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追憶のラヴェル


 
 それは一枚の古写真のように、ぼやけて、かすみ、それから郷愁を感じさせる。
 
 つまり、ヴラド・ペルルミュテールの1955年に録音されたラヴェルのピアノ演奏は、郷愁なのである。
 
 どこで見たのだろうか。その白黒写真を。押し入れの奥にしまいこまれていたアルバムか。あるいは古道具屋の小箱のなかか。いずれにせよ、そこに写る人物を眺めながら、ふとこう感じたことを覚えている。
「むかしのひとって、綺麗だなぁ。」
と。
 
 しばしば、古い肖像写真がみせる、あの不可思議な魅力とはいったいなんなのか。それは、鮮明すぎる現代の写真と比べても、まったくひけをとらない。むしろ、染みの浮いた、ざらつく背景のなかで、そのモノクロームの人物は、明らかに美しい。墨でひいたような顔の輪郭。透いた肌。精悍な顔立ちと、憂いと意思でかがやく瞳。それは白と黒で織りなす単純な構図ゆえに、その対象を、漂う空気感さえをも、くっきりと浮かび上がらせている。そして、それらすべてがペルルミュテールのピアノにも、当てはまる。立ち込める煙りのような、ぼうっと漂う、一抹の寂しさまでも。

 ペルルミュテールといういささか風変りな名前のピアニストは、ラヴェル弾きとして知られている。また、ラヴェル本人から曲の解釈について教えられた、数少ない人物でもある。彼は、1950年代と1970年代の二度にわたり、ラヴェルの録音を残しており、その最初の録音は、おせじにも状態が良いとはいえない。つまり、古ぼけて、くぐもり、かすれている。さらにそのスタイルは、今となっては若干素朴すぎるきらいがあるのかもしれない。しかし、その録音によく耳を傾けてほしい。すると、うっすらとたなびく靄の向こう側に、ころころと転がる珠のような音が聴こえてくるはずだ。そして、目を閉じ、じっくりとそれを眺めていると、あえて派手さを排除した真摯な演奏は、どこか作品の特徴を、より表出させているような気がしてくる。すると、かえってその古くささが、じつはラヴェルにはお似合いのように思えてくる。くぐもった音も。ざらざらとした手触りも。あとひく残響も。つまりそれは、私たちがモノクロームの写真の人物を眺めるときに感じるものと、同じたぐいのものなのではないのだろうか。

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 夕暮れの墓地。男がひとり、歩いている。やがて、ある墓の前に立つと、抱えていた花を供える。それからじっと立ち尽くし、墓を見すえる。穴があくほどに。

「今日、あの店の前まで行ってみたんだ。ほら、キミとよく行ったレストラン。東中野の路地裏にある。」

 そう言って、男はうつむいた。

「そろそろ、行けるんじゃないかって思って。でも、やっぱり入れなかった。どうしても、思い出が、多すぎて。」

 その日は一年前に乳がんで亡くなった、妻の命日だった。

「どうやらぼくにはあんまり向いてないみたいなんだ。生きるってことが。とくに、キミがいなくなってからは。」

 背後から吹く北風が、なでつけた男の髪をほどいていった。

「ねぇ、覚えてる。引越しのあとで、まだ空っぽの部屋で、キミがレコードをかけたんだ。たしか、ラヴェルの「クープランの墓」。それからキミは、なんとなく踊ったね。がらんとした部屋の真ん中で。どこか嬉しそうに。でも控えめに。ステップを踏んで。だって、あのときはたしかにまだ、、、」


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 ラヴェルとはそれすなわち、懐かしさに他ならない。それは、すりガラスの向こう側に見る、淡く、華やかで、無垢なきらめきだが、同時に、遠く過ぎ去った彼方の時代のものである。もう、手を伸ばしても決して届かない。かつて失語症に陥った晩年のラヴェルが、自作の「亡き王女のためのパヴァーヌ」をきいて、ぽつりとこう呟いたそうだ。
「美しい曲だね。いったいこれは誰の曲だい?」
と。

 ペルルミュテールの弾く「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴くと、わたしは妙な気分に陥ってしまう。切なくも甘い、まるで子供時代の憧憬のような。いったいこの感情はどこからやってくるのだろう。思わずそう考えずにはいられなかった。
 すると、ピアノの音とともに、過去がよみがえってくる。いつかの友人の言葉。恋人の涙。そうして美しい調べとともに、そのときどきの感情がふと浮かび、追憶のなかで私は、その答えを探し求める。それは何かに似ている。そう、小説だ。小説をつくること。フランス語ではロマン。私たちは知らずうちに、そうしてロマンをこしらえているのではないだろうか。音楽を聴きながら。ラヴェルを聴いて。たとえそれが、最後の一音とともにかき消えるような、儚いものだとしても。


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