No.1キャバ嬢と、性虐待前の幼児の笑顔が重なる。幸せ恐怖症
ある超売れっ子キャバ嬢の動画をよく観してしまう。その謎が溶けた気がする。自分の中の幸せ恐怖症が複雑に刺激されるからだと思う。
そのキャバ嬢は自己愛が半端なく、理想の美のために自己投資をし、客に何千万、何億使ってもらっても素直に喜べる。家族とも仲が良かったりする。理解のある親の存在は最大の武器と思い知らされる。
私の母は素のままでモデル級の美貌だったが、幸せそうには見えなかった。
だから「美しさ=幸せ」とは限らないことを私は幼少期から悟っていた。
だからかもしれない。
美に時間とお金をかけるのは無駄だと思ってしまう。男の注目を集めて(性被害のリスクを上げて)どうする、と。
でも、売れっ子キャバ嬢たちを観察してると、美への自己投資は明らかに無駄ではない。それに、肌をいくら露出しても自分の身を守る術を知っていて、危ない橋を渡らない。Noと意思表示することで、自分を大切にできている。
彼女らと私の大きな違いは、自己投資の先に幸せが想像できるか、絶望のリスクを常に恐れてるか。
私の母は美人だったが、幼少期に母親から捨てられている。
私は、両親がいても、幼児の頃から父親の猥褻を受け始めた。母はそれに気づかないまま、私を怒鳴り、叩き、嫌味を言うことで苛立ち発散していた。
私は、幸せな要素を他にも多く持ってるのに、後に絶望が待っているというトラウマを幼児のうちにインストールされてしまった。
だから、一般的にこうすれば成功するとか、お金持ちになるとか、美しくなるとかいうことにあまり興味を持てない。
物欲や品質へのこだわりはあるけど、それらが心の穴を埋めてくれないことを実体験として経験してきたからか、最低限でいいと思ってしまう。
でもNO.1キャバ嬢たちを観てると、必ずしも常に幸せを恐れることはないのかも知れないと、自分を洗脳し直せるかもと思うから、つい観てしまうのかもしれない。
私も幼児期に初めて猥褻を受ける前は、不特定多数にチヤホヤしてもらうのが気持ち良かった記憶がある。
我が家でクリスマス会を開いた時、父の友人たちに名前を呼ばれていて、楽しかった。
翌年以降、パーティが開かれることは一切なく、さみしかった。
母が疲れたから、もうやらないと言ったに違いない。
きっと弟たちが生まれた後で、父の相手もしなくなったのだろう。
だから、父は私に手を出してきたのだろう。
無論、母に非はない。
ただ母は父の言葉を鵜呑みにし、私を更なる混乱へ陥れることになった。
私は、父親の手を拒否し必死で逃げたのに、翌朝、母はこう言って私を抱き寄せた。
「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって?良かったねぇ」
ここからだ、世の全ての何もかもが訳がわからなくなった。
悪は善。善は悪。
恵まれた環境を素直に喜べなかくなった。
米国にある庭付きの一軒家で家族が囲む豪華な夕飯。
幸せの幻想は、私の意識の抑圧の上に成り立ってる感覚は拭えきれず。
幼少期のトラウマ体験を記憶から消す例はあるが、私の場合、トラウマだけが鮮明に思い出された。
その前後に起きたことは思い出せない。
例えば、猥褻に遭う前は、幸せだったはずなんだ。
満面の笑みを浮かべる乳幼児の私の写真がそれを物語ってる。
ただ、その乳幼児が自分だと思えたことがない。
己のアルバムを見てるのに「誰?何がそんなに嬉しい?」と思っていた。
その笑顔の乳幼児が、猥褻も体罰も受けずに育てば、きっとあのキャバ嬢のように喜び上手になれたはずだとは思う。
私が縁もない売れっ子キャバ嬢を見入ってしまうのは、虐待を受けなかったら、なっていたかもしれない自分と重なるものを感じるからなのかもしれない。
PS
※キャバ嬢として成功することに惹かれるのは、今の私の存在の対極にあるからだろう。
己の女性性を武器に、男性から安全に貢いでもらうことに対して罪悪感や不安を感じない。
私が失ったものを全て持ち合わせている。
🎁サポートはトラウマケアや、子どもの人権が尊重される社会づくりの研究(本や映像など)・実践(精神治療・執筆)に活用して、noteに還元してゆきます💫ありがとう🤍ございます✧