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映画『正欲』 小児性偏執者と水フェチの役割と課題

映画『正欲』に登場する「水フェチ」や小児性偏執者※の社会的な役割と課題について考察する。

☑️  水フェチは、現代社会におけるマイノリティのシンボル。

☑️  小児性偏執者は、社会のスケープゴート・内部告発者。

⚠︎  課題
「人に欲情しない水フェチ」と「児童性的虐待する小児性偏執者」の違いが、他人に気持ちを押し付けるか否かであるとするならば、「児童性的虐待しない小児性偏執者のマイノリティ」はどう捉え、接する?

※「小児性愛」が一般的な名称だが、「愛」を「偏執」に置き換えた。「愛」という言葉は往々にして、子どもの気持ちを蔑ろにし、加害者の言動を正当化しようとするもの。子どもの体を触ることが「いたずら」なんかではなく「児童性的虐待」であるのと同じ。言葉づかいからも意識を変えていく。


水フェチ (少数派のシンボル)


マイノリティ意識が強く、多様性なんて当たり前だと思っている私でさえ、「水フェチ」には「興味がないかも」と思ったほどである。

理解されにくいという意味では共感できても、性的対象が人間ではなく、無機物であるだけに犯罪に発展するイメージがつかず、感情移入できないかもと思ったのだ。

鑑賞後「水フェチ」について調べたら、その中にも色々な人がいることがわかった。

英語圏ではアクアフィリア/aquaphiliaと呼ばれ、ウォータースポーツなど川や湖でのアクティビティが好きな人から、水着姿や水中での性行為に興奮する人など様々。

桐生夏月(新垣結衣)は、水が吹き出す様子などに性的な興奮を覚えるが、人間には欲情せず、恋愛指向もなさそうなので厳密には「アセクシャル・アロマンティック(アセク・アロマ)」な水フェチと言える。

アセク・アロマもLGBTQIA+に含まれているが、「水フェチ」は多様性が叫ばれる現代でさえ認知度が低く、存在していないかのような扱いに孤独を抱えている。

しかしマイナー中のマイナーな性癖だからこそ水フェチは現代における「声が届かないマイノリティの象徴」を担えるのか。

なるほど、己の中にもある「無関心」という名の「マジョリティ性」を自覚させられ一本取られた気がした。

小児性偏執者(スケープゴート/内部告発)

しかし色んな人がいるよね(心)、だからなんでもOK♡(行動)ではない

水フェチのグループ内から小児性偏執者が浮上し、逮捕された下りは感情と行動を区別する大切さを明確にしている。

後者は不平等な力関係を乱用して搾取する性犯罪の中でも、あらゆる面で立場が最も弱い子どもを狙うところに最大の問題点がある。

子どもには知識をつける前から善悪を判断する感覚が備わっていて、それは大人よりも敏感だったりする。でも悪い行いを大人から叩き込まれたら(犯罪)、それを正しいことして誤認せざるを得なくなり、犯罪を犯す側になって暴力の連鎖に加わってしまう危うさがある。

不平等な力関係の中では拒否も同意も困難だ。動画の男児は嫌だと叫んだが、腕力では成人男性に勝てまい。

仮に言葉で同意したとしても、心理的操作やグルーミングされてないと言い切れるか。

子どもが本気だとしても(老人性愛など)、その行為にどのようなリスクがあるかという知識や判断ができていると断言できるか。専門家でさえ計り知れない個人的および社会的、世代間的リスクまでも。

感情は受け止めつつ、待つことの大切さを子どもの頃から共有する愛情表現が世の中にもっとあっていいのでは。

私は、幼児期より近親姦被害を「愛情表現」として受け始めた直後から、混乱のあまり弟に性加害をしていた過去がある。

弟は許すと言ってくれたが、私は自分の行いは許されるようなものではないと肝に銘じ、「小児性偏執者」と同等の罪を背負って生きている。

古今東西の小児性偏執者を調べていくと、幼少期に性被害にあっている共通点が著しい。また親から捨てられたりして小さい頃から関心を持ってもらった経験がない、あるいは極端に少ない生い立ちが目立つ。

子どもを犯罪者に育て上げているのは「無責任な親や無関心な社会だ」ということを意図せずとも明瞭化してしまう存在という意味でも小児性偏執者は厄介者だ。まるで社会の内部告発者。

子どもを作るだけ作って放置に虐待、悍ましい小児性偏執者に仕上がったところで投獄する真っ当な社会。しかしスケープゴート・生贄としての役割を果たした後の彼らを服役中に更生させる努力は怠り、再犯率の高さを熟知しながら、再び社会に野放しにし、子どもを更なる餌食にさせる無限ループ……。

この世が、小児性偏執者製造機に見えてならない。

私はそんな社会からさっさと足を洗いたいのだが、私が早死にして楽になれたとて、その間も性被害に遭っている子どもたちが増産されていると想うと死にきれない。だから変えたい社会の一員である自分から変わることにした。

まずは自分の気持ちを認めるところから。すると行動や思考が面白いほど変わってゆく。

自分を含め、誰も自分を理解できなくても、ずっと深いところで自分自身の体が本心を覚えている。そこに気づかせてくれる他人がたった一人でもいたら文字通り、有難い。

『正欲』はこの世に生を享けてしまった者として、大切なことを思い出させてくれる傑作だ。


課題(気持ちと行動の区別の先)


作中で「性的対象が人間でないアセクシャルな水フェチ」の中に、「小児性偏執者でもある水フェチ」が混じったことで事件になったのは、気持ちと行動の区別が大切であることを明確にするためだと思う。

その流れで自ずと視野に入ってくるのが、おそらく水フェチや小児性偏執者たち以上に理解されないであろうマイノリティ達。

例えば、子どもに惹かれても児童性的虐待や児童ポルノの消費などはしないと主張する小児性偏執者「NOMAP※(ノーマップ)」。

※Non-offending Minor-Attracted Personの略

実際にLGBTQコミュニティでも物議を醸している。

そういう人たちもいるのかと驚いた私の中にも小児性偏執者への偏見があったということだ。

小児性偏執者であっても気持ちを子どもに押し付けさえしなければ※、被害は拡大しないかもしれないし、その可能性は否定しない。

いずれにしても問題なのは、小児性偏執者が幼少期に受けた性被害やその他の虐待やネグレクトの気持ちを癒せていないために犯行に及ぶ事例が多すぎるということ。

されて嫌だったことはしないという抑止力が働くには早急な心のケアが必要だが、他人に助けてもらった経験のない人が助けを求めるのは難しい。

社会も受け入れ体制が整ってるとは言い難い。一方で着実に改善を促す草の根運動も受け継がれているので、希望を待ち続ける信念も試される。

取り返しのつかない犯罪が発覚し、やっと第三者が介入したりしなかったりするが、スケープゴートとして利用されるループを抜け出すためにも、社会復帰の前に厚生プログラムは必要不可欠だ。

更生プログラムが日本より進んでいるアメリカでさえ、自称NOMAPが精神治療を受けたくても、偏見のために難しいという。

同時進行で、自他の境界線を尊重する性教育を、子どものうちから少しづつ学び、気持ちを表現する大切さとそのリスクを多角的に考えられる想像力を大人になっても養い続けたいものだ。

また、安心して子育てができる社会であると確信できるまでは安易に「子どもを作らない」ことが新しい命を徹底的に守り・既に存在する命を活かす確実な方法だとも思う。

性犯罪刑法改正のロビイングなど、必要なことは無限にある。

各々できることからコツコツと続けるしかない。


(凪良ゆう著『流浪の月』の佐伯文が思い浮かんだが、ロリコンを自覚している者が子どもを自宅に誘い、思わず唇に触れるなどの行動もグルーミングとして際どいので、NOMAPの具体例として挙げられないのは残念……。)

追記:
abemaで議論されていました。


関連 (アセクシャル)

映画『正欲』を観た後、無性愛者の一種であると自覚でき、自己肯定感に繋がった話。

アロマンティック・アセクシャルの名作について。




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