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大和街道その4 橋本~五條
和歌山から紀ノ川沿いを奈良へと向かう大和街道を歩いたレポートの「その4」です。
前回までに紀ノ川を結構さかのぼって橋本市まで歩いたので、今回は海沿いを走る南海本線で和歌山市へ向かうのではなく、内陸を高野山へと向かう南海高野線に乗って、橋本駅に降り立ちました。
橋本駅の南には木食応其(もくじきおうご)ゆかりの応其寺があります。
応其という人は、元々は近江の佐々木六角氏に仕えていた武士で、信長勢と戦った観音寺城の籠城戦にも参加しましたが、城が落ちて主君の六角氏が没落すると高野山に上って出家して(肉食どころか十穀をも絶つ)木食行を行ったのでこんな呼ばれ方をしました。穀物すら食べない木食というのは、木の根や草しか食べない過酷な修行のことです。凄い修行ですよね。ラーメンの注文をチャーシューメンに変更したり、ざるそばを天ぷら付きにしたりしてしまう私には到底ムリな相談です。ビールまで飲んでしまうし(笑)
この過酷な木食行を行った人としては、大峯山を再興した快元や素朴な木彫りの仏像で知られる円空などが有名です。
秀吉の紀州征伐によって、根来寺や粉河寺や雑賀衆など多くの寺社・地侍が滅ぼされました。同じように高野山も降伏を求められて、その際に応其が秀吉への使者となって交渉にあたったのでした。
その後、秀吉による高野山復興に際して堂塔の造営に関わったことで大いに信頼を得て、大坂城で秀吉が謁見した際には「高野山の木食やにゃあで、木食の高野山だで」っという感じで諸大名に紹介されるほど、その存在を認められたのでした。
地名の橋本というのは「橋のたもと」のことです。かつて秀吉の資金協力によって応其が紀ノ川に架けた橋が由来です。仕事で和歌山を走り回っていた頃には、橋本の由来など全く知りませんでした。やはり旅は「歩き」に限ります。そして説明板に書かれていることは、すっ飛ばさずに読むべきですね。
ですよ(笑)
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橋本から大和街道を東へ(紀ノ川の上流方面へ)歩きます。訪れたのは桜が満開の時期、天気も良くて街道歩き日和です。
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国道から旧道に入って進むと古民家カフェがありました。こういうお店って京都とか奈良とか旧東海道沿いとかでよく見かけますが、和歌山の郊外の、それも訪ね歩くウォーカーが多くはないマイナーな旧街道沿いにあってお客さんは来るのでしょうか? そんな事は余計なお世話で、実は繁盛店だったら申し訳ございません!
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街道を進むと橋本市隅田町に入りました。スミダではなくスダと読みます。かつてこの辺りには隅田党と呼ばれる武士団がいました。南北朝時代に建てられた重要文化財の本堂がある利生護国寺の裏には、隅田一族のお墓が並んでいます。小さな五輪塔ばかりですが、長い期間にわたって、この地に蟠踞していたことが、その数の多さで分かるような気がします。
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利生護国寺から1kmほど進んだところには隅田八幡神社が鎮座しています。ここには国宝に指定されている人物画像鏡という銅鏡があって、それのモニュメント的なものがドーンと据えられています。
隅田党の氏神であるこの神社には「隅田党発祥の地」の碑もあります。鉄砲集団の雑賀党とか関東の忍者の風魔党とか九州の海賊の松浦党とかのように、まるで全国的にメジャーな一族みたいな感じです。 あ、いや、隅田党ゆかりの方がおられたら申し訳ございませんっ!
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隅田八幡神社から1kmほど街道を進むと、落合川という小川が流れています。この小川の流れの中に岩があって「飛び越え」と呼ばれるその場所は神代の大昔からの渡し場なんだそうです。「飛び越え」の前には満開の菜の花畑がありました。きれいっ!
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旧蹟「飛び越え」を飛び越えると、その瞬間に紀伊国から大和国に入ります。
3kmほど進むと二見という町に着きます。この地には関ケ原合戦の後、1万石の五條藩が存在しました。小さな二見城を建てた五條藩主は松倉豊後守重政です。後に大坂の陣で活躍した重政は、肥前島原4万石に加増転封となりました。4倍増の昇給を伴う転勤です。そして新しい任地でキリシタン弾圧や領民への重税を行って、アノ島原の乱を引き起こしてしまうのです。歴史の授業をちゃんと聞いていた人は、それで松倉重政の名前に聞き覚えがあるはずです。
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島原での圧政のためにイメージの良くない重政ですが、ここ二見では善政を行ったお殿様と讃える顕彰碑があります。なんかちょっと意外です。
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ちなみに、重政のパパの松倉重信は、島左近とともに筒井順慶の片腕(2人で両腕?)とも呼ばれた武将ですが、順慶の死後に左近と同様に筒井家を去っています。順慶の跡継ぎの筒井定次は、よっぽど人望が無かったのでしょうか? いや、先代が凄すぎて見劣りされてしまったのかもしれません。
二見の先には旧街道の風情が残る街並みがあります。古い街並みですが「新町」と呼ばれるエリアです。二見が旧で五條が新なのかもしれません。知らんけど(笑)
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街並みを歩いて行くと町家が続くエリアに突如としてコンクリートの高架が現れました。 ん?紀ノ川と並行ではない方向に線路があったっけ?
え?あれ?途切れてる!
実はこれは幻の「五新線」の高架なのです。明治の末、ここ五條から太平洋岸の新宮まで紀伊半島の真ん中を貫く五新鉄道の建設計画が持ち上がって、昭和12年から着工したものの軌道の敷設すらされずに計画は頓挫。この高架橋のみが残っているというワケです。トンネルも貫通させたりして作りかけた五新線のルートには、今は路線バスが走っています。鉄道ファンや近代遺産ファンの間では割に有名なスポットなのです。
南に向かって伸びかけて途切れている高架橋には哀愁が漂っています。
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更に旧道を進むと酒蔵が現れました。「松の友」を醸造する山本本家。1本購入しようと思いましたが、この時は閉まっていました。酒蔵の向かい辺りに「橋ツ一商餅」という大きな看板を掲げた、というかヤケに看板が大きく見えるくらいの小さなシブいお餅屋さんがありました(店名は右から読んでください) ですが、この日は売切れで購入できず。
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ところで、4本目の投稿となる私のレポートを読んでいただいている方の中には気付かれている鋭い方がおられるかもしれませんが、この大和街道、つい最近歩いた話ではありません。平日は仕事をして、休日には用事もあり(と言ってもテニスをしたり子供と魚釣りに行ったりなのですが)1人で出掛けた話を毎週末に投稿できたりはしない状況の私。 実は上記の餅商一ツ橋さん、すでに100年の歴史に幕を下ろされています。お店を閉められる前に食べてみたかったなぁ。異常に残念です。
突然広い道に出ました。五條から南へと伸びる国道168号線。幻の五新線の代替のバス道です。
五條で有名なのは、幕末の天誅組による五條代官所襲撃事件です。文久3年(1863)土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら尊王攘夷派のグループが、公家の中山忠光を主将に迎えて、京を出て大坂・河内を進軍して大和に乱入、幕府天領の五條代官所を襲撃しました。代官の鈴木源内の首を斬り、代官所を焼き払って「五條を天皇直轄地とする」と宣言をして挙兵! が、挙兵の翌日に長州藩や攘夷派公卿らが失脚した為に逆賊となってしまい、五條から南へと移って十津川などで抵抗したものの、結局は幕府軍に鎮圧されてしまったのでした。
いま五條代官所跡には長屋門と石垣が残っています。あれ?焼討ちに遭ったのに門が残っているの?っと思うところですが、襲撃された頃の代官所は今の五條市役所の場所にあって、天誅組討伐後に少し南に(いま門と石垣が残っている場所に)再建されたのです。近くの桜井寺は天誅組の本陣が置かれたところで、このお寺の手水鉢で討ち取られた鈴木代官の首が洗われたんだそうです。
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代官所や桜井寺の周辺を探索しているうちに暗くなってきてしまい、この日のウォーキングは終了になりました。五條駅の構内で売っていた五條名物「柿の葉寿司」を購入して電車を待つ間にホームで頂きました。
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高野山に連れて行かれた帰り道に買ってもらい、大阪人の中では恐らく子供の頃からよくコレを食べていた私。 この名物、昔はサバの一択でしたが、いつの頃からかシャケのパターンも加わって、この日の「たなか」の柿の葉寿司には、小鯛(関西の釣り人はチャリコと呼びます)まで入っていました。柿の葉で包んでいたら何が載っていても柿の葉寿司なのでしょう。割に緩い決まり事です。 1人で食べると飽きが来なくていい感じですが、2~3人で分け合って食べる場合は間違いなく「最初はグー!」が始まる事になるんでしょうね(笑)
1箱の柿の葉寿司を1人でペロッと食べてしまってから(珍しく今回はラーメンを食べること無く)大阪へと帰ったのでした。
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