『スローターハウス5』
「ドレスデンの空爆+時間を行ったり来たりするSFを今読んでいるんだけど、きっと君もハマると思うよ」
そんな感じで紹介されたのが、カート・ヴォネガット・ジュニア作の『スローターハウス5』だった。以前から第一次〜第二次世界大戦の時代を描いた作品が好きだったことと、丁度『夏への扉』を読んでSF小説ブームが来ていた私にとって、その紹介は効果抜群であった。読み終わったら貸してほしいと相手にお願いをしてしばらく、楽しみにしていた私の手元にその本は届いた。
そんな経緯で読むこととなった今回の作品。感想を一言で述べると「トラウマに苦しむ人へ送る救済の物語」だ。
すでにその本は持ち主に返して自分の手元にはない。だから、記憶を頼りに感想日記をつける。もしかしたら書かれているのに見落としていたり、記憶が違ってしまっているかもしれない。だけど、これはあくまでも感想日記。だから、そこのところはご容赦願いたい。
本作品の構成と時間軸
不思議なことに、この作品はあとがきのような語りから始まる。どうしてこの作品を書こうと思ったのか、完成するまでの経緯。そういったことが述べられたあとに本編に入る。そして、主人公ビリーは時間を往来する時間旅行者であるため、まるでチャンネルをバチバチと変えながらテレビを見続けるように、頻繁に自分の人生の過去、現在、未来を行き来する。
本編は主に以下の3つの時間軸が入れ替わりながら話が進む。
第二次世界大戦中
戦後の生活
トラルファマドール星での生活(戦後)
第二次世界大戦中
第二次世界大戦中、ビリーは訓練も受けずにアメリカ兵としてドイツに出征し、出征先のドイツで道に迷った末にドイツ軍の捕虜となる。そして、貨物列車での移動や強制労働で次々と他の捕虜が死んでいく中、ビリーは生き延びる。最終的にビリーを含む生き残ったアメリカ兵捕虜たちはドレスデンに移動させられ、そこで母国アメリカ軍による空襲を受ける。美しかった街は見る影もないほどに破壊され、ほとんどの一般市民が死亡するが、捕虜の収容先が頑丈に作られていた地下の屠殺場だったためにビリー達は助かり、生き残る。その後戦争が終わり、ビリーは母国アメリカに帰国する。
戦後の生活
この時間軸については、大きく「トラファマドール星人に拐われる前」と「トラファマドール星から帰ってきた後」に分けられる。多少おぼろげなところもあるが、記憶を頼りにまとめる。
「トラファマドール星人に拐われる前」
ビリーは本国に戻ったあと眼科医になるための学校を卒業し、眼科医の娘と結婚する。妻との間には二人の子どもが生まれ、眼科医としても成功し、豊かな生活を手に入れる。その生活の中で、彼は息子の非行に困ったり、他の女性との不貞を働いたりもする。
「トラファマドール星から帰ってきた後」
飛行機事故で同僚が全員死んでしまう中で自分だけ生き残ったり、不慮の事故で妻を亡くしたりとビリーの身の回りで不幸が立て続けに起こる。さらにこの飛行機事故を境に、過去、現在、未来を行き来するようになる。その後、ビリーはトラファマドール星で学んだ時間の概念などについて伝える活動を始め、最後は自分が時間旅行で経験したとおり、大衆の面前でスピーチをした後に殺される。
トラファマドール星での生活(戦後)
戦後、家庭を持ち眼科医として活躍をしていたある日、突然ビリーは円盤状の飛行物体に拐われる。それはトラファマドール星人の宇宙船だった。ビリーは地球人のサンプルとしてトラファマドール星に連れて行かれ、そこで動物園の動物のように展示される。更に、地球人の交配を見たいトラファマドール星人により、有名なポルノ女優が新たに地球から拐われてくる。最初は自分の置かれた状況にパニックに陥っていた彼女だったが、段々とビリーを信頼するようになり、最終的に二人はセックスをして子どもを持つ。
トラファマドール星人とその人生観
では、ビリーが出会ったトラファマドール星人とはどんな存在なのか。
彼らは過去現在未来のすべての時間を自在にを見ることができる。その一方で、たとえ望まぬ出来事であっても、彼ら自身でその運命を変えることができない。だから彼らは自分に起こる不幸な出来事を「そういうものだ。」(後に彼らから学んだ考え方としてビリー自身も随所で使用する)と受け入れる。そして、つらくて嫌な時間には目を逸らして無視をし、幸せで好きな時間に焦点を当て、意識を集中させて過ごす。
このことから、トラファマドール星人は自分の人生に起こることをもの凄く割り切って受け止め、諦観した中で最大限に幸福に過ごそうとしている合理的な人生観を持った存在だと受け取れる。
「トラウマ」というワードが導き出された理由
このワードが私の頭の中に浮かんできたのには、以下の理由がある。
戦後、ビリーが精神的に不安定であることに対して、「誰も戦争の経験が原因だとは思わないようだ」とビリー自身が述べている。
第二次世界大戦中のつらい出来事に対して「そういうものだ。」と表現する場面が髄所にある。
時間旅行をビリー自身がコントロールすることはできない。
本小説に付された解説で暗示される「隠されたテーマ」の存在
帰国後の不安定な精神状態
第二次世界大戦終戦後にドイツから帰国した後、ビリーは自身の不安定な精神状態に苦しめられる。彼の周りの人間は、それを幼少期の経験によるものだと考えていた。しかしビリー自身は、その原因を過去の戦争体験にあると考えている。つまり、ビリーは戦争によるPTSDに苦しんでいるのである。
第二次世界大戦中の悲劇に対する諦観した姿勢
次に、ビリーは第二次世界大戦中に目の当たりにする数々のつらい出来事を「そういうものだ。」と諦観の境地ともいえる姿勢で受け止めている。戦いに向かない性格にもかかわらず戦場に送られ、人が次々と死に、最後は自国軍による非武装地帯への爆撃に巻き込まれる。普通に考えたら、悲痛な想いに溢れたビリーがいてもおかしくない。(この戦争体験がPTSDの原因だというのであれば尚更だ。)さらに、この「そういうものだ。」という言葉は、過去も現在も未来も変えられないトラファマドール星人が自身の運命を受け止める際に使うものだ。だから、この第二次世界大戦中の時間軸は、戦後において、さらに言えばトラファマドール星から帰ってきた後に、過去を振り返ったビリー自身の記憶だと考えられる。
コントロールできない時間旅行
では、ビリーは意識的に自分の過去を振り返っているのだろうか。そこについては時間旅行がビリーにとってどういうものなのかで説明できる。ビリーは時間旅行を自身でコントロールできない。そして、それが突然起こってしまうため、ビリーは緊張によるあがり症を感じている。つまりビリーは、この時間旅行を前向きには受け入れてはいない。このことから、この時間旅行は超然的な現象を意味しているのではなく、つらい第二次世界大戦中の記憶のフラッシュバックを暗喩しているのではないかと私は感じた。
解説で暗示される「隠されたテーマ」
また、この小説にはあとがきのように解説がついている。その中で「この作者は伝えたいことをそのまま書くような能のないことはしない」といったことも書かれていた。そういったことからも第二次世界大戦中のドレスデン爆撃と時間旅行というSF要素を絡めたこの小説には、単なる「時間旅行を扱ったSF小説」以上のものが込められていると言える。そして、前述した3つの理由から、この小説は「時間旅行のSF小説」の皮を被った「第二次世界大戦の体験が原因でPTSDによるフラッシュバックに苦しむ主人公の物語」であると私は感じた。もっと端的に表現すると、「トラウマに苦しむ人の物語」である。
トラファマドール星人という救済
では、どうすれば苦しんでいるトラウマから解放されるのか。それに対する答えを、この物語ではトラファマドール星人の人生観で示している。今回、私は以下の2点に注目した。
起こることは自分の力では変えられない。だから「そういうものだ。」と受け止める。
幸せな時間に意識を向け、いやな時間は目を向けずに無視をする。
不幸な出来事に対する諦観
トラファマドール星人は過去から未来まで、すべての出来事を把握することができる。しかし、たとえ彼らの望まないことが起こるとわかっていても、その運命を避けることはできないと彼らは考えている。そのため、彼らは不幸な運命を避けようと考えたり動いたりはしない。そして彼らは彼らに起こる不幸な出来事を「そういうものだ。」と淡々と受け止める。
では、地球人はどうか。トラファマドール星人は地球人のことを「自由意思を持つ存在」として大変珍しく思っている。なぜなら地球人は望まぬ未来を回避しようと考え、行動するからである。それを逆に考えると、我々地球人は、自分の身に降りかかってしまった不幸をどうすれば避けることができたのだろうと、いつまでも考え続けてしまうことも意味する。避けられなかった不幸な出来事を振り返り、後悔し続けるのも、「自由意思を持つ」からこそではないだろうか。
過去の辛い記憶にとらわれるトラウマも、それを避けられたかもしれないという「自由意思」にから生まれてしまう苦しさかもしれない。そうだとすると、過去も現在も未来も、運命は変えられないとするトラファマドール星人の「そういうものだ。」という考えは、「自由意思」からの解放にならないだろうか。「自由意志」から解放されたとき、過去の不幸を後悔することにも、望まぬ未来の出来事を憂うことにも意味がない。なぜなら、自分にはどうしようもないことなのだから。
だから「そういうものだ。」と不幸な出来事を受け止めることは、トラウマに苦しむ人にとって、「諦め」という形でつらい過去からの解放されることを意味するように感じられる。
記憶の取捨選択
次に、トラファマドール星人はすべての運命に無力な中で、どうやって人生を楽しむのか。それは笑ってしまうほど単純で、「幸せな時間だけを見て、嫌な時間に対しては無視をして見ないようにする」というスタンスで生きるのである。「なぁんだ、誰だってできることではないか」と思ってしまうが、おそらくトラファマドール星人のそれは、とことん徹底されている。
たとえ、昨日愛する人が死んだとしても、彼らは決して振り返って悲しまない。好きな時間に焦点を当てて集中することができるので、きっと彼らは愛する人が生きていた時間を常に見続けて、その人を失った寂しさには意識を向けないだろう。そして、もし自分が今日死ぬとわかっていても、楽しく生きていた今までに意識を集中するから、もう来ぬ明日を悲観したりはしないのだろう。
トラファマドール星人は過去現在未来のすべての時間を見ることができる。言い換えれば、彼らはすべての時間の記憶を持っている。だからトラファマドール星人にとっての「時間」は、私たち地球人にとっての「記憶」に置き換えられると私は考えている。そうすると、トラファマドール星人が見たい時間を取捨選択することは、私たち地球人が、幸せな過去のみを振り返り、嫌な記憶には蓋をするのと同じだ。
これらのトラファマドール星人の人生観から、トラウマへの対処法を考えてみる。一つは、どんな不幸も自分にはどうしようもないことだから「そういうものだ。」として諦めて受け止める。もう一つは、つらい過去の記憶に蓋をして、幸せな時間にだけ意識を向ける。実に単純明快な話だ。ただ、そうはいってもそう簡単にはできないからこそ、主人公ビリーは地球に帰還した後もフラッシュバックに悩まされるのであるが。だが、それでもビリーは、フラッシュバックである第二次世界大戦の記憶の中で、もしくは戦後の生活の中で、彼に降り注ぐ不幸に対して彼なりに気持ちの折り合いをつけようとしている。「そういうものだ。」と言ってみることで。
誰に向けた物語か
最後に、この作品が誰に向けたものであるか、少し考えてみる。
まず真っ先に浮かぶのは、主人公のビリーと同じように、第二次世界大戦をはじめとした戦争体験によってPTSDを発症してしまった人々。もっと広く捉えれば、トラウマに苦しんでいる人全員に対して向けられた物語だと思う。
そして、本小説に付された解説で、この小説は作者であるカート・ヴォネガット・ジュニア自身の半自叙伝的要素があると述べられていた。この物語の中でビリーが体験した「第二次世界大戦でアメリカ兵として出征し、ドイツで捕虜となり、ドレスデン抑留時に自国アメリカ軍による空爆にあう」という一連の出来事はすべて、カート・ヴォネガット・ジュニア自身のものでもあるらしい。
もしかしたらこの作品が執筆されたのは、作者自身がつらい戦争体験の過去と向き合うためだったのかもしれない。その真意をこの小説のみから感じ取ることは今の私には難しい。それでもこの作品は、つらい過去に苦しむ人々に寄り添おうとしているものだと感じた。
トラファマドール星人のように未来に向けての努力を放棄し嫌なことから目をそらし続けることは、本来良いこととはされないだろう。それでも、つらい過去に囚われてしまい前に進めなくなった時、心の安らぎや休息を得るために彼らの人生観を参考にしてもいいのかもしれない。「そういうものだ。」と言いながらも自分の意思を持って最後まで生きたビリーのように。
2024.7.17 修正
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