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大事な天気予報

自分の思いは、ハタラキによって左右される、そうなんだけど。

自分の思いとハタラキは、やっぱり全く別の在り方をするんだな、もある。


昨日は、ラジオで話した通り、面会に行く前の身体の状態は↓↓↓の傾向だったのだけど、面会を終え帰宅してから再びラジオで話している雰囲気の通り、その時は↑↑↑の傾向を拾っていた。

⦅動くと楽になるんだよなぁ…⦆

そう思った午後、夕方。いつも通りにこなす日常を終え、もう夕方というには十分遅い時間に寝ついた。途中一旦目を覚ますも、ワン達も静かに寝ている事も手伝い(ミルクにちょっかい出されても起きれなかった)、結局3時間も眠っていて驚く。

ホルモンバランス、自律神経…。あちこちにどこと言えずに散らかるような痛みは、(私の中では)間違いなく自律神経の乱れと感じていて、それを更年期症状の一つと表して良いだろうと思う。腰から頭部の付け根、肩や目の裏側…、キリなく痛みが散らかる状態。

生理絡みでは頭痛・頭重を感じることは自覚があるのだけども、そこから移行という表現はおかしいけども、連なるようにあちこちへの痛みを感じていた。


肉体的(?)にはそんな状態があったから。”動いた方が楽”という「気分には」なれたのも事実なんだけど、きちんとその反動を受けたかのように、奥ではちゃんとその状態は健在しているのを示すように、眠りに落ちていた。

思いがあったのもその時でみれば確かに事実なんだけど、身体の方では、いや繋いでいる神経の働きとしては、ちょっとバラバラチグハグしている状態があって。

こういう事があると、”一時”だけで何かを決定してしまう事はしなくなるし注意するようになる。押し切るのは、自分の身体を潰しに行くようなものだからね(*_*;


女性は、ひと月に一度のサイクルがあるし、中年になると更年期の症状として、今までに感じたことのない感覚や症状を目の当たりにする事もあったりと、いやでも身体に目が行く様になる。「更年期?なにそれ」というような過ごし方ができた人はそれは大変羨ましい!

まぁそれはそれとして。

今日書こうと思っていたのは、昨日Facebookで少し触れた「天気予報」のことのメモから。

前置きは、昔よりまったく当たらなくなっていると感じ続けている天気予報。その天気予報がなぜそんなに大事なのか、外れると腹が立つのか。という思いがあった事から始まっている。


(メモ)
以前にも書いたけども、願った(望んだ)状態であることよりも、その「予定」に合わせてとっている行動(動作)がムダになるとか、予定が立たなくなるとか。そちらの方を無意識にしかも強く”望んで”いると状態がある思った。

―――という事は。

人は予測の範囲で動いている、ということ。予測・予想の中で動くという事は、記憶を回しているということ。世界が日々新しくなっている事に気づいていないのは、過去を回し続ける人の目によるのだ、といえる。

何を隠そう私はガッツリそうしている部分も抱えているから”書ける”わけで、そうでなくなると”分かる”事もできないから分からない、気づけない部分もある。

書いている通り、私自身が「外のソコ」から動きを決めているのに、ソコが崩れると一々考え(直し)たりしなければならない事に少し立腹していたから。誰でも一度や二度じゃ怒らない…、なんでこんなに当てにならないんだ?という感情的には結構、溜めたものがあった。

そして書いている通り、コトの実行(行動)をするにあたり、「外れた方が良かった」ことは実際にしっかりとある訳で、それなのに感情的には「もう、まったく…」というものが湧く理由は何だろう、と思った。結果的にはその方が良いと頭では分かっているのに。だけど感情はきちんと湧く。

それを思った時、「予測の範囲で」という事を感じた。”実際”の変化に逐一対応するという姿勢を持っていない事、それは人にとって結構疲れることで、だから予報・予測などを元にこちらの動きをある程度決める…。決めることができるのは記憶があるから、その再生で回せるから。


それが過去の再生が許されず、その場という実際の最新状態に都度自分を合わせて行かざるを得ない状況に、自分の心(心は過去の古い体験・情報のカタマリ)は反発するのだろう、と思った。だって労力が要るもの、考えなくちゃいけないし、それに付随する諸々の変更まで手を入れなくちゃいけないし…。

そんな細々とした事を、いつもは考えなくて良いように記憶で再生しているわけで、それを無意識でこなせる状態に殆どあったものが、日常なんてこんな小さなレベルの中で頻繁に起きてくると、気が休まらないという様な大袈裟とも思えるようなことにまで感覚は発展する。

端から予報なんぞ見ていない、当てにしていないという習慣・在り方であれば何のことはない話なのだけど、自分の中の再生を引き出すために「外の情報」を活用しているのに、それが軸にならない―――、この時当てにしない在り方に、段々と自分を変えるしかないという風にやっと変わって行く。


そこまでに、心はしっかりと感じ続けるわけだし、そしてこれが、「それに付随する」と書いて通り、自分にとってそコトが、何と結ばれているかという事の多さが、たった大元ひとつが変わるだけでも大変色々に影響するという「自分の中での結び付け」事項が多い、ということ。

一緒に動くこと(もの)が多いというメリットの反面、こういう訂正側(修正)の多さのデメリットと感じる部分もある。

このメリット・デメリットは、記憶を再生している証拠であって、結んでいない人にとっては外のそれに合わせて動くだけとなる、合わせるという感覚もなく、ただの”天気”というのかもしれない。

自分の中の結びの多さは、状況が変わってしまえばひっくり返ってしまう。ひっくり返ってもこちらもまたひっくり返れば良いわけだけど、それが面で張り付くようにしてあるから、なかなか返らない。

環境はただ、いつも変わっている事を固定しているのは、人の持つ意識の方だと改めて思っていた。

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☆うみのみか☆
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