『美術の物語』 読書メモ
以前、読書メモのブログを持っていた。
何のきっかけか思い出せないけど、丸ごと全部消してしまった。本業の情報技術や経営管理関連の書籍のみならず、哲学、歴史など幅広く読書のメモを記録していた。
もったいなかった。まさか、大学院でアートの研究をするとは思ってもみなかった。
ゴンブリッチの『美術の物語』、ファイドンから出版されていたけど、日本撤退に伴って廃刊になった。古本がすごいプレミアがついていたから、河出書房新社から復刊されたのはありがたい。
現在重版中らしい。
2019年の初夏、なんとか手に入れた美術の物語を読み始めた。これが、とてつもなく面白い。歴史書ではなく、物語としたところがポイント。
アーティストは、”これで決まり”となるまで、作品と向き合う。不完全な世界に、完全なものを出現させるためである。
画家の見え方と実際の"もの"の形や色に乖離がある。画家が見たように描いた絵画作品は画家の"もの"の見方と感じ方によるものである。ディズニーの絵が不正確だとして憤慨する人がいないように、鑑賞者は様々な作品を認めている。ここにアート思考の根っこ(のひとつ)があるように思う。
古くは徒弟制度によって親方から技術を学び、それまでの仕事、伝統を引き継いでいた。技術、規則をすべて習得してしまえば、徒弟修行はそれで終わりであり、その後は独立する。目新しいものは求められなかったし、独創的なものなどまったく要求されることがなかった時代だった。
宗教画は先人が描いたものが正しいとされ、新たなアーティストの解釈を追加した作品は否定される。それどころか、過去の記念すべき名作とそっくり同じ作品を作ることができたら最高の作り手だと言われた。エジプト美術は3000年以上ほとんど変化することがなかった。
エジプトの美術は知識に基づくもの(つまり知っていることを描く。目はこの形、足はこの形、だからエジプトの絵は横向きなのに目が正面になっている)だったが、ギリシャ人は自分の目を使い始めた。
新機軸が打ち出されると、誰もが熱心にそれを取り入れ、自分自身の発見をそれにつけ加えていく。一旦、この革命が起こると、もう止められない。彫刻家たちはそれぞれの工房で、人体表現の新しい考えや方法を実験していくことになる。ある法則に従ったわけでもなく、どうしてそうなったのかは画家自身の実験と試行錯誤の結果であり、どうしてそうなったかは答えられない。ある法則に従ったとしても、何も成果をあげられないケースもあれば、法則を無視しても新しい調和を見つけてしまうこともある。残酷な仕掛け。
アーティストがどんな効果を狙っているのかは、前もって知ることができないのだから、本当のところ、この種のルールを定めることは不可能である。
僕はアーティストの思考を模倣してビジネスに活かそうというアート思考については懐疑的、否定的な見方をしている。恐らくメソッドなりの開発はできるだろうけど、それをビジネスパーソンに知らしめるワークショップは、思ったほどの効果を上げられないのではないだろうか。
絵画が、キリスト教の布教、教義を広めることに有効であると、6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世が主張した。読み書きのできない人たちに教えを広めるには、子どもに絵本が役に立つのと同じで、絵で理解できる画像が有効である。偉大な権威が絵画を推奨したことが美術の歴史にとって大きな意味をもった。
グレゴリウス1世の言葉は、以降、教会における図像の使用に反対の声があがるたびに、ルターの宗教改革に至るまで、くりかえし引き合いに出されることになる。こうした権威による容認により、美術が権威付けされたが、許容される美術は限られてくる。過去の作品ばかりが賞賛されるようになり、ますますアーティスト達は、自身の心から湧き上がるものを頼りにしなくなってしまった。
数百年にわたって、中国でも、日本でも、絵の水準はきわめて高く保たれたものの、美術はますます上品で凝ったゲームのようなものになる。駒の動きがわかってしまうと興味のもてないものとなっていく。つまり技巧のみに集中してしまったということ。作品と向き合うというよりは、様式の正しさを判定する審判員になってしまうということか。
エジプト人は知っていることを描いた、ギリシャ人は見えていることを描いた、中世の画家は感じていることを描いた。神をあらわしたとしても、そもそも神を見た人は居ない。
見えるとおりに描きたいという欲求を捨て去ったとき、画家の前にはすばらしい可能性が開かれた。中世の画家たちは、より複雑な構成方法に自由に挑戦できるようになった。このような方法がなかったら、教会の教えが目に見える形に翻訳されることなど、ありえなかった。
彼らは絵に合わせてどんな色でも好きに選ぶことができた。金細工の鮮やかな煌びやかさと光沢のある青、そして、写本装飾の強烈な色彩、さらには、ステンド・グラスの窓の燃えるような赤と深い緑。自然から独立した当時の名工達が、その自由をみごとに生かしている。
自然界を模倣する義務から解き放たれたことによって、彼らは超自然の世界を表現できるようになったのである。
ゴシック大聖堂の入口に並ぶ彫像には、わかりやすいシンボルがついているので、信者たちはその彫像の意味を理解し、いろいろ思いめぐらすことができる。ゴシックの彫刻家の関心が、なにを彫るかだけでなく、どう掘るかにも向けられていたことがわかる。ギリシャ時代と同様、彼らは、たんに自然を模写するためではなく、人物を生き生きと表現するために、ふたたび自然を見つめ始めたのである。
ギリシャ美術とゴシック美術のあいだには大きな隔たりがある。紀元前5世紀のギリシャの彫刻家にとっては、どうやって美しい身体像を作り上げるかが問題だった。しかしゴシックの彫刻家にとっては、そのような方法や技巧はたんなる手段にすぎず、本当の目的は、聖なる物語を感動的に、説得力をもって語ることにあった。物語の筋を伝えればいいというものではない。そこに秘められた意味が問題である。物語は信者たちに慰めを与え、彼らを高みに導くものでなければならない。
フィレンツェの画家ジョット以降、まずイタリアで、そしてほかの国々でも美術史というものが偉大な芸術家の歴史となった。作品から作家への転換であろう。古代のギリシャ人やローマ人のように、人体をよく研究して、その知識を彫刻や絵画に活かしたかった。画家や彫刻家の関心がこういう方向に向かったとき、中世美術は真の終わりを迎えたのだった。歴史上、初めて、画家が言葉の真の意味で完璧な目撃者になったのである。
この時期、ヨーロッパのいたるところで芸術家たちは真実の追求に情熱をそそぎ、従来の美の観念に反抗していた。人間の暮らしをもっと美しく優雅なものにするという美術の役割は、中世のあいだも忘れ去られていたわけではない。イタリア・ルネサンスと呼ばれる時代に、それがいよいよ大きく前面に出てきたのである。職人なら、靴でも食器棚でも、ときには絵でも、すぐさま注文どおりに仕上げなければならない。が、アーティストは、もはやただの職人ではない。自分の足で立ち、自分の考えをもつようになったのだ。そうなると、名声と栄光を勝ちとるために、みずから自然の神秘をさぐり、宇宙の隠された法則を追求しないではいられない。
アーティストの地位の向上により、アーティスト達は自分の好みに合った注文を選べるようになり、もう雇い主の気まぐれや嗜好に合わせる必要がなくなった。この偉大な自然の観察者は、私たちが目をどんなふうに使っているかを、過去の誰よりもよく知っていた。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、どうしたらこんな効果が出せるのか、そのためにどんな手段が使えるかを、知っていただろう。
システィーナ礼拝堂のミケランジェロの傑作は、神の手のふれんとする場面を画面全体の中心に置き、創造に向かう自在で力強い神の姿のなかに、全能の神という観念をありありと表現してみせた。
ミケランジェロは、自然の忠実な描写ということに固執してはいなかった。彼は心に浮かぶ不変の美の型に意識的に従おうとした。
芸術家たちは、古典彫刻を見て学んだ美の観念に従って自然を修正しようとした。つまり、モデルを理想化した。
イタリア・ルネサンスの成果は、幾何学的遠近法の発見、解剖学の知識とそれに基づく美しい人体の完璧な描写だった。
皇帝マクシミリアン1世は、
ジョシュア・レイノルズ卿は、
美術の目的は基本的に同じであり、目的そのものを疑問視する者はいなかった。
要するに
根底ではだれもが同じ土俵、同じ前提の上に立っていた。
レノルズらのもとで、絵画は、アカデミー(美術院)で教えられる、哲学のような科目になっていく。ここに始まったアカデミーの展覧会こそは、それで名をあげる画家もあれば名を落とす画家もありで、上流社会に格好の話題を提供する社会的な事件(ゴシップの発生源)となった。美術が盛んになるためには、王立アカデミーという教育機関の存在よりも、現役の画家や彫刻家の作品を買ってくれる人がたくさんいることの方が重要だった。そうした動きは人目を驚かす気取った作品が、誠実で飾らない作品よりも脚光をあびる危険性が出てきた。
このあたり、現代のマーケットイン(市場の反応、意見を聞いて商品開発をすること)によって開発された商品に溢れている状況を揶揄しているような気がする。流行り廃りがあり、市場に出てくるものが同質化していくような状況。マーケットインの反対の意味として使われるのがプロダクトアウト(市場にニーズがあるかはともかく、商品化して投入すること)。
絵画が世相を表現する。コープリーが、国王と人民の代表との対決という劇的な主題を選んだのは、けっして無邪気な好古趣味だと片づけられるようなものではなかった。この時期、イギリス王ジョージ3世は、アメリカでの植民地支配に手を焼き、つい2年前に合衆国政府と講和条約を結んだばかりだったのだ。
フランス革命とともに、新古典様式の勝利が決定的となった。バロックとロココの建築家や装飾家の仕事は、過去の呑気な伝統と見なされ、革命によって倒された旧体制に属するものと考えられた。
産業革命が堅実な職人技の伝統を破壊しはじめたのだ。手仕事は機械生産に取って代わられ、工房は工場に取って代わられつつあった。この運動に反発したのがアーツ・アンド・クラフツ運動だし、バウハウスにもつながっていく。この前聴講したプロジェッタツィオーネにも接続していくだろう。
フランス革命以前のアーティスト達は、自分がなぜ美術の世界に入ったのかを自問する必要がなかった。ところが、伝統の解体によって、アーティスト達は無限の選択肢の前に立たされる事になった。
選択の幅が広がれば広がるほど、芸術家の好みと受け手の好みが一致しにくくなっていき、
芸術とは個性の表現だという考えが、真理を衝いた、重要な考えだと見なされるところまできていた。美術に関心のある人たちが展覧会やアトリエで探し求めたのは、いままでのような腕の良さではなかった。そんなものはどこにでも転がっていて興味を引かなくなっていた。彼らが求めていたのは、美術を通じて人間とふれ合うことだった。
個人の時代の到来というところか。
絵を判断する際に目に見えていることではなく、知っていることを基準にしがちである。画家の実際の視覚体験を見る人に伝えることが印象派の本当の目標であった。批評家はパッと見た印象で絵画を描くという否定的な意味を込めて印象派と呼称した。そうして印象派を否定したために、批評家は権威を失墜させてしまった。印象派がもたらした教訓は、印象派の画家も批評家も存命のうちに、印象派の絵画が評価され、高値で取引されたことにある。
印象派の援軍としてふたつの事象があった。ひとつめは写真であり、画家に頼んでいた記録用の絵画のニーズを代替してしまった。もうひとつは日本の浮世絵である。主題の富士山にかかる前景の足場とか、人物の上半身がすだれで隠れているなどの表現手法に、重要なものが隠れていてもいいということ。その表現が衝撃を与えた。
セザンヌが失われたと感じたのは、秩序と平衡の感覚だった。印象派は移りゆく瞬間の描写にとらわれすぎて、自然の堅固な持続的な形態を見逃してしまったと感じた。
ゴッホは、視覚的な印象に身をゆだね光と色の光学的な性質ばかりを探求していると、美術から緊張感と情熱が失われかねない。それが失われれば、芸術家は自分の気持ちを人に伝えることができないと考えた。
ゴーガンは、自分の目にする生活と芸術の全般に不満を感じていた。彼は、もっとずっと単純で率直なものを熱望し、それを未開の人びとの生活の中に見つけることができると思った。
セザンヌはキュビスム、ゴッホは表現主義、ゴーガンはプリミティヴィズム(未開主義)へと接続していく。
近代美術は、いろんな形や図柄の組み合わせを試す実験場として、新たに見直されていると言っていいだろう。
芸術家たちは、いままで存在したことのない何かを作りだしたという実感が欲しいのである。どんなにうまく作っても、現実の写しではいけない。どんなに気がきいていても、何かの飾りではいけない。そうではなく、写しや飾りよりも実質的で永続的なもの、平凡な日常を引き立てる見掛け倒しの品々よりずっと本物らしいもの、そんなものを作りたいのだ。
シュルレアリスムは、若いアーティスト達の、現実そのものよりももっと現実的なものを作りたいという願望が込められていた。 シュルレアリストの多くは、ジークムント・フロイトの著作に大きな影響を受けていた。覚醒時の思考が麻痺すれば、私たちの内なる子どもと野蛮人が表に出てくるというフロイトの考えを受けて、シュルレアリストたちは、芸術は目覚め切った理性によって作られるものではないと宣言した。
1913年のハロルド・ローゼンバーグによるアーモリー・ショーで、彼が「前衛的観客」と名づける新しいタイプの美術愛好者が出現した。「前衛的観客」はなんでも受け入れる。彼らの熱心な代理人であるキュレーター、美術館の館長や研究員、美術教育者、美術商などが次から次へと展覧会を組織し、カンヴァスの上の絵の具が乾ききらず、プラスチックが固まらないうちから、解説用のラベルを用意する。批評家も協力を惜しまない。野球の大リーグのスカウトのように前衛作家たちのアトリエにこまめに足を運び、未来の芸術はこれだと目星をつけ、評判を立てようと先頭切って声をあげる。美術史家たちはカメラとノートを手に持って、斬新なものは塵ひとつ逃さず記録に止めようと構えている。「新しさという伝統」が他の全ての伝統を無意味なものにしている。
そこに意味があるのか、いや意味を見出すことに意味があるのか。
美術史に新しい関心が向けられるようになったこと自体が、他の多くの社会的要因の結果である。それらが複雑に重なり合って現代社会における美術とその作り手の位置が変化し、過去のどの時代よりも美術がもてはやされるようになってきたのだ。
産業革命以降の急速で急激な科学・技術の発見、発明、進展は、経済をはじめ、文学も、そして美術もまた、この抗しがたい変化の流れに呑み込まれていった。そのなかで美術こそは、もっとも代表的な「時代の表現」であるという見方が出てきた。芸術家も批評家も、そんな科学の力と威光に圧倒されつづけてきた。その結果、実験を好むという健全な態度はいいとして、難解そうに見えるものは何でもよしとする、あまり健全とはいえない態度まで身につけてしまった。
しかし、残念ながら科学と美術は別ものである。難解なものと無意味なものとを、科学なら合理的な方法で判別できる。しかし美術の批評家はそんな明快な識別法を持ち合わせてはいない。
芸術は技術・科学からの
アートが受け入れられた背景に、時代の変化のスピードが挙げられる。
時代遅れの考えに固執して変化を拒否する者に勝ち目はないというのが市場の常識である。チャンスを逃さず、新しい方法が見つかればただちに試みてみよ、というのだ。時代とともに進むだけでは不十分だ。それをまわりに示さなければならない。そのための確実な方法がひとつある。会議室を最新流行の美術作品で飾ることだ。作品は革命的であればあるほどいい。うまいことに自分たちの偏見のなさまで宣伝できそうだ。
重厚長大な物語。様々な発見があった。ここから僕の研究にもインプットする重要なインサイトが得られた。『美術の物語』には、今後も、何回も戻ることになると思う。これだけの重厚長大な物語であっても絵画中心だし、ジャクソン・ポロックまでしかカバーしていない。この後の物語がとてもとても気になる。
ちなみに、入手したのはイギリスの古書店で売られていた本で、英語版だった。日本で出版されていた本とも見比べてみたけれど、図版の印刷は英語版の方が圧倒的に綺麗だった。
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