【今日の助産師】本当の共感ができなくなる日
皆さんこんにちは!助産師のくるみです。
いつまで続けられるかわからないのですが、
コラム的なものをnoteで配信しようと思います。
タイトルは"今日の助産師"
助産師なら誰でもはっとするタイトルです。笑
本題です。
今日は、共感について書いていこうと思います。
「受容、傾聴、共感」の洗脳
助産師になる前、看護実習の段階から私たちは耳が痛くなるくらい、
受容・傾聴・共感という言葉を刷り込まれます。
この3要素は看護の基本要素として、出来て当然・当たり前、の文化を刷り込まれます。
目をみてタッチケアをしながら話を聞く、相槌やオウム返しも時に必要、相手の話を否定せずに受け止める・・・
そんなことを座学で習います。
そして、侵襲的行為のできない実習で学生ができることは実際、患者さんのお話をベッドサイドで聞くことくらいなのです。
でも、それだけでも学生は患者さんに感謝されます。
なぜなら、受容・傾聴・共感してくれる人を
人は誰だって求めているからなんですよね。
だからこそ、臨床で働く看護スタッフも、当然これができていなきゃいけないのです。
それでも多忙な現場では、できなくなってきく現状があります。
ゆっくり話を聞きたくても、時間がない。
話を聞きながらも、
「あー、○時までにあれをやらなきゃ・・」
「先生の回診そろそろだな・・」
「オペ患戻ってくるな・・」
そんなことが脳裏をよぎります。
そして、なんとか話に区切りをつけて、速足で退散する・・・
そんな日々が現場にはあります。
そんな状況で、私たちは本当の意味での
受容・傾聴・共感ができなくなっていきます。
共感の罠
そして、最も深刻なのは、本当の共感により感情移入しすぎることを無意識下で恐れて、段々と共感の能力が落ちていってしまう事なんじゃないかと思います。
最近実習を終えた学生さんから聞いたエピソードが、このことをよく表しているなと思います。
実習中に救急搬送された患児が亡くなった時、涙を流したのは学生だけだった。
看護スタッフはみな淡々とその時の状況について、振り返りをしていた。
というエピソードでした。
これって、コロナ禍ではたくさん発生している現象なのかなと思います。
多くの患者さんを看取る中で、患者さんの悲嘆のプロセスに出くわすたびに私たちももちろん、辛い思いをします。
それでも、仕事はやってきます。
私たちは立ち上がらなきゃいけないのです。
そういう日々を送っていると、
ある種、自分の中で一線を引いて
受容・傾聴・共感をするようになります。
これは看護職によくある、一種の防衛機制の様なものだと思います。
受容・傾聴・共感はとても大切だけど、やりすぎて自分自身が適切なメンタルマネジメントをできないと、崩壊します。
これが共感の罠です。
もちろん表面的な対応や反応、
受容・傾聴・共感の見かけ上のスキル
は上達します。
もちろんある程度のスキルで、患者さんに安心感を与えることは可能だと思います。
冒頭に言った様に、私たちは受容・傾聴・共感を思った以上に求めているからです。
でも、本当の共感が出来ないと、"相手を知る"と言うところには限界が来ると思います。
共感への勇気
"相手を知る"というのは非常に難しいことです。
私たちは同じ人間という生物ながら、全く違う思考や価値観を持っているからです。
でも、私たちは相手を理解し、尊敬し合い、愛し合おうとします。
私たちは孤独では生きていけません。
どこかで他者との繋がりや、共同体感覚を求めているのです。
だからこそ、受容・傾聴・共感を通して"相手を知る"という事が看護の基本要素になっているんだと思います。
でも、先ほどあげたように、共感には罠が存在します。
他者との繋がりから来る安心感を求めて共感しようとするのに、本当の共感をすると辛さや悲しみを感じるかもしれないのです。
共感を通して、自分の感情や思考を客観的に見つめることで、時には自分自身の嫌な面と向き合うかもしれないのです。
とても、矛盾を感じますね。
それでも、私たちが受容・傾聴・共感を大事にしようとするのは、
共感の罠のリスクを超えた先に、他者との深い繋がりを築けることを知っているからなのです。
だから、リスクも十分に理解した上で、勇気を持って共感してくれる人は強いのです。
そのリスクを超えてきてくれる人を、私たちは信頼するのです。
そして、これが出来る人は、自分自身が満たされている人なのです。
今、医療現場は特に過酷で辛辣な場面に溢れている時だと思います。
医療者自身がギリギリの状態では、ベストなケアも、本当の共感も生まれません。
一人一人が感染対策を心がけて、1日でも早く感染が収束する事を願います。