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鉄道マニアから見る『東京ブギウギ』誕生の考察

2023年度後期のNHK朝ドラは笠置シヅ子の人生をテーマとした『ブギウギ』という事で、個人的にも朝ドラに関連したCDをという事でユニバーサルミュージックから『踊れ!ブギウギ ~蔵出し戦後ジャズ歌謡1948-55』と言う「笠置シヅ子の歌声の入っていない、が、しかし当時のブギウギ歌謡やジャズ歌謡のムーブメントを俯瞰することが出来る楽しくも画期的なSP音源アルバム」としてプロデュースした。

このCDでは戦後の進駐軍によって再びもたらされたジャズ音楽やラテンやカントリーなどを含めた多彩な外来音楽を歌謡化した曲をふんだんに収録した。もちろん、ブギウギ歌謡の未復刻音源は集められるだけ集めて投入した、いわばオモチャ箱のような楽しさであふれる1枚に仕上げた。いや制作過程つまり音源を追い求めてゆく過程で想像以上に戦後のブギウギ歌謡を端としたジャズ歌謡のムーブメントとダイナミズムに感心する物に仕上がってゆくのをひしひしと感じた。是非これは朝ドラ『ブギウギ』で終戦直後の歌謡曲に興味が出た皆様にお求めいただきたい一枚である。

さて、『東京ブギウギ』の作曲者である服部良一がこの曲を作曲するに至るまでには多少バックボーンをさらっておく必要がある。
まず、「ブギウギ」と言うものは日本で言う所の「戦前」から登場した形態である。服部良一自身の視点で言うならアンドリューズ・シスターズの『ブギ・ウギ・ビューグル・ボーイ(Boogie Woogie Bugle Boy)』の楽譜を昭和17(1942)年に入手したことが本人の自伝などで登場する最も最古のものである。
ただし、日米開戦の前夜にはこの「ブギウギ」と言う形態は既に日本で知られていたようで(ただし、もちろんジャズ音楽の通人のみだろうが)日本の戦前から開戦直後までの軽音楽レコードでブギウギを意識した編曲がなされたものが散見できる。
しかし時勢としては通称七・七禁令(しち・しちきんれい)と言われた奢侈禁止令の後では大きなムーブメントとして盛り上がるだけの空気は流石に持ちえなかったし、早晩日米開戦でアメリカのジャズ音楽は禁止されてしまう。(ただし、「ジャズ」は禁止されても、素人には「ジャズ」に内包される「ブギウギ」のリズムはわからなかったであろうから、かえってサウンドとして実験的に使用された例もあった。服部良一も自伝の中で陸軍報道班員として上海駐在時代に李香蘭の『夜來香幻想曲』のラストの一部でブギウギを実験的に使用したとある)

そんなバックボーンがあったうえでの『東京ブギウギ』である。
愛する人に先立たれ乳飲み子を抱えた笠置シヅ子が働いて頑張らねばと服部良一に懇願したことで生み出された名曲であるが、この曲の誕生について自伝では

笠置シヅ子の再起の曲を引き受けてまもなく、たぶん、新橋駅に近いコロムビアで『胸の振子』(サトウ・ハチロー詞・霧島昇歌)を吹き込んだ帰りだったと思うが、中央線の終電近い満員電車に乗っていた。勤め人にまじって復員服姿や買い出し帰りの男女も多く、みな虚ろな目をして、つり革につかまっている。
ぼくもつり革を握って、疲れたからだを電車の振動にゆだねていた。そのうち、降りる駅が近くなって意識がしゃんとしたせいか、レールをきざむ電車の振動が並んだつり革の、ちょっとアフター・ビート的な揺れにかぶさるように八拍のブギのリズムとなって感じられる。ツツ・ツツ・ツツ・ツツ・・・・・・ソ、ラ、ド、ミ、レドラ・・・・・・
電車が西荻窪に停まるやいなや、ぼくはホームへ飛び出した。浮かんだメロディーを忘れないうちにメモしておきたい。

『僕の音楽人生 エピソードでつづる和製ジャズソング史』服部良一 日本文芸社 1993年

とある。なるほど、ほほうと個人的には合点がいく文章ではある。
ところが、朝ドラ『ブギウギ』に関連してありがたいことにNHKでの関連番組の監修を複数いただいて、そのミーティングの際に必ず疑問が呈されるのが「電車に乗っていてブギウギのメロディーが想起されるというくだりがよくわからない」と言うものなのだ。

僕は昭和47(1972)年生まれの本年で52歳となる団塊ジュニアであるが、テレビ局の第一線のディレクターやプロデューサーをしている人たちは同年代か、多くは20代や30代の若者である。
「そうか、昔の電車の話からしないと伝わらないのか」という事に気付いた。
かく言う僕の子供のころの記憶でも、古めの電車と言えば東武電車の7800系(ここから急に鉄道のレアな話になる)と言う後述する国鉄63系をベースとした電車であった。これは床が木製の板張り、片開き扉、釣掛け式駆動、もちろんエアコンは無い、昭和20年代そのものの電車であったが、それでも千葉から母親の実家の春日部まで京成電車や地下鉄を乗り継いでも、そこまでお舊い電車は既に首都圏でも鬼籍入りしていてお目に掛かれなかった。

『東京ブギウギ』が作曲された昭和22(1947)年当時の鉄道事情を振り返ろう。当時は東京の空襲で電車が消失し、荒廃が激しかった。しかも、戦時下には「数年使えればよい」と言う思想のもと、戦時設計と称した蒸気機関車から電気機関車、そして電車まで代用品を使用した極めて粗悪な車両ばかりであった。そのなかの空襲の被害から逃れた動けるだけのものを動員して鉄道輸送していたわけだ。
その戦時設計の国鉄63系については、以下のWikipediaのリンクを貼っておくので参照されたい。

この項の後半に愛知県にある『リニア・鉄道館』に保存されているモハ63638の室内画像が提示されているが、驚くべき簡略化がなされており、「戦時下」と言う狂気が一体なにを世間に要求するのかをまざまざと見せつけられるようだ。
さて、昭和22(1947)年ともなれば、じわじわと復旧車両が製造されつつある時期でもあるが、それでもまだまだ買い出しの電車は窓からの出入りをする始末で荒廃が激しかった。そして、復興するにも重要産業から集中的かつ強制的に投資と注力がなされていたので、各産業の復興が遅々として進まない時期でもあった。

『東京ブギウギ』の着想の中に「レールをきざむ電車の振動」とあるが、これはレールの継ぎ目を車輪が渡る音の事である。そのぐらいの事は現代人でも承知かと思われるが、実は近年のレールは長尺レールやロングレールと言った継ぎ目を溶接した車輪が渡る音が少なめになっているのである。これは新幹線が登場して以降に普及した物であるから、当時の中央線では25メートルの定尺レールを使用していたと考えられる。つまりしきりにレールを車輪が渡る音がしたというわけだ。
更に、当時は慢性的な人員不足から保線も現代ほど満足に行き届いてないと考えられる。
そして、旧型電車の特徴としては「つり革が長い」「つり革は網棚の縁と干渉しやすい」と言う点を見逃してはならない。「並んだつり革の、ちょっとアフター・ビート的な揺れにかぶさるように」と言うのはつり革が天井から長く垂れ下がっている状況が必要なのだ。

例として以下の動画をご覧いただきたい。

恐らくこれに近い状況が昭和22年(1947)年の中央線では繰り広げられていたのではなかろうか。この激しい車体の揺れとつり革の遅れてやってくる揺れはまさに『東京ブギウギ』を想起するにはぴったりの情景ではないか。
「昔の電車はやたらに揺れてね」と言う証言は高齢者の言によらずとも、路面電車で戦前から昭和20年代ごろの車両を現役で使用している路線の電車に乗れば体感できる。同じ線路でも最新式の電車と釣掛け式の電車ではこうも揺れ方が違うのかと。

と言うわけで、テレビ番組の監修はここまで深堀りしないと伝わらないわけなのだが、年末に監修した『偉人の年収 Hou much?』ではなかなか的確なアニメで表現されていてスタッフの理解力に感心した次第。

さて、3月にも同様にNHKの番組を監修したのでこうご期待!


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