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理想論を問う夜の最寄り駅

誰もがなりたい姿があるが、そうなることを拒む世界である。そんな風に思ったとある日常の出来事。

自分の住む地域のローカル線は田舎にあるので普通に無人駅がある。自分の最寄り駅も夜になると無人駅になる。先日、夜の最寄り駅を利用した時のこと、自分の前を歩いていたおじいさんが改札を素通りした。電子マネーを使うでもなく、切符を切符入れに入れるでもなく。

そのおじいさんを見て「やばっ」と思いながら、電子マネーで改札を抜けたとき、すごくもやもやした気持ちを抱えた。無人駅であることを悪用すれば一駅分のお金でどこまでも行けてしまう、あのおじいさんのように。そう考えたら、ちゃんと規定のお金を払っていることが馬鹿らしくなってしまった。

ああゆう人に限って経営難でローカル線を廃止するみたいな話になったときに、「無くなったら困る!」とか声高に叫ぶんじゃないかなとか皮肉めいたことを考えていたが、本当は気づいていたんだ。

このもやもやはあのおじいさんに注意できなかった自分の不甲斐なさが原因だってことに。

言い訳はいくらでも出てくる。あの場に駅員さんはいなかったから注意したところでおじいさんがお金を払うことはないだろうし、知らない人に注意してトラブルになるのもごめんだ。

うちの母親も出店で買い物したとき、前の人が電子マネーの金額を入力した画面を見せて決済ボタンを押さなかったと言っていた。つまりは無銭飲食という立派な罪を目の当たりにして注意しなかったのだ。その話を聞いて自分は「なんで注意しなかったの?」とは言わず「やばっ」と言うだけだった。

そんなことを考えていたら、少し前に電車で喫煙していた男性に注意した高校生が暴行を受け、大けがを負った事件があったことを思い出した。そして思ってしまった。自分はその高校生のようになりたいけどなりたくないと。

当然その高校生の姿はあるべき姿だが、それが受け入れられるとは限らない世界なのだと思ってしまった。自分は他人を注意して殴られたくないと率直に思ってしまったのだ。

理想論を語るなら正しい人は報われるべきだ。だが、現実はそうじゃない。正しいことをした高校生は大けがを負い、自分はおじいさんより高いお金を払っている。

それでも自分は規定のお金を払い続ける。なんでだろうか、損してるだけなのに。いや、損はしてないか。この"損する"という考え方はおじいさんと自分を比較してしまったから生まれたものだ。

他人を注意するのは怖い、それが正しいことだと分かっていても。ならせめて自分は正しいことをしよう。規定の料金を払おう、車が来てなくても赤信号は待とう、ごみの分別をしよう。自分を嫌いにならないように。綺麗事では飯は食えないって言うなら、ご飯を食べられるうちは綺麗事を掲げよう。

でも、ホントはさ、注意されるような人がいなきゃこんなこと考えることもないんだよ、世界。

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