毒親育ちの治療:成育歴/~低学年
まず、簡単な成育歴からお伝えしていきたいと思います。
両親について
・父親:妾さんを作って盆・正月以外は実家に帰ってこない父親と、それを黙って支える母親の元に生まれる。兄姉姉姉の5人兄弟の末っ子
・母親:造船所に勤める父親と母親は何してるかわからない?の元に生まれる。長女・双子の姉の3人姉妹の末っ子
もう、最初から何かおかしいですが、気にせず行きましょう。
家族構成:父親・母親・兄・自分
父親:バブルで大手企業の役職に。関東転勤→単身赴任→その後自営業へ
母親:黙ってそれを支える。途中からパートを始める
兄:6歳上。頭がよく、県内の進学校へ中学から通うも、高1で中退→高卒検定→大学中退→専門中退→結婚→離婚→引きこもり→父親の会社を手伝う
荒れていますね!
さて、本編にいきましょう。私の成育歴!
親が関東で仕事をしてる時に生まれる。超未熟児で1kgなかったため、救急車で病院に運ばれ、酸素室で過ごす。将来は障害がどこかに残ると医師に宣告される。
無事酸素室を卒業。幼稚園から小学2年生までは、喘息で入退院を繰り返していたらしい。ほとんど記憶がない。うっすらある記憶は、おばあちゃんの家のソファーで寝てテレビを見ている自分と、幼稚園のマラソンで転んだ記憶、落とし穴にはまった記憶、小学校の2年生の時に、日直で「土日になにをしたか」を喋らされる時があり、「しがらき?って所にいきました。」と言うと、そんな所はありませんと先生にぶち切れられた記憶、給食が食べきれずに、お昼休みも食べさせられていた記憶ですね。
おそらく、信楽ってのは、信楽焼き(滋賀県)という焼き物の産地です。父親と母親の趣味が骨董品屋巡りだったため、子供らしい、「遊園地」や「プール」や「動物園」などに家族で行くという事はありませんでした。
骨とう品屋さんの狭い通路を、物を割らないようにそっと歩くそんな日々でした。
自分が小学校1年生の時に、兄がちょうど小学校6年生でした。兄の同級生にかわいいかわいいと褒めてもらっていた記憶はありますが、同時に登校で歩くのがとても遅く、兄に棒でつつかれながら、毎日泣きながら登校していました。
兄は、河合塾に通いながら勉強。テレビは押入れ部屋の中に仕舞われて見られない状態にされていたので、二人でこっそりとテレビのケーブルをつないでみた記憶があります。
年代は変わりますが、小学生のころにはスーファミのやりすぎという事で、コードだけ捨てられるという事態が発生します。
小学校低学年までの流れはまず、こんな感じです。
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