年をとっていくなぁと実感していく中で、さらにケガをしたことで、動けなくなった夏に、旅にでることを思って、『荒野へ』を読んだ、という話の続きです。
前回はとりとめもなく、いろいろ書いてしまったけれど、少し整理すると……旅にでることに憧れていた若い時の自分は、自分がいなくなること、いなくなってしまうことをどこかでのぞんでいたのではないか、ということ。解放するという発想ともちがう、自分を見つけて、捨ててしまいたい、という不思議で、切実な思い。そして、そうしたことを考えるようになったのは、自分がふれてきた本から得た「文学的影響」からなのではないか、ということ。
そして、それは叶わないこともわかっていて、自分なんて、どうやっても自分でしかなく、いつまで経っても、なにも変えることができないということ。旅にでたつもりでも、結局変わらずに、「ここ」に帰ってきて、「ここ」に居続けているということ。
では、そんな風に、旅にでられなかった自分が、なぜ、いまだに旅にでることを思ってしまうのか、ということを考えてみるのが、前回とこの原稿ということになります。
簡単に言ってしまえば、いつもとはちがうどこかへ行き、いつもとはちがう景色を見て、いつもとはちがう「なにか」を感じたいということだと思うのですが、それだと単なる旅行になってしまうので、どうしようかなぁと思っているうちに……いつの間にか、年を重ねてしまい……また、いまはどこにいても、なにをしていても、当たり前につながってしまうので、現実的にも「放浪する」という意味での「旅」にでるということはどうなんだろうと考えてしまって……。
だけど、やっぱり、旅に出てみたいと思ってしまうのです。いろいろわかってしまった、いまの自分だからこそ、どこかに行けるのではないか、と。
ケガをしてしまい、なにかとパニックになってしまう自分がいつもの暮らしから、ちがうところに行ってみて、やっぱりダメになってしまったら、すぐに帰ってきてしまえばいい。なにも変わらない自分に改めて向き合えばいい。ちょっとでもひとりになれたと思えて、ちょっとでも自然にふれた気になれればいい。そんな開き直りのような気持ちも、いまの自分だからこそ持てるのかもしれません。
そうなってくると、『荒野へ』をふたたび読むことは、若い頃とはちがう「なにか」を確かめることになります。前回の最後にも書きましたが、この本は各章のはじめに引用があって、それがイイ。なので、引用の引用になってしまいますが、いくつか載せたいと思います。
さきほど、確かめることになる、と書きましたが、こうした内容を理解するのに、旅にでなくても、荒野を目指さなくても、自分の中でわかってくるものがあるのではないかと思ってもいるのです。
また、それは「なぜ旅にでられないか」ということにも関係してくるのですが、前の原稿とこの原稿で旅にでられない自分をなにかと分析(言い訳)しているのですが、それとはちがった、もっとシンプルな理由として、「ぼくは誰かと居てしまう」というのがあると思っているのです。それは欲の問題にもつながりますが、女性や犬といることで、上記の内容を理解できそうな時があるのです。まぁ、それを書くには、まだまだ力不足だし、書いてしまってもいけないと思うのですが、自分の中では、旅にでることと、誰かと居てしまうことの欲の問題はつながっていると思っています。また、自然にふれることと、ふれたことをほんとうに理解することはできないのではないか、ということもかなり考えていることなんです。
なにが言いたいのかわからないと思いますが、『荒野へ』の中にこんな件があって、さらに考えました。
今年はカメラマンの和泉求さんとなにか一緒にできたら、という話をしていて、その流れで和泉さんの北海道撮影の旅に、ちょっとお邪魔させてもらいました。
ぼくは飛行機も、船も乗れないので、電車で行き、レンタカーで北海道のあちこちを訪ねて、途中、和泉さんとも釧路で会いました。
いずれ、その話も。そして、その作品も。
ぼくは行ってきたのです。確かめる旅に。