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父を語れば [1/3] (エッセイ)

4年前に92歳で亡くなるまで父が暮らしていた隣家を取り壊すことになり、遺品を整理していたら、膨大な量の日記がありました。
古いものは彼が寄宿生活に入った13歳からで、中には「闘病日誌」と題された20代のノートも混じっていました。
定年退職後に母とふたり旅した記録を、写真と共に克明に綴る「旅日記シリーズ」もありました。

先月の「母の日」から3回に渡り、思い出を「母を語れば」と題して連載しました。

個人的な忘備録でもあり、果たしてnote読者の方々の興味を引くだろうかと心配でしたが、意外にも、私のカキモノの中ではビューが多い記事になりました。《スキ》、そして貴重な《コメント》をいただいた方々には深く感謝します。

「父の日」には父に関する忘備録を、と思いつつも、母とは私との距離感も異なり、どうしようか、と迷っていました。

しかし、遺品の日記、そして、彼が残した「戦時下での青春」に関わる書籍を取り壊し前に自宅に運びながら、彼の人生と私との関わりなどを振り返ることを決めました。

Again、これも個人的な忘備録であり、ご参考になるかどうか、まったく自信はありません。

母が80歳を過ぎ、けれどまだ認知症の症状が現れていなかった頃、ふと、私に呟いたことがありました。

「お父さんはかわいそうな人だ。特殊な教育を受けて育ったから、常識を知らない」

もちろん、父が近くにいない時です。

子供の頃、母親からいつも、お父さんに感謝しなさい、お父さんが遠く離れた工事現場で働いているから、こうやって生活ができるのよ、と言われて育ってきました。
ですから、母の《本音の人物評》を聞いたのは、初めてのことでした。

父は、小学校長を務める祖父の、8人の子供の末子であり、7男として生まれました。
おそらく「デキ」が良かったこともあり、また、時代の流れもあり、彼は兄弟の中でただひとり、旧制中学1年で《陸軍幼年学校》を受験します。

この学校(通称:陸幼)は、将来の陸軍将校候補者として教育するために設けられた全寮制の教育機関でした。入校時の満年齢で13歳以上、15歳未満の男子のみに受験資格があり、

将来の陸軍将校となることが事実上約束されており、若くして軍服に身を包み、規律正しい集団教育を受けるエリート集団たる陸幼生徒は当時の小学生・中学1 - 2年生男子の羨望の的であり志望者が多かった。陸幼入校者を選抜する召募試験の倍率は、時代によって変動したが概ね20倍程度を保ち、中学校のトップクラスでも合格は容易でなかった

Wikipedia「陸軍士官学校」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E5%AD%A6%E6%A0%A1#%E6%95%99%E8%82%B2

父も後年、私の尋ねに応じて自嘲気味に答えました。
「《陸幼》に入ったら、優秀なヤツが一杯いてなあ、その中に入ったら、俺は『並み』だったよ」

「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされました。また、武官の子息を主な対象に、月謝の減免措置も影響し、陸幼入校者のうち30-50%程度が武官の子息だったそうです。
こうした環境は、父のように《平民・非武官》の息子の進学への敷居はさらに高く、不公平感も強かったようです。

当時の陸軍幼年学校は、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6校ですが、試験は全国選抜であり、どの地方校に配属になるかはわかりません。
父は運よく、小牧町(現在の小牧市内)にあった名古屋陸軍幼年学校に配属され、寄宿舎生活を始めます。

《陸幼》では、「生徒1名に対し、教職員2名」という体制が取られており、
 今日に至るまで、日本でもっとも整備された教育機関は陸軍幼年学校だった。

藤井非三四
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E5%AD%A6%E6%A0%A1#%E6%95%99%E8%82%B2

教科は旧制中学の2-5年生の4年分の学科を3年間で教えるのですが、中学とは異なり、
語学が重視され、英語以外に、ドイツ語、フランス語、ロシア語専攻があった(父は独語)。
初歩的な《軍事学》と《精神訓話》を武官である生徒監などから学んだ。
音楽と図画が重視された。
「図画重視」はおそらく、戦場の《眺望》を素早く正確にスケッチして伝達する能力が重要だからでしょう。

そうした環境に四六時中置かれるわけですから、生徒たちは容易に《洗脳》されていくことでしょう。いや、《洗脳》自体がこの学校の目的のひとつであったことでしょう。

父は、外泊可能な休暇を得れば名古屋市内の実家に帰省しましたが、限定的な自由時間の時は、小牧町内の従姉いとこが嫁いでいた家を訪れました。
そこで、菓子や果物を食べさせてもらい、
「甘いものは普段口にできなかったから、本当に美味かったなあ」
と後年、懐かし気に振り返っていました。
その家には、父より1学年下の男の子と、2学年下の女の子がいました。
男の子は父に憧れて《陸幼》を受験しますが、1年目は不合格、中学2年の再受験で合格します。
この人には私の就職に際して身元保証人を引き受けていただき、8人だけの結婚式にも参列をお願いしました。
2学年下の女の子は、14年後に「父が大病して婚約者に去られる」という偶然の結果、彼と結婚して私の母となります。

父は《陸幼》を卒業後、《陸軍予科士官学校》を経て、終戦の前年に《陸軍航空士官学校》に入校し、旧満州で飛行訓練中に敗戦を迎え、朝鮮半島を経て復員します。

自分が信じて懸けた《道》とそこですごした《青春》が、戦後はすべて否定され、三菱の工場が目と鼻の先だった実家は1945年3月の名古屋大空襲で全焼し、
「明日食うためにどうするか。そんなことばかり考えていた」

90歳を過ぎた父が二十歳の頃を振り返り、話してくれたことがあります。

母が洩らしたように、父が「常識のない人」だと思ったことはありません。
むしろ、私から見て、「きわめて常識的な人物」でした。
「過度に《常識》を重んじる人物」と言っていいかもしれません。
けれど、その《思考法》はやや特殊であり、それは、《陸幼》時代の《洗脳》と関係しているのではないか、とずっと考えています。
母が表現したのもそのことだったでしょう。

半藤一利「ノモンハンの夏」を読んだ時、ソ連軍と戦って膨大な数の犠牲者を出したノモンハン事件(1939年)の日本側関係者の多くが《陸幼》出身者であることを知りました。
不拡大方針だった陸軍参謀本部の幹部はもちろん、その方針を無視して無謀な戦闘に突き進んだ関東軍側の辻政信・小松原道太郎など、双方のいずれもが《陸幼》出身で、最優秀の成績で《陸軍士官学校》を卒業した戦中エリートたちでした。
昭和天皇は、
「陸軍幼年学校が《諸悪の根源》だ」
とまで言った
そうです。

戦後、こうした事実が明るみになるにつれ、青春期に自分が所属していた組織を客観的に見つめる人と、そうした情報からは目を背けて懐かしく青春を振り返るだけの人、さらに積極的に過去の組織を肯定する人 ── おおまかにこの3種類に分かれることでしょう。

さて、父はどうだったのだろうか?

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