ぽんこついんず奮闘記 VOl.1 姉の苦悩
「ほらっ、突っ立てないで、前面に出ていらっしゃいませ。」
私は、震えた声で、「いらっしゃいませ」と言ったが、多分自分にしか聞こえず、百貨店内の雑多な声に、かき消された。
2008年4月、私たち双子は新卒で同じ会社に入社し、希望を胸に社会人の仲間入りをしていた。
双子で同じ企業に入りたかった訳ではなく、お互い志望の第10希望くらいまでは別のセレクトがあったが、軒並みで希望は打ち砕け、たまたま一緒に受けた「NICOLE」という名のアパレル会社が2人とも拾ってくれた・・。
就職氷河期から、売り手市場への移り変わりのあの時期は、まだまだ内定の中から選ぶという経験ができるのは「優秀」という看板を背負っている人だけだったと思う。
2008年4月1日、渋谷の東急ホテルで、私たち2008年新卒入社は、会社に迎えられた。
私達は、あの入社式を忘れないだろう。
ドメスティックブランドというものが今でこそ当たり前になりつつある時代だが、コシノ姉妹や、三宅一成に並ぶ日本のファッションを築いた立役者の一人、松田先生(松田光弘)がそこには居た。
「ロックンロール」そんな声が聞こえるかの風貌で、まさに粋でかっこいおじさんだった。
そして、その年の5月、松田先生は、細胞癌のため亡くなった。新卒で元気な姿を見た最後の世代となったのだ。
この時、私達は「運命」によってこの業界に招かれた。そんな錯覚をしていた・・
このブランドに骨を埋める覚悟で生きる事を決めた。
「声かけないと、売れるものも売れないよっ。」
後ろから先輩に声をかけられ、下を向きそうになった。
入社式から、3日後私達は店舗に配属され、ビギナーズラックで芽を咲かせるのはどの新人か?というレースに立たされていた・・。
開店から2時間で、既に立川店に配属された同僚がレジを開けていた(ここでレジが開くとは、ものが売れたという事)。
店長らは、電話で自店の新人の様子を実況しながら、あの子が売れた、この子も売れたと、報告をしてくれており、プレッシャーでしかないその言葉は、「愛の鞭」と受け止めるしかなかった。
コミュ障ではないが、シャイな自分はまだ商品説明も間間ならない状態で、お客様に声をかける事を躊躇してその日は終わった。
その日、レジが開かなかったのは、都内の店舗で二人だけだった。
私と、もう一人客数の少ない店舗の子。妹がレジが開いたのを知ったのは帰りがけ、
「妹売れてたよ。頑張んな!」
店長の一言で、涙が溢れそうになるのを必死に堪えて家路についた。
翌日から、絶対に売ってやる!悔しさをバネに変えるんだ!
という気合で、キャラ変をして臨んだ。
当時、柳原 可奈子という芸人がカリスマ店員を演じていたが、まさにそのとっかかり「それ、気になっちゃいました?」から、厚かましく会話を続けるプレイで奮闘した。もはや変人である。
しかし、目は¥マーク状態、「買え!買え!」と私の全守護霊が訴えかけたとしても、お客様は、買わされたくないので逃げてしまうのだった。
そうして、2日間、私のレジは開くことはなかった。
この頃には都内の店舗でレジが開いていないのは、自分だけ。孤独な戦いと向いてないという諦めで揺れていると、
「お客さんと話す楽しくない?」
先輩の一言にはっとしたのだった。会話を楽しんでいないから、会話が続かないのか・・。
そこから、会話をただ楽しむ事だけにした時、とある若いママと盛り上がり、2時間は喋っていたと思う。お洒落のポイントとか、タンスの中身とか、どんな系統の服が好きとか。ただ語り合っていたら、とても似合いそうな服が自然と見えてきて、たまたま30%オフをしていたワンピースをお勧めしてた。
「ありがとう、ここまでお勧めしてくれたから、買っていくわ」
その一言がとても嬉しかっった。初めて物を売った経験である。
売れたのではなく、「売った」のだ。
「ありがとうございます。またぜひいらして下さい」
そう言ってお辞儀をすると、簡単には頭を上げられなかった。泣きそうな顔を誰にも見られたくなかったからかも知れない。
そして、小さくなるまで、お客様の後ろ姿を見送った。
あの日のお客様の後ろ姿を忘れる事はないだろう。
「ありがとう」
この言葉の意味を本気で理解した日。
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「ぽんこつ奮闘記」はぽんこつ姉妹が、ぽんこつながらに人生に向き合ってきた記録を残す、シリーズ物となっております。
第1回は、新卒時代のエビソードでした。春から、新卒でファッション業界に入る方、または販売職にチャレンジされる方に届いたら幸いです。
辛い経験は、必ずあなたの血となり、骨となりあなたを強くしてくれるはずです。
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