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note20/8月から9月にかけて『荒野へ』を読む②

 年をとっていくなぁと実感していく中で、さらにケガをしたことで、動けなくなった夏に、旅にでることを思って、『荒野へ』を読んだ、という話の続きです。

 前回はとりとめもなく、いろいろ書いてしまったけれど、少し整理すると……旅にでることに憧れていた若い時の自分は、自分がいなくなること、いなくなってしまうことをどこかでのぞんでいたのではないか、ということ。解放するという発想ともちがう、自分を見つけて、捨ててしまいたい、という不思議で、切実な思い。そして、そうしたことを考えるようになったのは、自分がふれてきた本から得た「文学的影響」からなのではないか、ということ。
 そして、それは叶わないこともわかっていて、自分なんて、どうやっても自分でしかなく、いつまで経っても、なにも変えることができないということ。旅にでたつもりでも、結局変わらずに、「ここ」に帰ってきて、「ここ」に居続けているということ。

 では、そんな風に、旅にでられなかった自分が、なぜ、いまだに旅にでることを思ってしまうのか、ということを考えてみるのが、前回とこの原稿ということになります。

 簡単に言ってしまえば、いつもとはちがうどこかへ行き、いつもとはちがう景色を見て、いつもとはちがう「なにか」を感じたいということだと思うのですが、それだと単なる旅行になってしまうので、どうしようかなぁと思っているうちに……いつの間にか、年を重ねてしまい……また、いまはどこにいても、なにをしていても、当たり前につながってしまうので、現実的にも「放浪する」という意味での「旅」にでるということはどうなんだろうと考えてしまって……。

 だけど、やっぱり、旅に出てみたいと思ってしまうのです。いろいろわかってしまった、いまの自分だからこそ、どこかに行けるのではないか、と。
 ケガをしてしまい、なにかとパニックになってしまう自分がいつもの暮らしから、ちがうところに行ってみて、やっぱりダメになってしまったら、すぐに帰ってきてしまえばいい。なにも変わらない自分に改めて向き合えばいい。ちょっとでもひとりになれたと思えて、ちょっとでも自然にふれた気になれればいい。そんな開き直りのような気持ちも、いまの自分だからこそ持てるのかもしれません。

 そうなってくると、『荒野へ』をふたたび読むことは、若い頃とはちがう「なにか」を確かめることになります。前回の最後にも書きましたが、この本は各章のはじめに引用があって、それがイイ。なので、引用の引用になってしまいますが、いくつか載せたいと思います。

 自分に正直に生きて、誤った方向に進んだ者はこれまで誰もいない。それによって、肉体的に弱ったとしても、まだ残念な結果だったとは言えないだろう。それらはより高い原則に準拠した生き方であるからだ。もし昼と夜が喜んで迎えられ、また、生活が花々やいい香りのハーブのように芳香を放ち、もっとしなやかになり、星のように輝き、不滅のものになれば、しめたものである。自然全体が祝福してくれているのだし、それだけでも、自分の幸福を喜んでいいのだ。最大の利益と価値はいちばん気づきにくいものなのである。そんなものなどあるだろうか、とわれわれはつい思ってしまう。また、すぐに忘れる。が、それらは最高の真実なのである……私の日常生活における真の収穫は、朝や夕方の淡い色合いと同様、漠としたものだし、名状しがたいものだ。それは捕えられた小さな星くずであり、自分でしっかりと掴みとった虹の切片である。
 ヘンリー・ディヴィッド・ソロー 『ウォールデン、森の生活』 クリス・マッカンドレスの遺品とともに発見された書物の一冊のなかで強調されている一節

  とつぜん、なにもかもが変わった 世の中の空気も、人々のモラルも。なにを考えたらいいのか、誰の話に耳を傾けたらいいのかがわからなかった。まるで幼児のように、これまでずっと手を引かれて生きていたのが、とつぜん、独りぼっちにされて、自力で歩くすべを身につけなければならないかのようだった。まわりには、誰もいなかった。家族も、その思慮分別にたいして敬服していた人々も。そんなとき、人は自分自身をなにか絶対的なもの 人生とか、真理とか、美とか に献身したいという気持ちになる。人間が作ったルールに代わって、見向きもしないできたその絶対的なものに支配されたいという気持ちになるのだ。昔なつかしい平和な日々、いまや崩壊して永久に過去のものとなった昔の生活、あのころよりももっと徹底的に、もっとしゃにむに、なにかそんな究極の目的に身をゆだねる必要があった。 ボリス・バステルナーク 『ドクトル・ジバゴ』 クリス・マッカンドレスの遺品とともに発見された書物のなかで強調されていた一節。文章の余白には、マッカンドレスによって、「目的の必要」と書かれていた。

『荒野へ』ジョン・クラカワー

 さきほど、確かめることになる、と書きましたが、こうした内容を理解するのに、旅にでなくても、荒野を目指さなくても、自分の中でわかってくるものがあるのではないかと思ってもいるのです。
 また、それは「なぜ旅にでられないか」ということにも関係してくるのですが、前の原稿とこの原稿で旅にでられない自分をなにかと分析(言い訳)しているのですが、それとはちがった、もっとシンプルな理由として、「ぼくは誰かと居てしまう」というのがあると思っているのです。それは欲の問題にもつながりますが、女性や犬といることで、上記の内容を理解できそうな時があるのです。まぁ、それを書くには、まだまだ力不足だし、書いてしまってもいけないと思うのですが、自分の中では、旅にでることと、誰かと居てしまうことの欲の問題はつながっていると思っています。また、自然にふれることと、ふれたことをほんとうに理解することはできないのではないか、ということもかなり考えていることなんです。
 なにが言いたいのかわからないと思いますが、『荒野へ』の中にこんな件があって、さらに考えました。

 性的禁欲と道徳的潔白は長所であり、マッカンドレスはそのことについて繰りかえし思索をめぐらしている。事実、所持品とともにバスのなかにあった一冊の本は小説集で、そのなかには、苦行者となった貴族が「肉欲」を糾弾するトルストイの『クロイツェル・ソナタ』も入っていたのである。ページのすみが折れた本には、そうした文章の何か所かに星印がつけられたり、強調されたりしていた。余白には、マッカンドレスのものとはっきりわかる筆跡で短いメモがぎっしり書かれていた。やはりバスのなかで発見されたソローの『ウォールデン』の「より高い法則」の章では、「性的禁欲は男の開花期であり、いわゆる才能、英雄的行為、聖性といったものはそのあとにもたらされる、まさにさまざまな果実である」という箇所が丸で囲われていた。<略>荒野に魅せられた多くのこうした人々と同様、マッカンドレスも、性欲に取ってかわるさまざまな激しい欲望に駆り立てられていたように思われる。ある意味で、彼の憧れはあまりに強力で、人間との触れ合いによっては満たされなかったのだ。マッカンドレスは女性たちからの援助の申し出に心を動かされてきたかもしれないが、自然や宇宙にそのものとの素朴な出会いにたいする期待にくらべれば、それは見劣りがした。このようにして、彼は北のアラスカへと引き寄せられたのである。

 ヘラジカの一件があってから間もなく、マッカンドレスはソローの『ウォールデン』を読みだした。ソローが食のモラルについて思索をめぐらしている「より高い法則」という評団の章に、マッカンドレスが強調している箇所があった。「私は魚を捕まえ、はらわたを取り、調理して、食べたが、どうしてもそれらが栄養になったとは思われなかった。無意味なこと、無益なことであり、得たものよりも失ったもののほうが大きかった」マッカンドレスは余白に「ヘラジカ」と書いた。そして、同じ一節に、彼は印をつけている。肉食にたいする嫌悪は経験によるものではなく、もって生まれたものである。粗末なものを食べて、質素に暮らすほうが、いろいろな点からして美しく思われた。それを実行に移したことはなかったが、実行できたらいいとは本気で思っていた。すぐれた才能とか詩的才能を最良の状態で維持しようと努めてきた人々は皆、とりわけ肉食や過食をつつしもうとしていたように思う……。

 生態学者ポール・シェパードは、こんなことを述べている。
 遊牧民のペドウィンは風景を愛でることはないし、風景画も描かない。あるいは、実用的ではない自然誌を編集することもない……その暮らしは、自然との交流に深く根差しているために、抽象概念とか、美の哲学とか、実際の生活と切り離せるような「自然哲学」の入り込む余地はない……自然とペドウィンの関係はまことに重要な問題であり、しきたりと神秘と危険によって規定されている。ペドウィンの個人的な余暇は、くだらない気晴らしに向けられることはなく、自然の歩みをみだりに変えることもけっしてない。ペドウィンの生活に組み入れられることは、自然の歩みの存在、大地、予測不可能な天候、生きていくことのきびしさに気づかされることである。 生態学者ポール・シェパードは、こんなことを述べている。
 遊牧民のペドウィンは風景を愛でることはないし、風景画も描かない。あるいは、実用的ではない自然誌を編集することもない……その暮らしは、自然との交流に深く根差しているために、抽象概念とか、美の哲学とか、実際の生活と切り離せるような「自然哲学」の入り込む余地はない……自然とペドウィンの関係はまことに重要な問題であり、しきたりと神秘と危険によって規定されている。ペドウィンの個人的な余暇は、くだらない気晴らしに向けられることはなく、自然の歩みをみだりに変えることもけっしてない。ペドウィンの生活に組み入れられることは、自然の歩みの存在、大地、予測不可能な天候、生きていくことのきびしさに気づかされることである。

『荒野へ』ジョン・クラカワー

 今年はカメラマンの和泉求さんとなにか一緒にできたら、という話をしていて、その流れで和泉さんの北海道撮影の旅に、ちょっとお邪魔させてもらいました。
 ぼくは飛行機も、船も乗れないので、電車で行き、レンタカーで北海道のあちこちを訪ねて、途中、和泉さんとも釧路で会いました。
 いずれ、その話も。そして、その作品も。
 ぼくは行ってきたのです。確かめる旅に。

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