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時間と自由

"私たちは、考えるよりも、むしろ話す。私たちは自ら行動するよりも。むしろ『行動させられる』。自由に行動するということは、自己を取り戻すことであり、純粋持続のなかに身を置き直すことなのである。"1889年発刊の本書は【合理主義や科学的思考を批判して、生の非合理的で根源的な姿を捉えようとする】生の哲学の代表者にして名文家、ノーベル賞受賞でも知られる著者の29歳時のデビュー論文にして【時間概念の考察及び純粋時間の重要さ】そして真の自由を問いかけてくる一冊。

個人的に、著者の【精神と物質を二元論的立場でつなごうとし続けて】日本大正期の西田幾太郎や九鬼周造といった哲学界、有島武郎や夢野久作、小林秀雄といった文壇界にも大きな影響を与えたとされるフランスを代表する哲学者である著者に関しては、森鴎外の"永遠の不平家"としての姿勢評価にニヤリとしつつも、文書が翻訳を通しても美しい事もあって、毎回著者の思い込みでは?(失礼)と漠然とさせられながらも終始圧倒されてしまうわけなのですが。

原題が『意識に直接与えられたものについての試論』と長い本書においては、当時の時間概念を再検討を行い、時間は科学であり哲学対象ではないとしたカントを批判しながら【均等に時計等で計測され、全体で共有化されている時間】を『空間』もしくは『過去』とし(ニュートン時間)そういった要素を排除し【意識に直接与えられた時間】すなわち『純粋』であり『将来』である瞬間瞬間の連続した時間の流れ(ベルクソン時間)を『純粋持続』と説明した上で、人間が本来的に自由かつ、より良く生きるには、後者、今この瞬間を流れる時間を大切にし、行動すべきと問いかけてきていて。若き著者の言葉に納得させられてしまいます。

もっとも【連続ではなく、切断としての瞬間こそ時間の本質だ!】とかの批判もまた起きるわけですが。そういった【哲学的論争は識者にお任せする】として、あまりに数値や効率的な思考より、感覚的で合理的ではない思考って、やっぱり『遠野物語』とかに心理的故郷的なシンパシーを覚える私の様な日本人には大正時代に限らず、現代でも受け入れやすいのだろうな。としみじみ。

生の哲学、あるいは時間について思考したい誰かへ。また美しい文章を浴びたい誰かにもオススメ。

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