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《集団》に対する《先入観》や《偏見》は、小さな《サンプル数》で形成される (再勉生活)

仕事で初めて海外出張に出た時、ある日本企業の海外法人を経営する人と話す機会があった。
米国人の部下を何人か持ち、大都市郊外の一戸建てに住むその人は、米国での生活について語った。
「これは大げさな言い方に聞こえるかもしれませんが、こちらの暮らしでは『ひとりひとりが国の代表』という気持ちで、自分の言動に注意するよう心がけています」

これを聞いた時には、
(うーむ,なんと立派な人であろうか!)
と感心した。 

しかし、その真の意味がわかったのは、自分が米国留学し、1年ほどが経過した後のことである。嵐のように試験に追われる日々が峠を越し、身の回りを観察する余裕がでてきた。

「いやあ,△△人というのは,やっぱり自己主張が強いねえ」
「◇◇人の言うことは信用できないぞ」
「○○人は調子がいいなあ」
「××人は怠け者だからさあ、……」
などという学生間、研究者間の会話を耳にすることが結構あった。○○や△△、××には、中国、韓国、インド、トルコ、フランス、イギリスなどの留学生やポスドクを送る国々の名前だけでなく、アメリカも入る。もちろん、アメリカ人の中の、ヒスパニック、アフリカ系、アングロサクソン、ユダヤ系などという細分類が入ることもある。
妻との会話を始めとする、日本人の間での遠慮無い井戸端会議の中には、より頻繁に、このような《画一的な集団特性》に基づく人間観が現れる。
しかし、その根拠となるデータは、身近にいる、たいていはサンプル数で1か、せいぜい2、3の個人の、しかもある一部の性向をとらえてそれを国民性などの集団特性にまで《普遍化》する、というかなり無理な作業を行った結果なのである。

当然、米国人や他の留学生は私を観察して、
「まったく、日本人ってのは……」
と言っているに違いなかった。
たまに、
「おまえは日本人らしくないなあ」
などとも言われたが、これも、その人が別の日本人サンプルを眺めて既に確立していた《先入観》とは異なっていただけのことである。

即ち、冒頭の海外赴任者の言葉は、このような経験を経て、
(ひとりの日本人の、例えばおかしな言動により、その周囲の人に「日本人というのはこういうものだ」という悪い偏見を植えつけてしまう)
ということに気付いたために他ならなかった。
そして、当初は私も彼を見習おうとした。

しかし、やがて、
「それは、やっぱり違うんじゃないの」
と考えるようになり、《国の代表》的考えを捨てた

・個人のアイデンティーを国籍や民族に帰納させるのは、ものすごく危険な考え方なのではなかろうか?
・一般化の陰に隠れて、個性が見えなくなってしまうのではないだろうか?

そして、
・集団に対する帰属意識など、個人の尊厳に比べれば、はるかに意味のない代物ではないだろうか?
──このような疑問がふつふつと湧いた結果、『集団主義』的考えを完璧に捨て去ることにしたのである。

他国からの留学生や米国人が日本の工業製品、例えば自動車や電子機器の優秀さを賞賛した後、
「お前も日本人として、鼻が高いだろう」
などと付け加える事がしばしばあった。
このように、日本一般と日本人としての私個人が直接結び付けられるのも自然な事と、当初は当り障りなく応答していた。しかし、やがて、次第に強い《違和感》を覚えるようになった。

「いや、俺は自分が成し遂げた事は誇りにするが、他の日本人の成果を自慢しようとは思わない。単に同じ国籍を持っているだけの事など、何の意味もないのだ」
そう答えるようになった私に、初め興覚めしたような顔だった友人たちも、徐々に理解してくれるようになった。

同様に、第二次大戦中に日本軍と他国の人びととの間に起こった様々なことについても、他国からの留学生の友人と熱心に議論したことがある。
「俺は、俺自身が行った事については責任を持つけれど、他の日本人が行った事について、誇ろうとも思わないし、謝ろうとも思わないよ」
当時の日本という国家については、客観的かつ個別的にその責任を議論したが、個人の関係においてそのような《集団への帰属意識》を持ち込みたくはなかった。

初め奇妙に取られたかもしれないこのような考え方にも、少なくとも私の周囲では賛同する人が増え始めた。そして、私自身も、ほんの少しずつではあるが、人種のるつぼと呼ばれるその国で、肌の色や国籍などに先入観・偏見を極力持たず、他人と関わり合いを持てるようになってきた。


ちょうどこの時期、ユーゴスラビア紛争が勃発した。
昨日まで隣人として付き合っていた人たちが、宗教の違い、民族(方言を含む言語や歴史)の違い、といった強い《帰属意識》により、暴力をふるい、地域から追放し、殺戮し合う連鎖が起こった。
その地からは遠く離れた安全な場所にいたけれど、《集団主義》が引き起こす惨劇を目の前に突き付けられたように思った。
(これは、どこにでも、誰にでも、起こりうる)

それを契機に、
➀ 少ない《サンプル数》で形成される《先入観》や《偏見》
➁ 《個人》の多様性が見えなくなる
《集団主義》の弊害
の2点を連結した考えを、留学中論文(という名を冠したエッセイ)にまとめ、某新聞社から賞をいただいた。


しかし、それから年月が経ち、日常生活の中に埋もれることもあり、かつて《紙に文として書き残した考え方の基本》を忘れているのに気付くことがあります。


そこで、今日は《自戒》を込めて、この記事を書きました。

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