高野洸 "Another Brain" とわたしの「推し活」
最近マイブームなのが、
高野洸 "Another Brain" だ。
この楽曲の軽やかなトラックと伸びやかな歌声、そして軽快なダンスが、大好きだ。
だが最近いつにも増して、その歌詞になんだかグッと胸にくるものがある。
ということで、今回はこの曲と一緒にわたし自身の「推し活」を振り返ってみたい。
先に書いておくが、今回はあまり読み心地のよい記事にはならないかもしれない。
ものすごく個人的な話になる。
本曲における制作側の意図・世界観はきっと、明るくてキラキラして希望に満ちたものだ。
こちらの記事↓によると、
だそうだ。
それに照らし合わせると、これから書いていくことは制作側の意図とズレてしまうのだが、わたしにはピーンッとくるものがあったので、言葉にしておきたい。
あくまでわたし個人の体験を振り返るものであって、ただの問わず語りである。
高野洸 "Another Brain" を聴く・見る
歌詞に気づかされた、SNSの海の深さ
この記事によると、タイトルにもある "Another Brain" とは、「スマホ」を指すのだそうだ。
それを加味して、歌詞を眺めていこう。
さっそくの歌い出し、
スマホの画面を指でなぞるだけで、世界中の「今」にも、見知らぬ誰かの吐露にもアクセスできる光景は、今や酸素のように当たり前にそこにある。
ここで注目したいのは、
「キミ」という存在だ。
この記事↓の中で高野洸は、
と、君=スマホであると制作側の意図を明言している。
それは大前提としておさえた上で、なのだが、わたしにとって本曲に出てくる「キミ」とは、時にはスマホ越しに見る「他人」であり、そして時には「自分自身」でもあると、そう感じている。
なぜなら、スマホを介して眺めるのは間違いなく外の世界なのだが、その外世界と触れることで、最終的には「自分自身がどういう人間なのか」ということが明るみになる、暴かれていくからだ。
少し話が反れるが、わたしは熱しやすく冷めやすい性分だ。
「熱」の高い時の視線の先にはいつも「誰か」がいて夢中になれるが、「冷」に変わる時には自分自身を俯瞰して見ている「もう一人の自分」がいる。
2023年終盤のわたしは、それを久しぶりの「推し活」を通してまざまざと体験した。
わたしは本曲を聴きながら、主題の「スマホ」からもう一歩ふみ込んで、SNSと「推し」「推し活」との距離感についても考えさせられたのだった。
正直に書こう。
あたしゃやっぱり推し活には向いていないんである。
そう認めざるを得なかったのが、この数ヶ月だ。
何かが明確にあったわけではなく、細々とした積み重ねでじわじわと心が消耗していく感覚が否めなかった。
これは今に始まったことではない。
これまでの幾度のファン活動・推し活においてもそうだった。
今はそれが分かっているので、ペース配分をまちがえないよう警戒していたつもりだったが、それでもまだまだだった。
移り気な自分がいまだに誰かを「推し」と呼んでいいのか引け目があるし、熱心なファンの方と比べた時の自分のゆるさを「推し活」に位置づけるのはおこがましい気がしてしまう。
そんな折、たまたま聴いたこの曲の歌詞がバチッと重なって、今やたらと脳内で "Another Brain" が流れる日々を送っている(のでこの記事を書いているのだ)。
繰り返しになるが、ここまで深く考えずとも単純にこの曲のサウンドが好きなのが第一にあるのだが。
さて、そのうえで先に話を進めよう。
この部分の「アラート」=警告とは、わたしにとっては次々と流れてくる告知や通知、さらには暗黙のうちに試されるマナーやモラルや良心や正義だ。
わたしのめんどくせぇ〜性分のせいなのだが、ネット上で少し人間関係ができると、
求められてもいない配慮をしはじめ、
ないはずの視線を気にしはじめ、
しなくていい反省をしはじめ、
見たい・聴きたい・知りたい、が、
いつしか、
あれ見なきゃ、
これ買わなきゃ、
追いかけなきゃ、
追いつかなきゃ……。
そんな風に「実態のない」「アラート」に溺れてゆく感覚がある。
無論、その「海を泳ぎ切」ることなど、不器用なわたしはまだできていない。
できなかった。
なんなら溺れてあっぷあっぷしていた時期が何度もあった。
特に明言している「推し」がいると、まさにこの詞の歌う通りで「一瞬見ないだけで置いてかれ」てしまうのではという焦燥感がいつもどこかにあった。
疲れるからSNSから離れようと思うのだが、でも楽しい瞬間を見逃してしまうようで、輪から外れてしまうようで、離れきれない。
「実態」などないからこそ浮き彫りになってしまう「自分自身の価値観」と、まさに "Fast game" というような手軽で気軽なゲーム感覚の「消費」のその深い海を、わたしは泳ぎきれなかった。
これまでの推し活は、それ自体というよりも、それで自覚してしまう自分自身のもろさにぐったりしてしまっていた。
そして、これだ。
そもそもこの記事を書いていること自体、推し活をかじって「湧き起こ」った「何故だろう」を紐ときたい・整理したいがためだ。
そのあとの「キミに触れたい」というフレーズから思い出すのは、こんなさまざまな感情をくれる「キミ(推しや作品)」のことも知りたいし、その感情を今まさに味わっている「キミ(自分自身)」のことも知りたいと、そういう好奇心だ。
いちいちそんな心の動き方してたら、そりゃあ疲れるよねという話なのだけれど。
動かしてるのではなくて、
勝手に動いてしまうのだ。
悩ましすぎる。
ところでこの箇所、メインボーカルのうしろで流れるうつくしいコーラスがわたしは大好きだ。
歌詞カードには記載はないのだが、耳を頼りに文字に起こすなら
"chasing after you"
まさにその「追いかける」状態に、これまでの推し活でわたしは疲弊してきたように思う。
そして、"goes on" つまり「続く」というフレーズにもわたしは胸を突かれてしまう。
続けられないからだ。
推し活においてわたしは瞬発力こそあれ、なにせ「持久力」がまったく無いのだ。
疲れやすいからなのか、飽き性だからなのか、好奇心旺盛だからなのか、とにかく続けられないのだ。
だからこそ広く浅くたくさん出会えるという側面も、あるにはあるのだが。
さて、歌詞本編に話を戻そう。
SNSは、人と繋がっているようで・眺めているようで・知っているようでその実、あちら側とこちら側にはやっぱり「別世界」くらいの境界線がある。
だから「パラレル」つまり並行世界というフレーズがぴったりだ。
そして、そのあちら側とこちら側を繋ぐのはスマホだけではなく、自分の「想像力」でもある、とわたしは思う。
スマホの向こう側の世界と、自分の手の届く目の前の現実との「余白」を埋めるのは、画像や動画や文章を受け取ってかきたてられる「想像力」なのだと。
そこには多少なりとも "if" =仮説が生まれる。
「もしかして、こういうこと?」
「きっとこうだったのかも」
「こうだったらいいなあ」
「こうしたらいいのに」
「ってことは、そういうこと?」
「まさか……ありえる?」
わたしがSNS疲れしやすい理由は、ここにもある。
その無限に広がる "if" の想像に消耗してしまうのだ。
そして先に述べた、「自分自身がどういう人間なのかが暴かれる」というのは、この「余白」を埋めたいがための "if" の「想像」の過程で、自分自身の人間性・価値観・コンディションがにじみ出てしまうということだ。
俯瞰の傾向が強いわたしにとってそれは、「夢中」から醒める瞬間であるし、自省・自制の始まりだし、推しに向いていたはずのベクトルが自分に向きはじめて苦しくなっていくということでもあった。
言ってしまえば、こうして書いているこの記事だって、"if" の類だ(もうすでに気を抜くと大反省会が始まってしまいそうだ)。
こんな風に自分は弱くもろい人間なので、スマホの奥に広がる海に飛び込むには、それなりの覚悟がいる。
そのくせ、知りたい・繋がりたい・伝えたい・見たい・味わいたい・表現したい……。
疲れると分かっていながら、結局スマホをタップせずにいられない。
ポップで軽やかな本曲を聴きながら、主題とする「スマホ」そしてその「依存性」の怖さを思い出して、震えてしまうのだった。
まさに、これなのだ。
この「知りたい」「繋がりたい」という好奇心は、次の歌詞にもつながってゆく。
「知ってみたい」という好奇心は、知れば知るほど「もっと、もっと」とだんだんと欲の連鎖を生み出し、「裏の顔」まで思いを馳せるようになってゆく。
それを、わたしは久しぶりの推し活で実感した。
そしてそんな自分自身に危うさを、「ゆらぎ」を感じた。
知り得ないと分かっていながら、知る必要などないと分かっていながら、「表」ではもの足りなくなって、「分からなさ」に耐えられなくなって、その向こう側「裏の顔」を想像し始めてしまうのだ。
時には、好奇心から想像力をはたらかせ、余白を埋めるように "if" の「虚像」「理想像」を創造し、見たいように見始め、都合よく解釈し、ついには共有したくなる。
そこには「実体」などもはや無く、想像から創造つまり「無限のCreation」が繰り広げられるし、それがどんどんシェアされ恐ろしいくらいの「無限のLove」となってゆく。
だが歌詞を見てほしい。
曲中2度登場するこのフレーズの1度目には、「?」がつくのだ。
なぜなら、あくまで「想像」であり、「虚像」「理想像」であり、もはや実体すら通り越してその向こう側の「何か」を見ているだからだ、とわたしは受け取っている。
しかしこの「?」に見るゆらぎは、このあとの歌詞で払拭されていくのが、わたしにとっては希望でもある。
"Another Brain" は、後半にかけて主人公のスタンスが前向きに変わってゆくのが魅力のひとつだと感じている。
そんな後半、こう続いていく。
あくまでわたしの印象だが、ここでの「常識の呪縛」とは、一般常識というだけでなく、世間体だとか自意識による「こうあるべき」という自分自身による呪いだ。
「推し」「推し活」に無我夢中な間はまだいい。
だがわたしの場合、慣れてきて冷静になる余裕やヒマができると、そんな夢中な自分を「嘲笑う」ようにジャッジしはじめるもう一人の自分自身が現れるのが毎度苦しい。
「この楽しみ方は『正しい』のか」
「こんな見方をしていいのか」
「ファンならこうすべきなのでは」
「こんな感想を言葉にしていいのか」
そうやって「こうあるべき」という個人の常識=価値観でもって、自分自身をジャッジしはじめる、そして勝手に反省をしはじめる。
「いいね」される範囲内のことしか言えなくなって、タイムラインの純度を保てる内容しか書けなくなって、見られ方や反応が気になってしまい、本心や本音が後まわしになっていく。
「誰も見てないよ」
「誰も気にしてないよ」
とよく言われるが、ちがうんだ、他でもない自分自身がこんなにも見ていてこんなにも気にしているんだ。
しかし、本来そんなことを考える必要などないはずなのだ。
以前別の記事にも書いたが、もっと自由に、もっと主観的に、独りよがりに、「推し活」を楽しんでいいはずだ。
良し悪し・好き嫌い・肯定否定・善悪の二項対立ではなくて、もっと変幻自在なグラデーションのあり方や考え方があるはずだ。
だがスマホを触っていると、それをなぜか忘れやすくなる。
SNSを眺めていると、主観がどんどん相対化され、揺らいでブレて、溺れていく。
だから次の歌詞で、目が覚める思いがした。
ここで初めて一人称「僕」が出てくる。
そして「一緒に」と距離が近づいていく。
ここでやっと、「ゆらぎ」の残像が薄まっていくような、主観と客観が溶け合っていくような、想像から現実に帰っていくような、そんな印象を受ける。
ここまで、SNSや推し活の負の側面にばかりフォーカスしてしまったが、それは「僕次第」でオセロのようにひっくり返すことができるはずなのだ。
SNSや推し活に疲れている状態でこの歌詞を聴くと、想像がふくらんでいつの間にか抱いてしまった「期待」を手放し、その想像の波に飲まれずに立ち続けようという、そんな決意に聴こえるのだった。
ここでの「無限のCreation 無限のLove」にはもはや「?」はつかない。
それは「それでいいのだ」と心が決まったようにも聴こえて、ずいぶんと愛着が湧いてしまう。
そして繰り返されるのは、
という覚悟の確認だ。
前半の同じフレーズと、後半のそれでは、後者のほうが何だか心持ちがスッキリして聴こえるのは気のせいだろうか(気のせいだろうな)。
さてと……。
ずいぶんと都合よく深読みをして小むずかしく書いてきたが、つまりわたしはいつの「推し活」においても、その呪縛=自意識に息切れ気味だったのだ。
そんな折に聴いた、この "Another Brain" は、やたらと胸にグッとくるものがあった。
スマホ・SNSを介して久しぶりに覗いた「推し活」の世界は、この曲のようにテンポ良く次々と流れ、その中でわたしは「推し活」という言葉に甘んじて誰かを都合よく消費していたはずだし、かくいうわたし自身だってどこかのオトナに搾取されていた気がするし、それは海のように濃く深く恐ろしく、でもやっぱりキラキラしていて楽しくきらびやかで、無我夢中で没入する時と、自意識のジャッジを行ったり来たりする、そんな「ゆらぎ」のあるものだった。
それでいうと、わたしにとっては "Another Brain" とはもはや「俯瞰するもう一人の自分」であった。
最近この曲を聴いて、そんなふうに考えたのだった……ねえヒマなの????って感じだ。
今回は本曲をきっかけに自分の「推し活」を振り返ってみたが、どんなあり方であれきっと間違いではない。
いまだに自分なりの正解というか、スタンスや距離感がわからずにいるのが事実だが、だからこそ、この曲が考えさせてくれた「ゆらぎ」それ自体だけでも肯定できたらと思う。
冒頭に戻るが、わたしは単純にこの曲の「音」が好きなのだ。
まずはそれだけで、それくらいのなんとなくの「好き」で、十分なのかもしれない、無理に「推し」という言葉を使わずとも。
今はそれくらいの距離感でいようと思う。
MVに出てくる2人の主人公
待ってくれ。
ここまでですでに6,000字弱とは、正気か……?
まあいい、少しだけMVの話をしよう。
冒頭にも載せたこのMVには、相反するような2人の主人公が出てくる。
やわらかくたわやかな雰囲気の青年と、どこか挑発的で鋭い印象の青年の2人だ。
歌詞の部分で書いてきた、主観と客観、if と実体、想像と実態、現実と理想像、自分と他者、夢中と自意識……そんなわたしの感じた「ゆらぎ」がこの2人にリンクするものがあった。
きっと、どっちがどうとかではなく、どっちも「彼」なのだ。
見方や、立場、タイミングが変われば、きっとこの2人の関係や主観も行ったり来たり、それこそ映像にあるようにたゆたうのだと思う。
高野洸自身による振り付け
さてこの楽曲、ダンスの動画もアップされている。
なんとこの振り付け、高野洸本人によるものというではないか。
このダンス、個人的に大好きなハウスのステップが盛りだくさんで眼福だ。
特に好きなのは、前半・後半のAメロの対比だ。
前半のAメロではダンサーが静止する中で高野洸が一人で踊るが、後半では逆に高野洸が止まってダンサー陣が踊る。
この対比が、なんだか無性に好きなんである。
印象として、音をひとつひとつ逃さまいとする細やかさと、ダンサー全員のフォーメーションや空間を大きく使った視野の広さ、総じて妥協のない(これは褒め言葉なのだが)「欲張り感」が感じられる。
ちなみに、わたしはまだ高野洸の2ndライブの映像を見られていないが、この楽曲のこのカロリーのコリオを歌唱しながら踊るのか、いまだに半信半疑である。
ライブ映像を見るのがより楽しみだ。
さいごに
ずいぶんと長くなってしまった。
あれこれと好き勝手に書いてきたが、結局なにを書きたかったのかといえば、
"Another Brain" て名曲だよね、
という話だ。
でもそこに個人的な体験がのっかり、結局「推し」「推し活」を振り返る内容となってしまった。
今わたしのマイブームは高野洸の音楽だが、彼のことを「推し」と呼んでいいのか、自分のぬるい応援を「推し活」と呼んでいいのか、いまだに迷いがある(もう何回かその言葉を充てがって書いしまってはいるが)。
というか、この記事に書いてきた経緯もあって、「推し」や「推し活」ととらえないように自制さえしている自分がいる。
ただ、彼の音楽が好きだという気もちは間違いなくあるので、その微熱に、ゆっくりゆっくりと薪をくべていけたらと思う。
「推し」という存在じゃなく、「推し活」という行為じゃなく、音楽や映像や芝居といった「作品」や「パフォーマンス」を楽しんでいきたい。
そして大事なのは「楽しい」という、そのシンプルな気もちだ。
これからも楽しめる範囲で楽しんでいこう。
ひとまず次は、高野洸の2ndライブの映像を見てみようと目論んでいる。
追記:後日談
ここからは、数日後に書いた追記だ。
この記事に書いたことに全くウソはない。
数年来ずっと抱えてきたモヤモヤをやっと言語化できて、書くこと自体がある意味セラピーだったように思う。
だが今、自分で読み返して、
かなしい気持ちにもなっている。
さっそくお得意の俯瞰の、さらなる俯瞰が始まっている。
「何かに夢中な自分」のこと、
恥じらいすぎじゃない……?
自分のこと、
いじめすぎじゃない……?
なぜこんなにも俯瞰しジャッジし、自分自身にドン引いて、制して律して、我慢して、「良く」あろうとしているのだろう。
他人事みたいな書き方をするけれど、もうこれはセルフネグレクトの類だ。
声を大にして、何度も何度も「好きに楽しんでいい」と言い聞かせつづけないと、そうできない。
すぐ一人で勝手にシュン……とし始める。
まだまだ燃えつづけられるのに、自ら水をぶっかけにいく。
わたしにはいつも「許可」が必要だ。
誰に怯えているのか、
誰に遠慮しているのか、
誰の目を気にしているのか。
もうそんな必要はないのに。
大人になった今、その許可を出すのは、紛れもなく自分自身だ。
「好きに楽しんでいい!!!!」
何度も自分に言い聞かせよう。
誰の許可も必要ない。
もっと自由に、
素直に、
やりたいように、
好き勝手に、
生きていいのだ。
うまくできなかったのなら、また挑戦してみればいい。
苦しかったのなら、それをネタにして笑ってしまえばいい。
疲れたら、少し旅に出てみたらいい。
タイミングや角度を変えて、上書きしていけばいい。
なんでも、何度でも、いつでも、また出会い直してみたらいい。
自分を抑え込もうとする自分2に気づけたのだから、次は、その抑え込もうとする自分2を羽交い締めにして退場させる自分3を、自分自身を解放させてあげられる新しい自分を、育てていこう。
そういう "Another Brain" と、共にいよう。
高野洸さんについての他の記事はこちらにまとめてあります。
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