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ポジティブでハッピーな状態がヨガのゴールだというのは、大いに間違っているという事実

ヨガがメンタルに良いらしい…

そんなことが少しずつ世の中に拡がり始めていて、メンタルヘルス目的でヨガを行っている人もいるだろう今日この頃。

言われてみれば確かに「#ヨガ」なんてのをInstagramで引こうもんなら、柔軟高く美しいポーズがてんこ盛りになるか、「キラキラ女子」を中心とした女子の笑顔で溢れる。

だからもしかしたら、ヨガはメンタルに良いのかもしれない。ヨガすると笑顔になっちゃうのかもしれない。いや、事実生理学的にメンタルに良いのであるのはわかっているのだが…

ヨガの求めるメンタルの状態が「ポジティブ/元気/キラキラ」だというなら、それは間違っている。

■ ヨガで性格が良くなるという幻想

ヨガをすると確かに自分の感情や、メンタルヘルスが落ち着く…もしくは整うのは、私も実に感じているし、おかげで色々助かったことも多い。

だがそれは、ポジティブ/キラキラという、所謂ご機嫌モードになることを指しているわけではない。

いやむしろ、大変に不愉快になったり、イライラしたり、怒り狂ったりと、実際には大忙しだったりするのだ。

先に行っておく。

ヨガをしたら万難回避、病気にもならず、人間関係改善され、自分もいい人になれるなどと思ってはならない。

ヨガをすると優しくなれるとか、ヨガをすると穏やかになるとか、ヨガをするといい人になれるとか…
すべて幻想なのだ。

動物が好きなのは優しい人とか、子供が好きなのは良い人とか、それと同じくらいバカバカしい幻想だ。

■ ドス黒い感情もまた単に感情

世の中には多くのヨガの本があり哲学の本があるが、なんとどこにも「ポジティブであれ」などということは一言も書かれていない。

かの有名な『ヨガスートラ』にも、そんなことは書かれていない。

一体全体、いつから明るく楽しくポジティブであることや、穏やかでにこやかな笑顔を傾けることが良いことになり、ヨガで得られるなんてことになったのか…それはさておき。

では、ヨガをすると性格はどうなるのか。

先程も書いたが、ヨガをすると時には不愉快になったり、イライラしたり、怒り狂ったりと、実におもしろいことが起こる。

時に私達は生きていく中で、その感情を押隠す。

親に求められた、褒められた、何らかの性格や才能、社会に認知されもてはやされる性格を伸ばす。相手に合わせてトイレに行くようになり、面白くなくても笑うことすらある。

つまり生きていく中である意味…どんどん自分を見失って行くことがあるのだ。

ヨガとは、隠していた自分自身や、見失っていた自分自身を取り戻し、再び見出す作業でもある。

だからヨガをし続けているうちに、急に自分の感情に純粋に気づき、急に素直にそれに従いたくなったりするのだ。

もちろん、それはクリエイティブな方向に、ポジティブな方向に働くこともあるが…時には大いに悲しんだり、大いに苦しんだり、大いに怒り狂ったりする。

隠していた感情が、それはもう黒雲のように湧きい出てきて、驚くばかりなのだ。

そしてヨガの中では、どんなにドス黒い感情でも、どんなに見たくない感情でも…それは自分自身が自然に持った、純粋な感情のひとつなのだ。 

ポジティブもネガティブも、良いも悪いもない、ただの感情だ。

■ 現実に沿うのとおもねるのは違う

人は社会的な生き物で在ることが自然なので、色々な意味合いで様々な事柄を生み出し、共通認識として利用していくチカラを持っている。

だから色々な意味合いで「色眼鏡」をかける。

眼鏡のレンズが青ければ、世界は青く見える。眼鏡のレンズが赤ければ、世界は赤く見える。つまり共通認識だ。

もちろん「色眼鏡」は自分で選んだものとは限らない。会社や学校指定の「色眼鏡」がそこには存在するし、雑誌の流行なども「色眼鏡」のひとつだ。

そして時には親が良かれとかけさせた「色眼鏡」であったり、もはやいつかけたのかわからない程に、自分に馴染みすぎている「色眼鏡」もある。

そうしてその「色眼鏡」を通し見えた世界をもって、自分の世界を判断し、構築する。そして世界を自分の「裸眼」でみた世界であるかのように、それを受け取るのだ。

自分ではなんだか変だな…と思っていても、自分の感情とは違うように感じていても、周りが笑っていれば笑い、泣いていれば泣くのだ。

実はそれ自体は大したことではない。

生きていく中で、現実の中で必要なことのひとつであって、それを大切に思って良い。

問題は「色眼鏡をかけていることに気づいていない」ということであり、「色眼鏡を外すことが出来ない」という状態だ。

社会的に…もしくは家族的に、いやむしろ、いかなる理由で獲得していたとしても、その「色眼鏡」を、その場に応じてかけたり外したり出来る方がいい。

たまには本当の自分の目で、どんなに視力が悪くとも、本当に裸眼でモノを観るのだ。

■ 苦しくったって♪悲しくったって♪

裸眼で見る世界。それは剥き出しの世界であり、感情であり、自分自身だ。

そこにはすべてが自己責任の驚くほどに恐ろしく苦しい世界が待ち受けている…が、すべては自分の思うがままの、素晴らしい自由の世界が待っている。

自分の感覚、自分の感情。自分らしさとはその先にある何か、なのだ。

自分自身を見失っていると感じたり、今自分が何をしたいのかが分からないのなら、すでに「色眼鏡」をかけていることに気づいていないか、外せなくなっている可能性がある。

ヨガにはこの「色眼鏡」をかけていることに気づき、外せないと思っていた「色眼鏡」ですら、弾き飛ばすパワーがある。

他人の判断や他人の感情、他人が良いとしていることに、自分の判断をおもねてしまっていないだろうか。

本当に自分が思い、自分が判断し、自分の感覚で、感情で生きているだろうか。自分で本当にヨシとした人生を過ごしているだろうか。

苦しくったって、悲しくったって、自分自身が生きているという実感のある人生の中では平気なのである。


そして是非とも…ヨガが好きだ、という人に尋ねたい。

今、「ヨガ」という名の「色眼鏡」をすでにかけてしまっていないかを。

その「色眼鏡」を外すことが、ヨガであることを忘れてはいけない。

ヨガの哲学書などは読んでみると、たまにモノスゴク辛辣なことを書いてある時があって笑える。是非読んでみて欲しい。

出来れば解釈のない、言葉の古い直訳本がいい。もしもすでに読んでいて、だがその時分からなくてもう読みたくない、というなら、ますます読むべきだ。

ときには小難しいそれらの言葉が、ある日突然かけている「色眼鏡」を、物凄い勢いで吹っ飛ばすことがある。

ヨガとはその瞬間を楽しみに、ただ繰り返し繰り返し、同じことを学ぶということなのだ。

もう何千回も太陽礼拝を行っていても、また明日の太陽礼拝には、新しい学びがあるかの如くに。

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