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『帰らなかった日本兵』インドネシア独立戦争を共に戦った日本人①


日本語教師として初めての仕事はインドネシアの中等教育機関でのアシスタントティーチャーだった。
アシスタントではあったが、それでも現地では困らない程度の給料を貰える上に、海外で仕事ができるわけだから駆け出しとしては大満足だ。
問題なのは、派遣先がインドネシア・ジャワ島の山岳地帯、つまりど田舎であるという事。
近くに日用品を揃えるお店がない、交通の便が悪い、さらに現地語がままならないという状態では、日本の田舎で生活するのとはやはり勝手が違うだろう。

さらに、私が派遣される町、テマングンをネットで調べてみてもなかなか情報が少ない。
Googleアースで衛生写真上を彷徨ってみても、そこにあるのは何とか整備された一本道と、民家と思われる建物が数軒あるのみで、あとは見渡す限りの森。あかん、とても不安だ。

●初めてのインドネシア

初めてテマングンにやって来た日、予想に反しすぐこの町が好きになった。
一体どこまで行ってしまうのかと不安になる程の山道を抜けると、目の前にはまるで富士山のように綺麗な形をした山が二つ。ズンビン山とシンドロ山。眩い太陽を背負い、ようこそと言わんばかりにお出迎えをしてくれている。
地方の田舎で育った私にとってその風景はとても身近に感じられ、一方で南国独特の空気感から異国に来たのだという高揚もあり、今後7ヶ月の生活を思うととてもワクワクしたのを覚えている。
何より前日までいたジャカルタの騒音、行き交うバイクから排出される黒い煙に当てられ、沈鬱な気分にならなくて済む事にほっとした。

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朝4時のアザーンで起こされる。
それ以外はとても穏やかで、何の不便もなく過ごせていた。

滞在先のホテルの前にはコンビニがありATMもある。スーパーへ行こうと思えば、ホテルでタクシーを呼んでもらえる。なんだ、案外快適じゃん?
なにより、派遣先の高校の生徒たちがとても真面目で、スレていないと言えばいいのだろうか、とにかく敬意を持ち温かく受け入れてくれることが幸いであった。

しかし、本当に何の困難もなく、、その事に少し違和感を覚えた。

町には日本人どころか外国人すら居ない上に住民のほとんどがイスラム教徒であるため、女性はヒジャブで頭を覆い、普段はくるぶしまで隠れるロングスカートを身に纏っている。
それに対し私はというと、露出は少ないもののヒジャブは被らず、基本パンツスタイルであったため、イスラム教徒の格好とはかけ離れていた。
すると、町を歩くと多少目立つ訳だが、目立つ事自体は想定内であった。
それをすんなり受け入れられてしまう事が想定外だったのだ。

私としては自分自身を異文化として紹介する事で日本(日本人)を知ってもらうという使命感を持って渡尼した。
しかし現地の反応は私の期待に反し、あたかも既に日本人が馴染み深いかのような薄い反応。

あれ?思ってたのと違う。

こうもすんなり受け入れられてしまうとは、私はこのインドネシアのど田舎に一体何をしに来たのか!そんな自問自答をすることもあった。
だが、その感じた違和感が何なのか、帰国直前になり思いがけず判明する事となる。

●日本兵との知られざる歴史

休日はタクシーで40分かけてモールへ行き、アメリカ資本の某チェーン店でドーナツとコーヒーを注文し、のんびりと過ごすことが日課になっていた。

その日もいつも通りにコーヒーを飲み、必要な買い物も終え、帰り道に現地人タクシードライバーと拙いインドネシア語で会話をしていた。

窓の外にはいつもの橋がある。あの橋を渡った先がテマングンであり、ホテルはもうすぐそこだ。
私の中ではその橋がホテル到着の目印となっていた。
忘れ物がないようにと、身支度を始めた時だった。

「この橋は大虐殺の橋って言ってな、昔たくさんの人が殺されたんだ」

不意に告げられた事実。
私は心底驚き、「ええ!?」と何とも日本人らしいリアクションをしたのを覚えている。

この平穏な町には相応しくない大虐殺という響きはどうしても衝撃的であり、ひどく耳に残った。
ホテルに帰るや否やパソコンを引っ張り出して取り憑かれたかのように調べ漁った。

分かった事は、第二次世界大戦後に激化したインドネシア独立戦争時に、国内の農村地で激しいゲリラ戦が繰り広げられ、このテマングンもそのゲリラ戦地の一つだったという事。
そして第二次世界大戦中、インドネシアに上陸した日本兵の部隊553名がテマングンの地に留まっていたという事だ。

この時の感情は今でも忘れられない。
テマングンに来てからは、限られた時間の中で自分に何ができるのか、この地に何を残し、人々に何を与えられるのか、そんな事ばかり考えていた。
しかしどうだ。
私はこの地を人々を知ろうとしていただろうか。人々は寛大な心で私を受け入れてくれているが、私は受け入れようとしていたのだろうか。とんだ押し付けがましい使命感だな、私はそう自分自身に絶望した。
この地を、人々を知ろう。私の使命はそう変わっていた。

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次の日、早速仕事のパートナーであるユニ先生(現地人日本語教師)に独立戦争時のテマングンについて、テマングンに留まっていた日本兵について聞いてみた。

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poneri「昔、戦争がありましたね、テマングンはどうでしたか。大変でしたか。」

ユニ先生「はい、テマングンと周りの町では、たくさん人が殺されました。」

poneri「そうですか、、戦争の時、日本人がテマングンにいたとインターネットを見て知りましたが。」

ユニ先生「日本人の兵士がテマングンに住んでいましたよ。ぽんえりさんはバンバン・スゲンさんのモニュメントに行きましたか。」

poneri「いいえ、それは何ですか。近くにありますか。」

ユニ先生「ぽんえりさんが住むホテルの隣にありますよ。そこに行けばよく分かります。」
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まさか滞在するホテルの横にヒントが隠されていたとは。その事実に何度目かの衝撃を受けつつ、私は仕事が終わり次第そのバンバン・スゲンモニュメント(石碑)とやらに行ってみることにした。
だが、ここでふと不安がよぎる。
大虐殺の橋、テマングンで殺されたたくさんの人々、滞在していた日本人部隊、、、この情報から結びつくのは、日本兵が当時の占領地であるインドネシアの人々を虐殺したという事実ではないだろうか。

ふと、ユニ先生や生徒の笑顔が頭に浮かぶ。

へつづく。

#この街が好き
#一度は行きたいあの場所
#私の仕事
#インドネシア

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