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note19/8月から9月にかけて『荒野へ』を読む①

 2年前の夏。入院した時のベッドで、退院後通院した時の待合室で、ジョン・クラカワーの『荒野へ』を読みました。この本を読むのは20年ぶりくらいでしょうか。いや、映画化された時に、読み返しているかもしれない……あっ、ラジオで紹介した時があったから、その時も読み返したかも……だけど、覚えていない……とにかく、久しぶりになります。『荒野へ』を病院で読みました。

 この本は、クリス・マッカンドレスという青年がアラスカ山脈に徒歩で入っていき、命を落としてしまったことをさまざまな人の言葉で追いかけ、まとめることで、クリス・マッカンドレスとは何者だったのかを考える構成になっています。また作者が自分の体験と重ねて、話を進めていくこともあって、なぜ、この青年がいままでの人生を捨ててまで、危険な旅に出たのかを考えるものにもなっています。
 この本は、いつか読み返したいと思いながら、なかなか読めずにいました。同じように、こうも言えます。この本の中のクリス・マッカンドレスのように、いつか旅に出たいと思いながら、なかなか旅に出ることができずにいました、と。

 このnoteでは、過去をいまにつなげていくことで、自分を整理していく、というテーマみたいなものがあるのですが、そんなことを考えている時点で「なんだかなぁ」と突っ込んでしまう自分もいるのです。だって、そんなことしてもなにもならないことがわかっているから。だけど、そうしないと、もっとダメになってしまうのもわかっていて、というか、すでにダメになっているので、なんとか、自分を整理し、まとめていきたい、と思っているのです。
 そうした思考は自分探し的なものになっていくようで、そうなると「旅に出ること」と親和性が高くなってしまいます。クリス・マッカンドレスのように、自分の人生を捨てるまではできなくても、なにか、自分に変化が起こるような、もしくはなにかの気づきがあるような、自由と孤独を贅沢に味わえる旅。そのような旅への憧れをいだいたことがあるのは、ぼくだけではないでしょう。
 作者のジョン・クラカワーもそうだったようです。

 私は二十三歳、クリスがアラスカの森に入っていった時よりも、一歳若かった。青春期のやみくもな情熱にたきつけられ、ニーチェやケルアックやジョン・メンラヴ・エドワーズの作品から過度の文学的影響を受けて、自分を正当化したのである。それを正当化と呼ぶことができればだが。

『荒野へ』ジョン・クラカワー

 ぼくもまさに同じように文学的影響を受けて、自分を正当化して、旅に出たいと若い頃は思っていました。実際に車で国内をうろうろしたり、お金を貯めて海外に行ったりしたこともあります。だけど、それはすぐに帰ってきてしまう、なにもわからないままだった、単なる旅行だったと言えます。自分では「放浪の」旅に出たつもりではいるのです。いままでの自分を捨てる、もしくは変えるきっかけとしての旅です。だけど、それができないことを思い知ったのが、そうしたいくつかの旅でした。どこまでも、自分は自分でしかなく、やっぱりなにもできないのだと。

 こういうのって、ほんと、青臭く、どうしようもないなぁと思うのですが、そのような感覚は、いまでも、心のどこかにひっそりと隠れていて、いなくなっていないのです。困ったものだと思うのですが、それがなぜかを考えた時、上記したような「文学的影響」というのが大きいのではないかと、今回『荒野へ』を読み返してみて思いました。
クラカワーは続けて、こうも書いています。

エドワーズは深い悩みをいだいた作家・精神科医であり、<略>、山に登るのはスポーツとしてではなく、彼の存在の骨格となっている精神的苦悩から逃避するためだった。

『荒野へ』ジョン・クラカワー

 「旅」もしくは旅行は、日常からちょっと逸れた楽しみ、普段の生活からの息抜き的な行為と言えます。キャンプのような、自然の中に出かける「アウトドアな楽しみ」にも当て嵌まるのではないでしょうか。だけど「文学的」となると、息抜きではなく、自分に向き合うものになり、そうなると、それは普段からの「インドアな行為」の延長になります。もし、その考えが間違っていないなら、ぼくのようなおっさんでも、「旅に出る」という思いを(実際に行けていないのに)、いまだに持ち続けることができるのではないかと思ったのです。

 なんですが、年をとっていけば、「旅に出る」ことを思うことは、自分の体力、気力の衰えと密接に関係していき、時代の変化にも関係していきます。いまはどこにいても、情報を得ることができるし、与えることもできます。誰とも、どこともつながらない、自分だけの自由(のようなもの)、というのがそもそもあり得ないし、ちょっとそのような状況をつくれても、体力や気力がもたなくて、すぐに現実に戻ってしまいたくなります。

 少しちがう視点になってしまうかもしれませんが、ビートを追いかけ、伝えてきた佐野元春が、自ら刊行した雑誌『THIS』の取材で、1994年に「ナロバ・インスティテュート記念式典」に行った時の原稿にこんな件があります。

 そこには先人たちの反抗の軌跡を次の世代に渡してゆくのだという決意があった。生き残った証人たちと膨大な資料を前に感動的でありまた圧倒的でもあった。しかし一方で、インタビューしてゆくなかでの僕の感想は、やや感傷的にならざるをえなかった。やはり時は流れたのだ。たとえばアレン・ギンズバーグ・ライブラリーがそれを象徴していた。彼らが敵に回した近代文明、キャピタリズム、管理体制、あらゆる差別と検閲。自由を擁護するにあたっての野蛮な理論武装は、もはや路上ではなくエアコンディショナーの効いたライブラリーのなかにあった。<略>これはもちろんイベントをレポートするにあたって重要な指摘ではないにしても、ビートが現在置かれているひとつの現実でもあるだろう。

『ビート二クス コヨーテ、荒地を往く』佐野元春

 いまは路上がなくなってしまった世界なのでしょうか。どこにいても、だれかが、なにかを発信している、受信している世界。ひとりにはなれないけれど、ひとりだと感じてしまう世界。
 ひとりはかなしい? それとも、贅沢なこと? 自由になる、とはどういうこと? 目に見えるものから、見えないものまで、たくさんのルールがある世界。そこから自由になるとはどういうことなのだろう。当たり前のことに「そうじゃない」って言っても、すぐに次の当たり前がやってくるから、なんだかわからなくなってしまう。結局、ぜんぶ嫌になってしまうけれど、それも、これも、ぼくたちが望み、つくってきた世界なのだから、さらに質が悪い。

 だとしたら、もう旅に出ても仕方がない? もしかしたら、そうなのかもしれない。 だけど、やっぱり旅に出たいと思ってしまう。いや、だからこそ、旅に出たいと思うのかもしれない。なにもかもがすでにわかっている世界で、いつまで経っても自分は変われないけれど、もしかしたら、地図に載っていない大切などこかがあるのではないか、そんな風に思ってしまうこともやっぱりなくならない。それもまた、この世界なのでしょう。

 『海街diary』の6巻「地図にない場所」を読むと、涙が出てしまいます。糸さんが直人くんの話を聞き、呟くオーデンの一節です。

立ち上がってたたみなさい
君の悲嘆の地図を

『海街dairy 6巻/地図にない場所』からオーデンの詩の一節


探している、その場所は、すぐ近くにあるのかもしれない。この星はそんなことも時々教えてくれます。

 結局、なにが言いたいのか、よくわからなくなってしまった原稿ですが、こうした気持ちをこれまた見事に表現してくれたのが、スピッツの草野正宗さんです。『僕はきっと旅に出る』は歌詞のクオリティがすごく、ここまでぼくが書いてきたことが、素晴らしく表現されていると(勝手に)思っています。

またいつか旅に出る 懲りずにまだ憧れている
地図にもない島へ 何を持っていこうかと


僕はきっと旅に出る 今はまだ難しいけど
初夏の虫のように 刹那の命はずませ
小さな雲のすき間に ひとつだけ星が光る
たぶんそれは叶うよ 願い続けてれば
愚かだろうか? 想像じゃなくなるそん時まで

『僕はきっと旅に出る』スピッツ

 『荒野へ』の紹介が中途半端になってしまいましたが、この本は各章がはじまる前に引用があって、これがまたイイのです。引用の引用になってしまうけれど、次の原稿はそのことについてふれたいと思います。


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