レジェバタと過去作への消えない思い
『レジェンド&バタフライ』のことは、正直に言うとすぐに消化してもいいような作品だと思うのだが、その反面どうしても消化できないところがある。どこか心に突き刺さるものがあるのだ。まずその一つは「新たなる視点で描く歴史大作」と大々的に銘打ったことである。確かに本作では、これまでにない新しい信長像を描いていることは否定しないが、信長と濃姫の夫婦関係(特に濃姫)に関しては到底真新しいとは思えないのだ。制作発表が行われある程度の概要が知れ渡ったとき、司馬遼太郎の『国盗り物語』さらには山岡荘八の『織田信長』を想起した読者は決して少なくないはずだし、キャストを聞けば尚更だ。25年前に『織田信長 天下を取ったバカ』を演じた木村拓也が2度目なら、実は綾瀬はるかも2度目で、約20年前に映画『戦国自衛隊1549』で濃姫を演じている。しかも本作での濃姫は『戦自1549』と同様に文武両道であり、当然のことながら『国盗り』や山岡版『信長』をはるかに超えているはずなのである。「2人は夫婦であり、戦友」、「男女を超えてバートナーシップを築いた」と本作の制作者側は豪語するが、そんなことは今更で、とっくに創作されていた話なのだ。特に山岡は濃姫に思い入れがあるのか、信長とは対等以上な関係といってもいいぐらいで、本作で桶狭間の前夜に2人で戦略を練る場面は、山岡版『信長』を彷彿させる。
現在は『国盗り』の方が、山岡版『信長』を上書きしてしまっていることは否めないが、元々司馬が山岡版『信長』をパクった(オマージュした?)とも言えるのだ。『国盗り』は山岡版『信長』の濃姫像を取り入れたことは間違いないが、山岡ほど濃姫に重きを置いていないし、中心はあくまで道三、信長、光秀の3人である。山岡版は信長と濃姫が中心になってはいるが、光秀とのすれ違いも決して無碍にはしていないので、『国盗り』は明らかに山岡版から光秀のキャラクターやすれ違いを取り入れていることも間違いない。『国盗り』の映像化(1973年の大河ドラマはもはや総集編でしか見ることはできないが)自体も原作以上に山岡版を取り入れているので濃姫の見せ場もより多くなっているはずである。
「濃姫については資料がほとんど残っていないので、わりと好き放題にキャラクターを作っています(笑)。」と古沢良太のコメントもパンフレットに載っているものの今さら過去作品を知らないわけではないだろう。本作は原作のないオリジナルと銘打っている以上、司馬や山岡をオマージュしているとは言えないが、バレバレである。3作品に同じ名前の架空人物が登場しているからである。それは中谷美紀が演じている濃姫の侍女各務野で、本作のキーにもなっている。架空の人物なのに、各務野という名は、美濃(岐阜県)の地名ということもあり『国盗り』や山岡版『信長』のみならず多くの作品に使いまわされているのだ。元々は山岡版『信長』のオリジナルか、無名の作品から拝借したのかは不明だが、『国盗り』よりは発表が早いので、司馬は山岡から多くのものを取り入れたことは明白である。それにしても『織田信長 天下を取ったバカ』では濃姫だった中谷は、最重要人物ではあるものの繰り下がりだと言われるかもしれないのによく各務野を引き受けたものだと思わず感服してしまう。
もう一つの拭えない思いは他でもない本能寺のクライマックスである。
オリジナルである『レジェバタ』が過去作をパクっていることに別段文句を言うつもりはないし、むしろ大いに期待していた。山岡も司馬も本能寺での濃姫討死説を採用していたように、2作品の映像化だけでなく、本能寺で濃姫が薙刀を振るって戦い幾度となく壮絶な最期を遂げるドラマは繰り返される。
祝言の閨で軽く信長を捻ってしまう本作の予告を見れば思うであろう。これなら過去作で薙刀を振るっていた濃姫を凌駕するに違いない、アクションに定評のある綾瀬はるかだからこそ本能寺で暴れ回るシーンをぜひとも見たいものだと。
はっきり言うと、みんな『レジェバタ』での本能寺で共に討ち死にするルートを期待していたのである。本能寺で2人が共に死ぬことは宿命づけられているのだと。
そもそも討ち死に説自体が全てフィクションなのである。
江戸時代中期に刊行された『絵本太閤記』という読本にも本能寺の場面があり、その挿絵には薙刀を振るって戦うお能の方という女性の姿があるのだが濃姫ではない(ややこしいが似た名前なので余計に想像が膨らむ)。
山岡も司馬も『絵本太閤記』の挿絵にインスパイアされて討ち死に説を取り入れたものと思われる。”夫婦ともに本能寺の炎の中に死す”というのは単純に絵になるし、木曽義仲と巴御前の延長線上と思う人も結構いて、「義仲と巴が一緒に戦う姿を見たかった」、「共に地獄で」という意見もSNSでよく見かける。
一次資料は少ないものの、読本や逸話、民間伝承に事欠かないのは、それだけ想像力が膨らむ題材だということだ。岐阜県岐阜市不動町には本能寺の変の際に信長の家臣の一人が濃姫の遺髪を携えて京から逃れて、この地に辿り着き埋葬したという濃姫遺髪塚(西野不動堂)があるという伝説もあれば、信忠を養子にしたという記述も勢州軍記という軍記物に記述もある(ウイキペディア)。元ネタがたとえ創作であれ、討ち死に説が途絶えることがないのは、やはり蝮(道三)の娘に相応しい最期だからということなのだろうか。
そして本作はここまで風呂敷を広げたクライマックスを見事に外しにくる。
ネタバレになるが、討ち死に説にはならない。信長は史実通りに本能寺で命尽きるが、病に伏せる濃姫は安土城にて同時に命尽きるのだ。
「2人が同じタイミングで最期を迎えしあわせの夢を見ながら旅立ったとも捉えられます。信長と濃姫のラブストーリーと同時に受け取るクライマックスでした。(中略)互いに息を引き取りながら、2人が融合するというクライマックスは、我ながら良い終わり方ができたんじゃないかと思います。」と古沢が語っているように。
信長は本能寺から抜け出し、濃姫を迎えに行き、南蛮寺に乗り込む、長い時間をかけて”夫婦”になっていくラブストーリー、政略結婚から夫婦の愛にたどりつく物語であるなら、「共に地獄で」はまずいのだろう。まして「好いとった」などという信長の最期の台詞がある以上尚更だ。それでも共に死ぬという過去作の設定を全否定はしていない。濃姫は弦楽器リュートを奏でながら眠りに落ち南蛮船の夢を見ながら果てるが、2人の最期が実は同じスタジオの同じ場所に作られたことがラストに意味を与えている。美しい終わり方だし、これまでになかった予想外の展開で新しい試みだということもわかる。
信長と濃姫が最期を共にした設定が支持されているのは、巴が『平家物語』で義仲と最期を共に出来なかったことにもあるだろう。現に『巴』(能)でも巴の霊がその無念さを語っている。『源平盛衰記』での巴は義仲の乳母子ということになっているが、「木曽殿の御乳母子」と名乗りながら果てる兄を羨んでもいるのだ。
討ち死にルートへの期待は、巴が果たせなかったことをせめてフィクションでも濃姫に託したい思いにつながるのだが、古沢からすれば愛人を死なせたくない一心で戦場から離脱させる義仲の気持ちとリンクしているのかもしれない。自分が信長なら濃姫に討ち死にさせたくないので、その設定は却下してしまったのだろう。山岡版の信長と濃姫にもラブストーリーはあるが、戦友または相棒としての絆の方が深い。本作はその逆で制作者側は「男女を超えてバートナーシップを築いた」とは言いながらラブストーリーの方に傾いている。どちらが良い悪いということはないが、それでも「共に地獄で」を貫き通した過去作への思いが本作で上書きされることはやはりない。