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ひょっこりダーチャ島
~浮島で難民を癒す~

 大分昔のNHK子供番組に『ひょっこりひょうたん島』(1964~1969年)という人形劇があった。この島は瓢箪の形をした浮島で、海の上を漂流している島民が織りなす空想物語だ。その島名やキャラクター名を借りた『漂流劇ひょっこりひょうたん島』が2015年にシアターコクーンで上演され、原作者の親族が「断りがなかった」と苦言を呈したという。空想物語といっても、要は水に浮く材料を使って島を造れば浮くわけで、浮島自体が夢物語というわけではない。実際ペルーのチチカカ湖に浮かぶ水草(トトラ葦)製のウロス島は、伝統的な人工浮島として観光名所にもなっている。日本でもバブル経済で地価が高騰した時代、『メガフロート』という鉄板製の人工浮島が官民連携で開発されたことがあり、羽田D滑走路建設のコンペでは埋立方式と競り合った(結局埋立方式を採用)。

 もっとも、ウロス島はペルー領内に完全に帰属している島だし、メガフロートは埋立地の代替として岸に隣接させる計画だった。それに反し、ひょっこりひょうたん島は海のどこかを漂流している島なので、それがどこかの国の領海に入ってしまえば恐らく警告を受けることになる。地球は探検しつくされ、領有権のない場所は残る南極、北極、公海に限られる。つまりひょっこりひょうたん島は、あくまで物語上の島で、それが風の向くまま潮の向くままに漂流すれば、いずれは領海とか排他的経済水域に侵入して大きなトラブルになってしまうだろう。

 けれど公海は、地球市民が誰でも利用できる共有領域なので、そこに浮いている限りにおいて、ひょっこりひょうたん島は誰からも文句を言われない(国際海洋法によって認められる限り)。しかし島民は無国籍というレッテルを貼られることになる。この地球では、どこかの国に属さない人間は「無国籍」の扱いを受ける。人は良く「自由人」などと気軽に話すが、この世界では自由人などは存在せず、いるとすれば自然人か透明人間だ。アマゾンの奥地では自然人の方々が自由に生活しているが、彼らが帰属を意識していないからそうなので、ブラジル政府が勝手に彼らの存在を推測し、ブラジルに帰属していると思っているだけの話だ。彼らにとって国籍があろうがなかろうが、環境が保護されている限りはその人生に何の影響もないだろう。

 ところが国連の世界人権宣言第15条には、「すべての人は、国籍を持つ権利を有する」と謳われているから、国籍は人類の権利らしい。それがなぜ権利なのかというと、地球は国単位で分割されており、国民は国からサービスを受ける権利を有するが、どこの国にも属さない人間は、どこの国からもサービスを受けられない。サービスなんざいらないと我を張っても、彼らが狩をしようと山に入ったり、作物を作ろうと土地を耕せば、山や平地全てが個人や地方政府、国に所有されているので、お咎めを受けることになる。だから無国籍者は、生きるためにどこかの国に属すべく必死に国籍を取ろうとする。つまり人間にとって国籍は、いまの世界にとって生きるための必要条件なのだ。そして国籍を取ると、その人間は国に管理されることになる。

 国からサービスを受けるということは、国に恩返しをしなければいけないことを意味する。権利を持てば義務が生じる。例えばそれは税金だったり兵役だったりするわけだ。平和ボケしている日本人は、税金は理解しても兵役は理解しにくいだろう。けれど隣国が攻め込んできたら、たちまち理解することになる。つまり常識の範囲内で、人間にとって税金と兵役は、いまの世界にとって国籍とともに生きるための必要条件なのだ。だから脱税者も兵役逃れも罰せられ、脱走兵は督戦隊に背中を撃ち抜かれる。

 ならば、仮にウクライナ全土がロシアに占領され、半永続的にロシア領となったらどうなるだろう。ウクライナという国は人々の国籍とともに消滅し、そこに住むウクライナ人はロシア国籍を取る必要があり、ロシア政府に税金を納めなければならなくなるし、ロシア兵として徴兵され、他国への侵略に加担しなければならなくなる。それが嫌なら土地を捨てて無国籍者として放浪するか、難民申請してどこかの国に落ち着き、その国の国籍を取るか、あるいはどこかの難民キャンプに入るしか、生きる方法はなくなってしまう。現在ロシアの占領地域では、渋々ロシアのパスポートを受け取るか、ウクライナ国内の戦闘地域や外国に逃げるかの二者択一を迫られている。トランプが大統領になれば援助はストップし、ウクライナ滅亡の悪夢が正夢になる可能性も増え、さらに難民が増えるだろう。

 島国日本の人々は、ソ連に取られた北方四島ぐらいしか実感がないが、例えばヨーロッパなどの国境周辺に住む人々は、たびたび起こってきた戦争や国境紛争などで、祖先がいろんな国の国籍を所持してきた歴史はあるだろう。昔の人も、他国に侵略されると、耐えがたきを耐えて大人しく暮らすか、国を捨てて流浪の旅に出るかの二者択一を迫られてきた。そして辿り着いた他国の温情にすがってその国の国籍を取り、落ち着いた生活を再開しようとするが、先住民からの差別に耐えなければならない。それができなかった場合は永い難民暮しとなるが、受け入れる国には拒否する権利もあり、拒否されると流民扱いされて難民キャンプに押し込まれることになる。

 内戦は宗派争いや政権の奪い合いなどで起こるが、戦争はほぼ領土、領海の覇権争いで起こる。いまのところ極地域や公海の領有権は認められていないが、公海だとされる南シナ海の領有権を巡って中国や周辺諸国の争いを見ていると、そのうち公海も南極も北極も、どこかの国が領有権を主張して武力行使する時代がやってくるかもしれない。地球上のすべての場所に所有者がいて、そしてその権利を巡って未だに紛争が続いているなら、戦争のない世界など、夢物語に違いない。わずかな望みは、パンドラの箱に残っていた弱々しい「国連」という名の希望だ。しかし戦争や迫害の被害者は悪夢の物語ではなく、現実にいる。故郷を追われた難民はおよそ1億1000万人と言われ、庇護希望者は500万人いると言われる。無国籍者も1千万人以上いるらしい。

 難民や無国籍者は流浪の民だ。ロマの人々もユダヤ人も古くからの流浪の民で、ユダヤ人の一部はイスラエル国を造って今度はパレスチナ人が追い出され、流浪の民となった。難民キャンプは自然発生的なものも含めて世界に数多く存在するが、過密で生きていくのに最低限の設備しかないものが多く、衛生管理も行き届いていない。特に1946年から続いているパレスチナ人のキャンプは、そこで生まれた子供が高齢になって死んでいくといった哀れな状況だ。当然キャンプの存続には世界中からの支援が不可欠だが、一生そんな場所に押し込んでおくのかという人道的な問題も出てくる。

 昔、アフリカやアラブなどの地域には国境線がなく、ヨーロッパ諸国の植民地支配によって人為的に引かれていった経緯がある。その結果として民族が分断され、未だに国内外の民族紛争が続いている。また、隣国との国境紛争がある場合は、国境線が未確定な場所も存在する。そこでは永年陣取り合戦が続いているというわけだ。結果として優勢な国が一方的に国境線を引くことになり、土地を奪われた国が渋々妥協すると、停戦協定が結ばれることになる。ヤクザの縄張り争いと変わりはしない。

 国境のなかった時代には、遊牧民は自由に旅を続けることができた。しかし国境線が引かれた後は、わざわざ検問所を通過しなければならなくなったし、国境紛争が起きれば検問所も閉鎖される。人間も農耕による定住以前は遊牧民で、その前は狩猟民、さらにその前は野人(野獣)だった。そのすべての時代で縄張り争いはあったし、戦いに負けると餌を求めて新天地を探さなければならなかった。しかし国境という柵はなく、東西南北どの方向にも移動が可能だった。そして新天地ではよそ者との新たな縄張り争いが始まり、負けた連中がさらに新たな新天地を求めて移動する。いまの時代に人間がこんなことをすれば盗賊として殲滅させられるが、国境地帯では似たようなことが起こっている。この野獣の性(サガ)は、人間が獣である限り未来永劫続いていく。その結果、戦いに敗れて飢え死にする犠牲者は、弱肉強食という自然の摂理のもとに忘れられていく。イスラエル人はその自然の摂理を永年にわたり実体験してきて、そのトラウマが血に流れているから、あのように頑なになれるわけだ。

 人間とその他の獣の違いは、『ライオンキング2』を観れば分かる。ライオンは、オスどうしの決闘で勝利した者が一夫(数夫)多妻の家族を作り、狩を生業として生きていくが、10頭ほどの家族の縄張りは小さなものだ。しかし『ライオンキング』のシンバは、キングとして広大なサバンナ(プライドランド)に生きるあらゆる種類の動物たちの賛同を得て、絶対王者に君臨する。つまりシンバはプーチンでも習近平でもバイデンでも岸田首相でもあるわけだ。そしてどんな人物がシンバであろうと、国はシンバを頂点としてピラミッド型に形成され、その形態は支持する人々によって支えられるということになる。

 ディズニーのアニメを観て人々が感激するように、頂点に立つリーダーがカリスマであるほど国は安定する。人々は強いリーダーを求め、弱々しいリーダーは人気が落ちる。『ライオンキング2』には『よそ者』という歌がある。その歌詞には「災いを持ち込むな」とか「あいつはよそ者、私たちとは違う、仲間じゃない」などといった文言がある。ピラミッド型の安定した国にとって、よそ者は災いを持たらす要因だ。そしてこの「よそ者」は、現代社会においては「難民」であり「不法移民」であり、「無国籍人」なのだ。彼らをあえて引き受ける国があるとすれば、その国民は慈愛の精神に満ちた人々に違いない。残念ながら日本は難民や移民の受け入れが厳しく、2021年の統計では難民認定率は0.3%だったという(2,413 人申請中74人認定)。しかしそれはあくまで民族的統一を尊重する国の方針で、慈愛に満ちた日本人が少ないわけじゃない。多くの日本人ボランティアが難民キャンプで活動しているのを見れば分かるだろう。

 地球上では土地神話が続き、その陸地がほぼ誰かの所有物なら、広大な土地を必要とするには困難が伴う。多数の難民を受け入れる土地がないから柵を作って押し込め、ボランティア団体から生きるに最小限の物資を与えられている檻が「難民キャンプ」で、かつてヨーロッパに点在したユダヤ人の「ゲットー」と変わらぬ劣悪な環境だ。しかしゲットーは迫害による強制居住区域だが、難民キャンプは行き場を失くした人々の救済を目的とする区域なのだ。そこが劣悪だとすれば、救済という本来的な目的に逆行するだろう。

 ボランティアの人たちは難民キャンプの救われない現状を実体験しているが、無関心な人がテレビなどでその映像を見ただけでも、牢獄と変わらないことは予測できる。囚人だって刑期を終えれば解放されるのに、運悪くそこで生まれた人々が生涯そこに閉じ込められて人生を終えなければならないとすれば、この悲劇的な宿命を少しは緩和させる方法を考えるのは、ヒューマニズムを掲げる地球市民の義務だと思う。特に、先進国の市民が「よそ者」に対する排他的な感情を高めつつある昨今の暗い現実を鑑みれば、難民キャンプに暮らす人々の癒しを考えることも必要だろう。

 例えばロシアでは「ダーチャ」と呼ばれる農園付き別荘を持っている人が多い。ダーチャは、スターリン時代の農業集団化で農地を奪われた農民が、せめて自給できる菜園が欲しいと食い下がってもぎ取った小さな土地の利用権だ。集団農場で働く農民は、そこに小さな小屋と菜園を作り、週末になると心を癒すことができた。これが農民以外の市民の間でも流行し、一般化したものが「ダーチャ」だ。苛酷な生活を強いられている難民キャンプの人々がそこから抜け出せないとすれば、せめて半年や一年に一回、短期間でもダーチャのような別荘で心を癒すことができるなら、それはすばらしいことに違いない。

 もちろんダーチャを造るには土地が必要になる。しかし広い土地を無償で提供してくれる国はないだろうし、貸してくれるとしても利用できない不毛地で、難民キャンプ大の土地が精々だ。ならば誰のものでもない南極大陸はどうだろうか。しかし、そんな極寒地に難民を招待したら、シベリア捕虜収容所の二の舞になっちまう、というわけで誰のものでもない候補地は南極大陸よりも広大な公海しかない。日本の政府や国民が大和民族の純血性を守り、多民族国家になることを恐れるあまりに難民受け入れを拒否するなら、ヒューマニズムを掲げる地球市民の一員として、別の切り口から支援する必要はあるだろう。きっとそれは浮島だ。

 日本は「ひょっこりひょうたん島」という奇抜な浮島発想(井上ひさし作)が生まれた国であり、「メガフロート」という浮島技術が確立された国でもある。この発想と技術を過去の歴史の中に埋もれさせてしまう手はない。メガフロートは実証段階で面積84,000㎡まで造られた経緯があり、2000年に世界最大の浮島としてギネスブックに認定され、耐用年数も100年を超えるという。大きければ波風による揺れもなくなる。構造はシンプルで部分的な切り離しも可能なことから、交換によって耐用年数を延ばすこともできるし、浮島どうしを順次合体させて拡大も可能だ。また地震に強く、沖合では津波の心配もない(津波被害は沿岸地域で起こる)。さらに深い公海は栄養価も低く、生息する生物も少ないので、生態系に影響を与えることもないだろう(かえって藻も生え、影が出来ることで魚が集まってくる)。

 唯一心配なのは、海流でどこかの国の領域に侵入することだが、複数の錨による固定はもちろん、曳航チームによる引き戻しは可能だろうし、地球深部探査船「ちきゅう」で活躍している自動船位保持装置を進化させれば、微動だにしない浮島も実現可能に違いない。また、台風などの高潮に対しても、スリット付カーテンウォールを波打ち際に垂らした「波エネルギー吸収装置」が威力を発揮し、漂流防止にも役立つという。電力は、四方に波動発電機や風力発電機を備えれば賄えるだろう。

 この広大な新島は全面平坦で小型飛行場も併設し、船も着岸できる。もちろん、島の中央部にはヘリポート付のビル(ブリッジ)も建設され、万が一の避難場所として利用されるだろう。均等に分割されたダーチャはそれぞれに菜園と瀟洒な小屋が造られ、その屋根は太陽光発電パネルだ。一つのダーチャは、6~12家族にシェアされる(滞在は1家族1~2カ月)。菜園には潮風に強い小木や作物が植えられ、彼らは継続して作物を育て、難民キャンプに戻るときは収穫物を持ち帰ってシェア仲間と分け合うことができる。我々にとってそれはバカンスのように見えるが、苛酷な環境で暮らす難民キャンプの人々にとっては、ボロボロにされた心の止血帯か、沙漠に降る恵みの雨だ。たとえそれが一滴の水だとしても、きっと生きる喜びや希望を与えてくれる。ならば浮島は、地球温暖化で水没し、住む島を失った人々のためにも貢献できるかも知れない。

 島も船も、そこから抜け出せない限り、「獄門島」や「幽霊船」という悪いイメージが付きまとう。しかし、難民キャンプはそれらと同列の地獄なのだから、大海に浮遊する浮島は世界中のどこにも行き場がない人々にとって、爽やかな海風を運んでくれる癒しの場になることは間違いない。公海は広大だ。まずは1号島からチャレンジしてみよう。そしてこの浮島が進化発展できるなら、水中プロムナードも完備して、カプリ島のように多くの観光客が訪れるようになるかも知れない。そのとき彼らは、労働の権利をも取り戻すことができるに違いない。

 

 

喪失

愛する人を失ったとき
その人は私の持ち物だったことを知った
きっと大好きだったイヤリングの片方を落としたとき
残った片割れを眺めながら涙ぐんだように
スマホに残されたあの人を眺めている
いままでどれだけ持ち物を失くしたか分からないけれど
いつも新しい物を買い足していった
それらは欠いた心に纏わりついて
いつの間にか傷口は分からなくなった
愛する人を失うとき
いつもあのイヤリングを思い出す……




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