【詩を食べる】なにもなかった春のためのサラダ/サラダとり白きソースを(北原白秋)
ここは、詩情を味わう架空の食堂「ポエジオ食堂」―詩のソムリエによる、詩を味わうレシピエッセイです。春は恋の季節と言われるけれども、「さみしい春」だった場合はどうすればいいのか…?北原白秋の短歌を、春のサラダのドレッシングに仕立てました。お楽しみください。
「浮いた話はないの?」
中高生のころ、「浮いた話はないの?」とか、「好きな人はいないの?」と聞かれるのがすごくイヤだった。好きな人がいない、というのは、悪いことなのだろうか?なんとなく居心地がわるいし、「浮いた話がない」自分に魅力がないようで、すこし落ち込む。
季節は春。まわりの子たちは、恋愛を楽しんで、えもいわれぬハッピーオーラをふりまいているというのに…。そういえば、他愛のないメールのやりとりをしていた男子とも、発展がないままフェードアウトしてしまった。なんだか、焦る。かといって、「恋に恋している」状態で誰かとつきあうのもちがう…。
春は美しい季節であると同時に、置いていかれているような、場違いのようなさみしさや焦りを感じる季節でもあると思う。
思い出をむりやり美しくする
北原白秋のこの歌を見たとき、「浮いた話はないの」と言われたときの、胸がツンとするようなさみしさを感じた。サラダをとって白きソースをかけてみようか。さみしき春の思ひ出のため…。
誰にでも、さみしい春はある。そんなとき、せめて、素の野菜にドレスを着せるように白いドレッシングをかけて、思い出を美しくできたら。
なにもなかった春のための、新玉ねぎドレッシング
「白いソース」ということで、最初に浮かんだのはシーザーサラダのようなものだった。でも、シーザーサラダのように豪華でにぎやかな雰囲気とはちょっとちがう。この歌の、鼻の奥がツンとなるようなさみしさや、みずみずしいほろ苦さを考えて、新玉ねぎのドレッシングにたどりついた。
かがやくように真しろい新玉ねぎをすりおろすと、辛みがでる。でもその辛みはフレッシュで、今ここにしかない痛みのようなものだ。それを新鮮で、ピリリとしたベビーリーフにかけていただく。
いちご(りんごや、柑橘類でもいい)を薄くスライスしてそえると、さみしい春の気持ちがやわらぎ、華やぐだろう。
ドレッシングを作るとき、新玉ねぎとオリーブオイル、お酢のみの時点ではとても辛い。そこに、マイルドなやさしさを加える気持ちでマヨネーズと粉チーズを入れると、「白きソースをかけてまし」という気分になる。
ピリッとした苦さもあるベビーリーフたちは、大きく育つことのなかった恋のようだ。そういえば、まだ付き合った経験がなかった頃、恋愛経験を聞かれてギクリとしながら、ちょっと恋の思い出を盛って話したりしたっけ…。今となれば恋の経験値なんてどうでもいいことだけど、「なにもなかった春」をごまかした日のことを、遠く思い出す。
あとがき
この歌がおさめられた処女歌集『桐の花』を出したとき、北原白秋は28歳。人妻・俊子との恋を咎められて牢に入れられ、のちふたりが結婚した年に出されたもの。「さみしき春」とはいつのどんな恋だったのか、思いをはせるのも楽しい。
恋をして牢屋に入れられた(!)話はこちら⇓で読めます
作者について
北原白秋(きたはら・はくしゅう 1885−1942)福岡県柳川市出身
童謡作家、詩人、歌人。高校時代から詩をはじめ、早稲田では同じ九州出身の若山牧水(この記事で紹介)と親しみ、新鋭詩人として注目された。
20代のうちに明星派(与謝野晶子ら)、アララギ派(斎藤茂吉ら)、象徴派・耽美主義(パンの会)などなど、いろんな流派にふれている。24歳のとき、耽美的な言葉がきらめく象徴詩『邪宗門』でデビュー。童謡や詩などでさまざまな作風を作り出し、言葉の魔術師とも言われる。
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