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note 18/9月になったら、マーベラス・ミセス・メイゼルについて話そう②

 『マーベラス・ミセス・メイゼル』は2022年の夏、手術から帰ってきて、具合が悪く、なにもできない時に、クーラーで部屋をキンキンに冷やして観始めました。そこから、ゆっくり進めて、時々痛みでボーっとなったりもして、わからなくなると戻りながら、2023年の夏に、最後のシーズンを観ました。『マーベラス・ミセス・メイゼル』はぼくにとって、夏から秋にかけて観始めたドラマであり、夏から秋にかけて観終わったドラマです。その間、ほかのドラマや映画も観て、ハマったものもありましたが、『マーベラス・ミセス・メイゼル』は骨折・手術となぜか密接につながっている記憶としてあるんです。というわけで、今回も書きたいと思います。「9月になったら、マーベラス・ミセス・メイゼルについて話そう」を。

 前回の原稿で、<じつははじめ好きになれなかった。だって、登場人物がみんな嫌だったから>ということを書きましたが、なかでも、良さがなかなかわからなかったのが、マネージャーのスージーです。で、これも意図的なんだと思います。厄介なやつとして、描かれているのがスージーだからです。スージーの会話のリズム、使われる言葉がなんとも苦手で、パソコンにイヤホンをつけて観ている時などは、スージーの声にのぼせてくることがあるくらいでした。だけど、これもそういうところを意図して描かれているのだと思うのです。わかりやすくイイ奴ではなく、なんだかんだと気になる奴みたいな。なので、物語が進むにつれ、少しずつイイところが見えてくると、逆にグッときてしまうのがスージーなのです。
 とくにシーズン5の第6話。スージーを「イジり倒しながらねぎらう会」は秀逸です。単純な感想になってしまうのですが、観ている間中、「スージーって、そんなところがあったのか!」と唸ってばかりでした。そして、ここでも「笑う」ことの偉大さを考えます。過去を振り返ることは、かなしく、切ないことばかりなのに、それを「笑ってしまう」のは、人間の本能に「かなしいことがあっても笑うしかない」というのがあるのではないか、と思うくらい、登壇するみんなの言葉には、愛と情がありました。そして、最後のサプライズ。ミッジの言葉。これは、かつての愛はなくなってしまったけれど、だからこそ、わずかに残った情を確かめるように話しかける言葉でした。もちろん、泣きます。スージーも。みんなも。ぼくも。

 前回の原稿で、「次は<正解らしきもの・自分のステージ>について書きます」と書いて終わったので、ここからは、そのことについて書きたいと思います。
  物語の中でさまざまなステージに立つミッジですが、ステージに立って、勝つということがなかなかできません。オファーは増えていくけれど、つい余計なことを言ってしまったり、やってしまったりで、うまくいかない。そこもまた歯がゆく、じれったく進むわけですが、そんな中、自分が輝けるのは「なにも気にせず、思ったことを言える時だ」と気づきます。だけど、それをやってしまうと、上記したように失敗ということになってしまう。では、それができる場所、「誰かに用意してもらった場ではなく、自分の場を持とう」と考えます。それがシーズン4で登場する、ストリップ劇場の司会です。
 最初はお客さんも、スタッフも、ミッジを相手にしていません。話もほとんど聞いていない。(ストリップ劇場なので当たり前です)だけど、ミッジは自分の話をすることで、その場を開拓していくのです。ダンサーも、バンドのメンバーも、舞台マネージャーも、少しずつミッジの話を聴くようになります。自分の話を聴かせるということは、自分の話をさせることにつながるのです。気づけば、ミッジの話を聴きにくるお客さんが増えていきます。ついには女性客も来るくらい、ミッジの話はウケるのです。自分のステージはここなのではないか、そんな風に手ごたえを感じ始めた時に、前回の原稿でも書きましたが、レニーに言われてしまうのです。「仕事を断るな」と。そして、やっぱりレニーの言葉はミッジに響いてしまいます。そして、最終シーズンに入っていきます。

 これって、どういうことなのか、考えます(考えてしまいます)。ぼくもそうですが、自分を表現する誰もが、一度は考えたことがあると思うんです。「自分が立ちたい場所に立ちたい」「なにも気にせず、思う存分、自分のことをやりたい」と。そして、それはその人にとっての正解らしきものに思えるのです。現にレニーはカーネギーホールに立った後で、とても苦しそうにしながら、さっきの台詞を言うのです。その時は言われているミッジの方が正解らしきものを纏っているように見えます。そして、それを恐らく、レニーもわかっているのです。
 だけど、ミッジは雪のニューヨークに立ち、『ザ・ゴードンフォード・ショー』の看板を見上げるのです。これって、昔もいまもずっと繰り返されてきた「正解らしきもの」を巡るやりとりなのでしょう。
 売れたいと思うことと、実際に売れること。売れなくてもいいと思うことと、それでも誰かに認められたいと思ってしまうこと。有名になりたいと思うことと、そのためにいろいろな人と出会い、うまく立ち回り、力を身につけたように振る舞うこと。名前が出るようになれば、自分も周りも変わっていき、いろいろなことがうまくいっているように思えること。だけど、そもそも自分の中にあった大切な「なにか」が損なわれてしまったこと。または、そう思ってしまうこと。
 売れることが正解。もしくは、やりたいことができるのが正解。それはきっと、どっちも正解なのでしょう。そして、それがうまく並ばないということが、いつも、みんなを惑わすのでしょう。

 こうしたことは、ステージに立つ誰もが抱える切実な問いかけで、そうした思いがあるからこそ、誤解が生まれ、衝突が始まってしまう。だけど、剥き出しの自分をぶつけ合うことでしか生まれない、人を魅了する「なにか」も確実にあるのだと思います。
 下らない人間関係。見栄や偏見に塗れた世界。そんなことに関わりたくない、きれい心のままでいたい、そんな風に思ったとしても、普段ふれている作品や、大切に思えたアートは、いろいろな人の思惑が混ざり、手が加わり、いまここにやってきたものなのです。

 そして、テレビのこと。ミッジは紆余曲折あったけれど、最後にテレビに出られて、4分間ですべてを掴みます。それが、このドラマのハイライトです。ゴードンに「マーベラスな、ミセス・メイゼル」と紹介されます。それは、最後の4分間で起きます。ミッジとスージーは賭けに出て、見事に勝つのです。「自分のステージに立てればいい」と思っていたミッジは、やっぱりテレビに出たかった。そして、出ればなんとかなると思っていて、実際に輝かしいキャリアを掴んだのです。
 ゴードンの会社を観ても、テレビがいかに特別なものかがわかります。ぼくも昭和生まれなので、テレビの偉大さが身に染みています。テレビが好きだったし、テレビを見ることが当たり前でした。思春期になり、レコードを聴くことや映画館に行くことを覚えても、やっぱりテレビは特別なものでした。だから、ミッジとスージーの気持ちはわかります。そういう時代だったということも理解できます。では、いまはどうでしょう。テレビを観なくなったと言われているし、実際にぼくも観なくなりました。きっと、みんなもそうなのだと思います。人と会っていても、テレビの話題をすることはほとんどなくなりました。だけど、やっぱり、いまだに影響力があるような気がするのです。それがSNSになり、YouTubeになっても、じつはあんまり変わっていないんじゃないかと思うのです。新しくなったようでいて、人が本来好きな「誰かのこと」を勝手に気にして、話題にすることは、ネットと相性が良く、さらにハードにこの毎日を追いかけているように思えます。たしかに、テレビは観なくなったかもしれませんが、それがネットに変わっただけでは、欲がさらに露骨に見えちゃうようでなんだかなぁと思います。もちろん、そこには自分も含まれますが。

 テレビというのは人間の欲の集積として機能してきたものと言えるし、悪い意味での戦後の、高度成長期の象徴とも言えるでしょう。「テレビなんか、下らない」「テレビなんて、観ない方がいい」といつの時代も言われてきたし、テレビに出ないアーテイストは、「かっこイイ」と言われてきました。ぼくもそう思っているところはあります。だけど、大きなお金が動き、トレンドが生まれ、社会に影響が及ぶという意味では、テレビは避けて通れないものだったし、きれいな人が見たい、かっこいい人が見たい、そして「笑いたい」はもっとも浅はかな欲だけど、いつの時代も絶対的な事実だったのではないでしょうか。ネットが当たり前になり、SNSなどによって自分で発信できるようになったと思われているけれど、いま書いたようなことは、逆にネットやSNSと相性が良いとも言えるから、きっとこれからもそうなのだと思います。

 『マーベラス・ミセス・メイゼル』が最後、テレビというものに向き合おうとしたのは、「このドラマをどこで、いつ、なにで観ているのか」という問いかけだったのではないでしょうか。ミッジがステージの最後に言う「Thank You & Good Night !」という台詞が、熱く響くのはどういうことなのか、ずっと考えています。


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武田こうじ
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