「性的同意」と「性的虐待順応症候群」からみた『正欲』
「性的同意」と「性的虐待順応症候群」の視点から観た映画『正欲』の感想を書く。
「性」にまつわることを四六時中考えている私にとって避けて通れない作品だと感じていた。
なのに映画を観ることに躊躇もしていた。
「観る前の自分には戻れない」というキャッチフレーズへの不信感。
アイデンティティ・クライシス(自己喪失)を幾度も経験してきた私には「大袈裟」に聞こえた。
案の定、観る前の自分に戻れないほど価値観が揺るがされることはなかったが、
私みたいな人間のことが斬り込んで描かれていることに新鮮味を感じた。
正確には「認知されづらいばかりに多様性のトレンドからも度外視され存在していないのと同然の扱いをされ続ける超ド級のマイノリティ」に焦点が当っている。
「普通」を盲目に信じることができてしまう検事寄りの人間に向けたキャッチフレーズだから刺さらなかったのだ。
すぐに観なかった理由がもう一つある。
登場人物が「水フェチ」という性的指向を持つと知り「興味、持てなさそう」と思ったからだ。
理解されにくいという意味では共感できても、性的対象が無機物であるだけに犯罪に発展するイメージがつかず、感情移入できないかもと不安だったのだ。
だけどマイナー中のマイナーな性癖だからこそ水フェチは現代における「声が届かないマイノリティのシンボル」を担えるのか。己の中にもある「無関心」という名の「マジョリティ性」への自覚には一本取られたと鑑賞後に思った。
しかし、色んな人がいるよね(心)、だからなんでもOK♡(行動)ではない。
水フェチのグループから小児性虐待者の犯罪動画が浮上し、逮捕された下りはその区別を明確にしている。
共に理解されにくいことに苦しむ人々だけど、後者は不平等な力関係を乱用して搾取する性犯罪の中でも、あらゆる面で立場が最も弱い子どもを狙うところに最大の問題点がある。
子どもには知識をつける前から善悪を判断する感覚が備わっていて、それは大人よりも敏感だったりする。
でも悪い行いを大人から叩き込まれたら、それを正しいことして誤認せざるを得なくなり、犯罪を犯す側になってしまう危うさがある。
不平等な力関係の中では拒否も同意も困難だ。動画の男児は嫌だと叫んだが、腕力では成人男性に勝てまい。
同意したとしても、心理的操作やグルーミングされてないと言い切れるか。
仮に子どもが本気だとしても(老人性愛など)、その行為にどのようなリスクがあるかという知識や判断ができていると断言できるか。専門家でさえ計り知れていない個人的および社会的、世代間的のリスクまで。
感情は受け止めつつ、待つことの大切さを子どもと共有する愛情表現が世の中にもっとあっていい。
力関係が対等に見えるカップル間でさえ拒否や同意は重要であるが、成人になってもできていないことが往々にしてある。
メディアで描かれるセックスシーンにはなぜか会話がほとんどない。しつこい程のキスから、前戯なしの、いきなり挿入。レイプの仕方がど定番な愛の形として繰り返し見せられる。
桐生夏月と佐々木佳道が「セックス」の真似事をするシーンがある。
水フェチのふたりは性行為をしたことがないので「わかんないけど」「たぶん」「…だと思う」「あってんのかな」「こう?」などと話し合いながら進めていく。
この、いちいち確認し合うという作業が本来、性的同意を確認する基本姿勢だ。
なぜこれができない人が多過ぎるのか。
みんな性行為をAVなどから学んだつもりになっているから、他のメディアでもレイプ同然のセックスシーンが主流で、それをみんなが見るから現実世界でも同意なしの性行為しかできないのだ。
水フェチ同士の擬似セックスもやはり前戯はなく、いきなり挿入ごっこになる。
「セックス=正常位=挿入」という偏った固定概念が、そういうことに興味のない水フェチ達にまで浸透しているほど蔓延っているというオカシサに気づいた視聴者はどれほどいただろうか……。
表題の通り、私は「性的虐待順応症候群」を自覚した者の視点で映画を観ていた。
(性的虐待順応症候群は現象としては珍しくない割に、自覚していない人が少ないと感じる。私も最近まで無自覚だった)
特徴として、性的虐待の事実を認められなかったり、隠したり、事実と認めた後に取り消したり、加害者に順応しようとしたりする行動が見られる。本人も自覚できないほど解離していることも少なくない。
いつまで経っても助けを求められない状況が続きやすく、被害が深刻化・複雑化・拡大していく。
絶対服従の環境で、解離しながら体や意識が勝手に加害者に順応してしまうのはトラウマ反応・防衛本能の一種だが、同時に自他を傷つけ続ける諸刃の剣。
私の場合、「他者に対して性的魅力を感じないアセクシュアル」なはずで、性的なことはしたくないのに、他人の性的欲求を敏感に察知すると積極的に思考や体が動いてしまう。例えば、自分を性的対象として見ている人が頭から離れなくなる(…ってことは本当は好きなのかも、という具合に自分自身を騙そうと脳が勝手にしていたことに後々気づいた頃には既に取り返しのつかない危険な状態になっている等等)。
性被害を訴えても「あなたにも気があったのでしょう」と言われる。加害者を好きになれれば全てを有耶無耶にできると勘違いして順応してしまう分、側からはそう見える。恋人からは「浮気をされた」と責められる。性被害を認めるまでに時間がかかりすぎて、真実を伝えても「言い訳」と捉えられる。誰にも理解してもらえないことを知っているから自責しながら対処しようとして被害が拡大する無限ループ。
私は、幼児期より近親姦被害を「愛情表現」として受け始めた後、混乱のあまり弟に性加害をしていた過去がある。「小児性虐待者」と同レベルのタブー性を背負って生きている。
小児性虐待者の実例を調べていくと、幼少期に性被害にあっている共通点が著しい。それ以前には親に捨てられたり、虐待されたりしている。小さい頃から愛された経験がない・極端に少ない。
子どもを小児性虐待者に育て上げているのは、「無責任な親や無関心な社会だ」ということを明白にしてしまう存在という意味でも厄介者。その説得力において小児性虐待者以上はいるだろうか。
子どもを責任持って育てなかったくせに、その結果、悍ましい犯罪者に仕上がった人間をスケープゴートとして生贄にする。服役中に更生させる努力もしないで、再販率が高いと知りながら、再び社会に野放しにし、更なる子どもを餌食にさせる無限ループ。
この世が、小児性虐待者製造機に見えてならない。
そんな社会を変えたいから、その一部である自分から変わる。
誰かを指さすとき、残りの3本の指は自分を指していることに気づくチャンス。
まずは自分の気持ちを認めるところから。他人が理解してくれなくても、ずっと深いところで自分自身が理解しているから大丈夫。そこに気づかせてくれる人が一人でもいたら助かる。
この世に生を享けてしまった者として、大切なことを思い出させてくれた傑作でした。
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映画『正欲』の感想文は書き切ったので、内容は
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