note9 ごはんのこと/おいしいごはんが食べられますように、のこと。
ごはんのこと。なにを食べるか。なにを食べたいか。そんなことをいつも考えています。そして、それはなにを食べないか。なにを食べたくないか、を考えることでもあります。子どもの頃から、なぜか、ごはんを食べることに真剣だったと思います。自分が子どもの頃は、祖父母と一緒に住んでいたこともあり、家でごはんを食べるのが当たり前で、外食することは滅多にありませんでした。ある時期から母も働きだしたので、ごはんが遅くなったりすることはありましたが、お弁当やお惣菜を買ってきた、というのはあまりなかったと思います。ぼくたちは、母がごはんを作るのをいつも待っていました。
「あの時代は~」と思わず言ってしまいそうですが、同じものを同じ時間に食べるというのは、「なんか大変だったなぁ」といまは思います。
そして、それはごはんを「食べる」というだけではなく、家族がそこにいなきゃいけないという、変なきまりのようなものだったのだと思います。ぼくはいつも「今日はなにを話そう」「なにか面白いこと言わなきゃ」と考えていました。
いつからかわからないけれど、一回一回の食事に、とても意味があるように考えるようになりました。なにを食べるのか、その場をどのようにするのか、を真剣に考えていたのです。それは凝ったものを食べるとか、豪華な食事をするとか、ではないのです。家族でいること、家族でごはんを食べないといけないことが、ぼくにはとても大変なことだったのです。
それはいまでも続いていて、一回一回のごはんを変に考え過ぎてしまうのです。「おいしい、自分の好きなものを食べたい」とみんな思っているとは思いますが、ぼくもそんな風に考えているようで、最初に書いたように、じつは食べたくないものを、考えてもいます。食べたいものではなく、食べたくないもの、を考える。自分でもよくわからないのですが、ごはんを食べることは、ほんと、むずかしいのです。
自分の体や生活に正しさを求めるのはおかしなことだと思っています。自分のルールが自分を苦しめることは明らかだし、そもそも正しいことなんて、考え方ひとつで変わってしまうし、そんなことばかり意識していると、生きるのが大変になってしまう。だけど、「これでいいのかな」とか、「これじゃダメかも」とか、いろいろ考えてしまうのです。
ひとりでごはんを食べたくなります。だけど、それはむずかしい。誰かと一緒にいる・いないだけではなく、ひとりだと思える場所、ひとりだと思える時間、そして、ひとりだと思える「ごはん」。それはなかなか出会えない、不思議なごはんなのです。子どもの頃から、そんなごはんを探していました。
いままでの活動・仕事の中で、カフェやBARなどの飲食店でイベントをやらせてもらうことがありました。ただ、それは場所として適しているということで、食事やごはんをテーマにしたものではありませんでした。あっ、そうした食をテーマにした仕事をいただいたことがあったな……。だけど、やっぱり、うまくいかなかったなぁ。ごはんのことを書くのはむずかしい。
「おいしいラーメンはどこ?」「よく行くカフェは?」などの会話はもちろん楽しいし、日常的に自分の周りにも存在します。だけど「ごはんってむずかしいよね」「ひとりのごはんってなんだろうね」とかは話しません。話してみたい、と思うことはあっても、やはりむずかしく考えてしまうし、そのこと自体を考えることがとても疲れるので自分でも面倒になってしまいます。そう、面倒なのです。年齢を重ねていくと、そうしたことを考えるのが。
以前、食事にとてもこだわっている女性と一緒にいたことがあります。最初のうちは「よいごはんだなぁ」と思っていたのですが、やっぱり、なにかがちがうような気がしてきました。その方の食事はとてもこだわりがあり、とても健康的で、いまの言葉で言えば、まさに「整う」食事だったのです。ですが、だんだん、ぼくにはそれがつらくなってきてしまって、家に帰る前に、カップ麵とかファーストフードとかをあえて食べるようになってしまいました。それでも、帰ると、無理やりごはんを食べます。一応、良い感じで。でも、実際は、体に良くないですよね。心にも。
そのうち、帰ることができなくなってきて、車の中や公園で、スーパーとかで買ったお弁当を食べるようになってしまいました。なぜ、そんな風になったのかはわからないし、別にその女性が嫌だったわけではないのです。でも、そうするしかなかった。結局、ごはんを食べられなくなってしまい、その方とも一緒にいなくなりました。そうなってくると、さらに、ごはんを食べることに悩んでしまいます。考えないようにしていても、考えてしまう。そんな自分に疲れます。
だけど、それって、自分にとっての本質的な「なにか」なのではないか、とも考えるようになりました。そして、そんなことを書いてみたい、と思うようにもなりました。
そんなことを考えていたら、ある本に出会いました。『おいしいごはんが食べられますように』という小説です。この本の中の二谷さんや押尾さんは、ここまで書いてきたぼくと重なるところがあると思うし、とくに二谷さんの正しいごはんがダメなところは「まさに!」という感じで、とても考えさせられるものがありました。(逆にいえば、芦川さんのことも考えてしまいます)
物語の登場人物に自分を重ねることは、あまり良いことではないと思うけれど、「二谷さんは、な」と思うのです。そして、それは自分にとって生きていることを実感してしまう、厄介な「なにか」でもあります。「これを書けるんだ!」という感動と、「書かれてしまった」という嫉妬がこの本には詰まっています。
小説である以上、登場人物がいて、ストーリーがあり、そこには伝えたい「なにか」が含まれていると思います。それは詩とは違います。でも、その「なにか」を受けとった時から、ぼくにとって、それは「詩」になります。この本をぼくは「詩」として読みました。何度も。
引用させていただきます。そして、それに続いて、ぼくの言葉も重ねさせてください。
→ このnoteの上に水たまりがある。その上をバシャバシャと歩く。自分で書いたものの上を自分の足で。しっかりした青い空の下、だらしなく自分を受け入れる。
→ はじまることもおわることもわからない。はっきりした、ひとつの道を歩くことができない。いつも、もうひとつの道を見つけてしまう。
→ あのチカチカも、ユラユラもあなたかもしれない。そんなことを思うと、あなたが突然近くにきてくれたみたいで、ぼくはおかしくなる。もうなにも食べたくないよ。
→ もうなにもいらないって、いつも思うけれど、やっぱりできないみたい。シンプルなことだよって、いつも言ってはみるけれど、やっぱり足りないみたい。
→ いただきます。ごちそうさま。今日もなにかを食べて、生きてしまう、ぼくたちへ、詩が甘かったらいいのに。