「悪口を言ってはいけない」という美徳?
こんばんは。こんにちは。Reinaです。
ここ最近の自分は、自己否定、自己受容、自己肯定、とかがテーマな期間な気がしています。
最近特に強く思うんですけど、
人の様々な種類の苦しみって、そのほとんどが
「自分を認められないこと」から来ていると思う。
親やパートナーとの対人関係、仕事・プライベートかかわらず自分の達成したい目標に対してどう動けるか、実は全部共通していると思います。
突然ですが私、悪口を言わない(言ってはいけない)という美徳?には賛同してません。
これは私の大学時代の教授のセンセーショナルな言葉「悪口を言わないヤツなんてバカだ」というのに大きく関係している気がして。
私の解釈ですけど、何かの事象に対して、こうあるべき、こうあったらいいなというイメージがあり、それに対して何が不足しているのかが分かっている、見えている時に悪口が生まれる、と教授は言いたかったのだと理解しています。その冷静な分析を、人からどう思われるかなど気にせずに、アウトプットできるかどうか(人を傷つける目的ではなく、あくまでビジョンの実現のために)。
私もなんとなく、感覚的に似たものを感じていました。
そもそも私は悪口は言ってない。事実を冷静に述べているだけだ、という感覚が、もともと悪気なくありました。
言霊があるのはわかるし、自分の口から汚い言葉も出さない方がいいのかもしれない。
だけど。
悪口を言うことって、そもそも、自分がそれに不満を感じているから発生することですよね。
不満を感じるということは、その根底に「本来こうあるべき」「本当はこうあってほしい」という自分自身の願いや、はたまた、思い込みがあるから。
そこに気づいて、そう思っている自分の存在を認めてあげないと、一生同じこと繰り返すんですよね。
「悪口を言ってはいけない」「悪口を言う人間であってはならない」という他人軸のブレーキによって(だって、どう考えても自分軸ではないですよね。気持ちや体感として感じてるし、頭の中にはわいてきてるんだし。笑)
本当は気づいてあげないといけない自分の願いを覆い隠し続けていたら
この願いに気づいてよー!この思いを知ってよー!!と、自分からの主張はなくならず、強くなるのは当たり前。同じようなシチュエーションで、同じように反応してしまうのは、その自分のイヤイヤ現象がいなくなっていないから。その存在を認めてあげていないからです。
だから、悪口を言いたいんだったら言えばいい、と思っています。
「悪口を言うことは悪」という社会通念というかエセポジティブみたいなものによって、言わずに蓋をして、世の中的な聖人のような人間になったとして、あなたは幸せですか?
本当は、仏の顔しながら、心の奥底に、誰にも言わない不満ためてるんじゃないですか???
自分の本音を吐き出せずに、辛くないですか?と思うわけです。
(本心から悪口を言う気にならない性質の人はそれで良いと思います。)
(言霊だし、自分に返ってくるっていうのはあるだろうし、だけど、そのステージにもいない時は、その選択もアリだと思う。自分の本音を抑え込むよりずっといい。)
他人に良く思われること、他人の願望に応えることを優先させて、本当の自分を犠牲にしてたら、そりゃ辛いです。
ネガティブ要素を全排除して聖なる人間になるみたいなエセポジティブを実現しようとして、自分の感覚から一瞬にして生まれてくる本当の自分を無きものにする、ということが多すぎる気がする。
本当は、自己受容と自己肯定の違いについて書こうと思ってたのに、遠く及ばず、、今日はこれで終わりです。。笑
どんなに醜かろうと、自分の中から発生する自分は存在する。
その存在から、目を背けないで。
そうしたら、苦しむのは結局自分だから。
ただただ、どんな自分も"感じる"ことから。
いきなり認めたり肯定したり、しなくてもいい。
ただただ、存在していることを「そこにいるんだねぇ」と言いながら、感じてみてください。
xoxo,
Reina
2023.7.31
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