正確には無意識の中でだが。気づけば他者批判。素人の私が相手より少し知識があるというだけで自分が正しいと思い込んでしまっていた。
対話と討論。
この違いに気づかずに議論していた。人格批判をしなければ批判をしていいと思っていた。寧ろ、批判は相手を成長させることだとも。たが、誰もが常に批判を求めているの訳ではない。それは自分もそうだった。
対話と討論。
この違いに気づけた、無意識から意識できるようになった私は1歩前に進めた気がする。
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