余所見をしながら『ドライブ・マイ・カー』に乗る…文庫を手にしながら。
[かつっ]…。
机を叩く音が、ボクを一瞬眠気から覚醒する…けれど、珍しく山陰航路は、気流が安定していて、リズムを崩さないジェットエンジンの振動が心地よい眠りを誘い、何度目かの覚醒のあと、本格な眠りに堕ち…気づいた時には、ジェット機は地上にバウンドしてタイヤの音を軋ませていた。
「村上春樹が苦手でもこれは見ておかないとね」長年の友人が云う。「飛行機の行き帰りでさらっと見れるからさ」…搭乗座席が別々だったので、見ても見なくてもよかったのだが…チャンネルを合わせた。机を[かつっ]と叩く音や、車のことをとやかく云う男の台詞が朧に記憶に残ったが、あとは霧の中というやつだ。空港に降りたち、友人に「大半寝ちゃった…」と告げ、それを言い訳に見るのを放棄しようとしたら、友人は見透かしたように「主人公がワーニャ伯父さんを車の中で朗読しているだけだけだからね…」と呟いた。とにかくひとを誘導するのが上手な友人だ。茶畑をやるようになったのも彼の誘いだ。チェーホフか…。心がぴくりと少しだけ動いた。
ロシア文学が、ふと眼の前に現れるようになった。体質に合わないと…長く忌避してきたのに…。ロシアのウクライナ侵攻は終わる気配を見せず、ボクはプライムニュースにかじりつき、小泉悠や高橋杉雄の言動をメモし、おっかけ…ウクライナの戦場を想像し、どうしてこんな大規模な戦争が起こっているのに、平然といろいろなものが存在し続けるのだろうと。いや平然とはしていない。アメリカのインフレもそれにつられた世界経済の不調も、ロシア侵略戦争の1つの影響だ。[今]…転換は起きる。経済にも地政学的分布図にも変化がくる。文学もきっと変化する…。たとえばセベロドネツク[アザト]の工場地下から生きのびた子供の誰かが、成人して、いつかきっと小説を書いたり、映画を撮ったりするだろう。その映画や小説は、これまでの作品とは、成立する文法からして違うだろう。だいたい、映画だって小説だって、もうすでにだいぶ変わってきている。コロナで変化は起きている。変化がコロナを引き起こしたのかもしれない。コロナが、コロナに関するナラティブが戦争を引き起こしたという要素もある。戦争はさらに世界に変動を突きつけている。どう変わるか誰も予想がつかない。
今起きている現実を取り入れる文法を変えないと、いやもう変わっている表現に対する向かい方を変えないと…フィクションと云えどもドキュメントの視点がある。そこがどうなのか?見る力が必要だ。そのことをふと気がついたのは、映画『世界で一番美しい男』を見た時だ。世界で一番美しい男とは、『ベニスに死す』のビョルン・アンドレセン(タジオ)のことだ。何年も何年も欧州を巡って各国の美しい少年をかき集め、吟味したヴィスコンティが——ついに探し出した完璧な美をもつ少年、ビョルン・アンドレセンの老年の…そして過去を回想するドキュメントである。『ベニスに死す』の撮影終了後に起きたことが、アンドレセンの人生を変える。ボクは、ただただヴィスコンティのフレームの中のタジオに魅了され、その美学に憧れた。ボクは、ヴェニスに行き、リド島に泊まり、金網にごしにタジオが立ったであろう今はプライベートビーチになっている白い砂浜を眺めた。何度もヴェニスを訪れ、空港から船で薄暮のサンマルコ広場に乗りつけるという作法も身につけた。運河に散骨してもらいたい、そこまでヴェニスに惚れたのは『ベニスに死す』…そしてタジオがあのようにフィルムに存在したからだ。ヴィスコンティの映像は、ボクにヨーロッパのなんたるかの片鱗を教えてくれた。[ゴジラ]と[若大将]シリーズの映画しか知らない、田舎者に強烈な[何か]を植えつけた。その印象も影響も…たぶん…今も変わっていない。アンドレセンのドキュメントを見たあとでも大まか変わらない。だけど、現実には、そこに、ビョルン・アンドレセンという俳優以前の身体があったのだ。何も演劇の訓練を受けていない、俳優に成りたいと思ったかどうかも分からない少年がいたのだ。
ウクライナ侵攻はまだ終わらない。プーチンは戦争を終える気はない…そうこうしているうちにプーチン自身も終えられない地点にまで来ているのかもしれない。…誰かが止めることができるのか。止めるなどということがあるのか。話し合いで終わった戦争はない。これから冬になってウクライナ/ロシアは、泥沼の戦闘に入っていく。プーチンは巧みに総動員をかけた。どうなるのだ…戦争は相手の裏をかきながらどんなことでもして勝ちにいく…だからどちらが優勢になっていくのかは紙一重だ。ロシアの戦争が…プーチンのロシアが、僕に…ロシアの文学を読ませる。余りにもロシアというものに無知だから。カットインするポイント、感覚が欲しいのだ。(たぶん)ロシア的なものが描かれているものを…僕は知りたいんだと思う。何故終わらないのか? 『ドライブ・マイ・カー』に『ワーニャ伯父さん』が出ていなければ、僕はおそらくこの映画を見ていないだろう。村上春樹原作だから…。ボクは向こうから流れ来たものには逆らわない。受け入れるように体質ができている。今、眼の前に来るものは受け止める。何故自分の前に現れたのかということも含めて。
最初の、ロシア文学の来訪は、『二十六人の男と一人の女』○ゴーリキー。生涯二冊目のロシア文学読書だ。男たちと少女の不思議な関係…(それはまたどこかで書くだろう)…男たちは、半地下のようなところに住み、毎日、毎日、黒いパンを焼いている。黒いパンを食べる人と、白いパンを食べる人とは階級差がくっきり分かれるらしい。黒いパンと白いパンでは、そして地下と地上には大きな隔たりがある。地下…。地下室…流刑地…連鎖から次の本が訪れる。チェーホフ『六号室』。…地下ではないが閉ざされた精神病棟のようなところで物語はすすむ。『六号室』○チェーホフ○瀬沼夏葉訳。日本ではじめてのチェーホフの紹介者、訳は素敵だし文学として立っている。瀬沼夏葉全集をすぐさま購入し、復刻版で瀬沼夏葉訳の『叔父ワーニャ』読みはじめた。ワーニャ伯父さんの舞台もいわば世間から隔離されたような閉じこめられた場所。森の近く…。インテリだと思っている人たちの閉塞感、圧迫——。いつものように訳違いをできるだけ集めて読み絆ぐ。光文社古典新訳文庫・浦雅春◎訳、新潮文庫・神西清訳、岩波文庫・小野理子訳。とてつもなく楽しい。カフカをそうやって読んだ記憶が蘇る。
『夜想#カフカの読みかた』特集では、身体をもって文学を読むというやり方を教わった。高橋悠治から松本修から、そして『変身』の朗読を重ねた井上弘久(元転形劇場)から。『変身』は、何年かに渡って朗読上演し続けた。演出とレジメを引き受けた。演出といっても練習の聞き役としての役割…何回、井上弘久の、熱の篭った稽古に立ち会い、朗読を聞いたことだろう。本番の回数もただならない。妹視点バージョンとか、お母さんエロティックバージョンとか、壁の額バージョンとか…同じレジメ台本でも読み方で、視点を変化できる。それはある種、読みの視点を自在にもつ訓練になっていた。そうしてカフカを少しだけ分かるようになった。『変身』の朗読に使ったのは、光文社古典新訳文庫・丘沢静也訳。井上さんは、この訳でないとちょっと朗読はやりにくい。と、云っていた。かれは朗読部分をすべて覚えて、独り芝居のように動きながら、朗読をした。でも演劇にはならない。その人になりきったりしない。朗詠的な感情を込めない。そのほうが小説からうきあがるものが多くあるのに気がついた。
朗読/光文社古典新訳文庫つながりでいうと、劇団の『イキウメ』の前川知大の脚本・演出、劇団の俳優・安井順平の独り芝居『地下室の手記』。イキウメは大好きな劇団、安井順平はそこの看板俳優。精鋭二人の上演は、現代性を強く感じさせた。今、ここにある地下室。そして引きこもった男…前川知大は…たしか安井順平も云っていたと思うが…古典新訳文庫の訳が出て上演の可能性ができたと。たまたまだろうが、古典新訳文庫の言葉は、舞台に乗りやすいのかもしれない。もちろん文学的訳のクオリティうんぬんは僕には判断できない。(『地下室の手記』○ドストエフスキー○安岡治子。)さて『ドライブ・マイ・カー』に乗る。村上春樹の原作を一切、読まないで____。(村上春樹はそもそも一冊も読んでいない)新訳古典文庫のワーニャ伯父さんの文庫を手に…。新訳古典文庫を選んだのは…もし、自分が演出家なら…小野理子訳か浦雅春訳を使うだろうとまず思ったから。小野理子訳は、読んでいて楽しい、そして物語がつるつる入ってくる。台詞に流れとゆったりとしたうねりのようなリズムがあって、それに乗って読むと快楽すら起きる。そのおおきなうねりは、演劇に適している。あと分かりやすい。いくつかの言葉的、感覚的発見があった。でも僕が実際に使うのは、浦雅春訳かなと思う。中に何ヶ所かここどういうこと?ここどうやって演出する?というところがある。他の三冊の訳書はその箇所にひっかからなかった。スムーズに読めた。たぶんそこはチェーホフが仕込んだ難所…なんじゃないかと…。戯曲家は演出家に、演出家は俳優に、謎や難所を用意するものだ。何人かの演出家にそう教わったし、それはとても同意できる。そこを手がかりに全体の絵を描いて行く。演出家も俳優も意外と難所好きなところがあって、自分のことで云えば、踊りの演出をするときに空間的に使いにくい劇場とか、場所とかは、大変といいながらどっちかというとテンションがあがるものだ。[しどころ]があるのは舞台の力学で大事なポイントだ。普通にはネガティブポイントを逆に面白さの[節]に使うのが演出家だ。で、先に、浦雅春訳の『ワーニャ伯父さん』のそして自分がピックアップした難所、特色をあげておく。
まず、ラストとかで観客にカタルシスを与えるときに使う部分。
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仕方がないわ、いきていかなくちゃならないんだもの!
間。
ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。そしてあたしたちの最期のがきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ (浦雅春訳)
全編読んでここが、観客をうっとり/感動させるところ…。長い長い…長い夜…という感じが抜群に良くて、他の訳と比べてもっとも盛り上がり易い。
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他訳に比べてここも現実の舞台向きとふんだ。演出家は泣かせたり驚かせたり、観客の感情を動かす技術をもっているが、こういう訳だとやりやすい。それとは逆に引っかかるところが何ヶ所かあって、ぱっと聞いたら、何を肯定して何を否定しているかが掴めないところがある。精読しても良く分からないくらいの諧謔性がある。おそらくそれはチェーホフの意図なんだろうと思う。他の三訳は、少しでも分かるようにとしているように僕には思える。でも引っかかるようにしている箇所は、引っかかるように演ったら良い。そして引っ掛かりは上演にも、演出にも稽古にも必要で、誰にも答えが分からなくても良い、謎をもっていたほうが良いというところも舞台にはある。
その部分は。
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アーストロフ あの女(ひと)は、それで身持ちはいいのか?
ワーニャ そう、残念ながら。
アーストロフ どうして残念ながらなんだ?
ワーニャ それは、あの女の貞淑さが徹頭徹尾まやかしだからさ。そこには修辞はごまんとあるが、論理はゼロ。我慢ならない年寄りの夫を裏切ることには不道徳だが、あたら自分の若さと生きた感情を圧(お)し殺すことは不道徳じゃないっていうんだから。(浦雅春訳)
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諧謔的な云い廻し方で、旦那の教授は否定するが、浮気はしない困ったもんだ?ということ?
分からない。一番、もう一ヶ所は、
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アーストロノフ それとも、教授夫人に惚れたのかな。
ワーニャ あの人は、僕の親友だ
アーストロノフ もう?
ワーニャ 「もう?」って、どういうことだ。
アーストノロフ 女性が男性の親友になるのには、順序がある。まず最初にお友だち、次に愛人、そしてようやく親友ってわけだ。(浦雅春訳)
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『ドライブ・マイ・カー』に乗る…助手席に…いや後部座席だな家福のように乗ろう。文庫を手に、もし濱口竜介が使っているテキストが浦雅春訳でなくても文庫を持ち変えない。そのことは決めた。そのままラストまで行く。[ずれ]からまたいろいろなことが覗けるかもしれない。もしかしたら訳は混合してあるかもしれないし…さて、車の中で家福(西島秀俊)は、カセットに吹き込んだ『ワーニャ伯父さん』の台詞を聞きながら、自分でワーニャ伯父さんの台詞を読んでいる。棒読み…。このカセットを使って棒読みする台詞の覚え方には馴染みがなかった。丁寧に台詞を入れていく稽古を知らなかった。ところが車でカセットで台詞を覚える人を見つけた、山崎努だ。山崎努の『俳優のノート』には、『…帰宅後、テープを吹き込む。自分の出ている場を序幕から順に全部、相手役のせりふも読む。』なるべく感情を込めず素読み…自分で運転して初台の新国立劇場へ向かう山崎努…。カー・ステレオでせりふのテープを聴きながら、快適快適…と、独り言ちする姿がでてくる。やはり抑揚をつけずに台詞を覚えている。山崎努は、舞台で全力疾走するためのあの熱い台詞回しと演技を…ジョギングでフォーム作りをしてくように…棒読み練習で丁寧に作っている。そうやって本番に向かっていく。なので、もう一冊文庫を持参した。『俳優ノート』山崎努(文春文庫)
『ドライブ・マイ・カー』…映画の俳優たちも感情を抑えたやや抑揚のないような話し方をする。そして劇中劇の稽古中の役者たちも棒読みの台詞練習をする。濱口竜介は、俳優たちに…役者がカタルシスを覚えるような演技、上手いと観客に言ってもらえるような演技をさせないようにしている。ある意味全力疾走をさせないようにしている(最初は…)『ドライブ・マイ・カー』は、多言語で『ワーニャ伯父さん』(チェーホフ)を上演するという設定だ。家福がその舞台をまかされて演出する。出演もするかもしれない…かつてワーニャ伯父さんを演じているから…。オーディションをして、本読みをして、それから配役を決め、そしてまた本読みをする。本読みでまずはチェーホフに対してフラットにする。本読みで演出家兼主演の肉体に宿った言葉回しを、全員に植え付けるやり方(初期の唐十郎とか野田秀樹とか…)と真逆の本読みだ。山崎努は『俳優のノート』冒頭でこう云う。「俳優はこれまで身につけた(あるいは身についてしまった)技術に、絶えず疑いを持っていなければならない。そして、それをきれいさっぱり捨ててしまえる勇気をもたなければならない。」と。もっているものを、特に自分がこれで立っていると思っている技術を手放すのは恐ろしい。でも、それが逆に身を狭めることもあると。確かに。でもそれを言う…そして実行するベテラン俳優の凄しい姿勢——。[身に付いている癖を落とす]というのは、とても大変なことだ。たとえばダンサー、ぱっと動いて、そのキャリアは分かるもので…それを消すのはしなんの技だ。国体選抜のバスケット選手でもあったが、モダンの巧手でもあった田中泯が、身に付いた振り、こなしをとるために、裸体で路上をじりじりと動き続けて舞態と呼ぶ、行為を続けたのは、そういうことだ(もちろんそれ自体が表現ではある)そうやってどのジャンルでもない田中泯の踊りを作ったのだ。少しずつ動き、少しづつ立ち、それを365日やるというとてつもないことをして、田中泯はモダンの振りを喪失させたのだ、自らの身体から。倣った分の日にちだけ抜くのにかかる。個性とは、[技]とはそんなものだ。おとしてフラットにする、そこから始める。できれば生きてきた癖もいったん抜いてみる。そんな難しいことを『ドライブ・マイ・カー』の本読みでは行っている。
僕自身は、演劇に係わったこともあるのに、戯曲を読むのは苦手だ。小説はどうにか読める。どうにかだ。カフカとかチェーホフは翻訳も進化しているので、その進化と云う変化を使って中に入っていける。で…チェーホフの戯曲は、チェーホフの小説を読むのとほとんど同じ調子で読める。読みやすい戯曲だし、安易な言い方をすれば小説のような戯曲だ。だからと云ってチェーホフを演出しやすいかというとそこはまた別だ。『ドライブ・マイ・カー』は、『ワーニャ伯父さん』をどう演出するかをベーストラックにして撮影されているんじゃないかと、見ながら思った。映画の台詞のなかに、チェーホフ戯曲に対する演出法が披露されている。(見終わったら抜き出してみよう。)映画自体の演出にもその演出法は使われている。二つは織りなされて分化できないようになっている。『ワーニャおじさん』(小野理子訳)の小野理子の解説によれば、モスクワ芸術座での初演、演出とアーストロフ役を兼ねたスタニスラフスキイの「強調・大声・外面的効果好き」が…と書かれている。濱口竜介監督の演出はその反対だ。チェーホフもスタニスラフスキイ演出には不満があったようだから、濱口竜介は、チェーホフに捧げる演出をしているかもしれない。チェーホフは演劇をよく心得ていたから、演劇的な、カタルシスではなくて、小説を読んだあとのじわっとした感覚の揺らめきのようなものをこの戯曲の上演に望んだのではないだろうか。ついでにロシア的なものへの皮肉も書いている。チェーホフの戯曲にはいくつもの補助線を引くことができる。検閲もあり作家たちが投獄される国で書いている小説なので、それはそういうことだろう。囚われた状況に於ける人生の晩年…そこでの恋愛…才能の発揮、その仕方…同じように映画にもたくさんの補助線やベーストラックがある。今、『ドライブ・マイ・カー』を見ながらたどっているのは、その一本か二本…いや一本にしかすぎない。それも間違っているかもしれない。今のところそれ以上を読む力量をもちあわせていない。ただしそれは[分かる]とかのためにやっているのではなくて、愉しみのために、よく身体に入ってくれるためにやっているので、研究とかじゃない。つかんでいる一本の糸は、映画の演出は、チェーホフの、『ワーニャ伯父さん』の演出法のトライ…そのドキュメント。だけれどもそれをたどるだけでも、たどたどしい。チェーホフも濱口竜介もボクにとっては初見で、分析不可の奥行きをもっている。劇中劇のその演出を担当する家福(西島秀俊)。ワーニャ伯父さんの役を抜擢された(と、本人が思っている…)高槻耕史(岡田将生)。二人のぎくしゃくしたやり取りとかから入っていく。
「テキストに集中しろ。…上手くやらなくて良いんだ。…ただ読めばいいんだ。」
と、家福に云われた高槻が、ちょっと嫌みったらしく反発をこめてわざとらしく素人風に異常に遅く読む…。(しかしこれは名演技というもので、素人の読みでもなく、うまくいっている本読みの棒読みでもなく、そこから作り上げた実際の舞台で使う抑制された台詞回しというもののどれでもなく、まさに嫌々反発して読んでいる台詞で、それが高槻の性格/演劇の理解度の低さというところから来ている~ように演じていて、高槻役の岡田将生の絶品の演技と言える。これは意外に誰にできるものではなく、キャスティングも素晴らしい。)と、ここまで書いてから正直に云うと、ボクは、共演する女優を次々口説いてものにしたりする軽い感じなのに、演劇では分かったふうに演出家に議論をもちかける役者がもの凄く好きじゃない。ボク自身は、相手にしないし自分がキャスティングボードを握っていたら絶対に出演依頼しない。で、そういうことが起きる映画とか小説もあんまり好きじゃない。先も見え見えだしその場面もすぐ先のシーンが浮かんでくる。『ドライブ・マイ・カー』にもあって、高槻が突っかかった時点で、一旦見るのをやめようかと思ったくらいだ。また別のところでは、高槻がちょっと良いですかと、個人的に家福を呼び止めるシーンがあって…あ~っ…やっぱり…個人的にアプローチして小賢しいこと云うんだよな…と再び、見るのを止めたくなった。山崎努の『俳優ノート』でも、『~なかには議論好きな俳優もいる~稽古中に延々と議論をふっかけて理屈だけを云う俳優』~を厳しくあげつらっている。本気で怒っている。何度もでてくる。『俳優ノート』は、新国立劇場開場の「リア王」の稽古から本番、千秋楽までのドキュメントになっていて、もちろんキャスティングも書かれているので、近い人には誰だか分かる…ように書いている。山崎努は演劇に本気な人だ。で、山崎努が吐き捨てるように怒るのは分かる。ボクはダンスの演出のキャリアのほうが長いので、ダンスで云うと、もちろんいる。たくさんいる。だいたい言葉で云う奴に限って、言葉で納得したそのこともできない。舞台の上で使われる言葉…台詞のことだけど…の感覚とかロジックというのは、まったく異るもので…そういう奴に限って舞台上の表現言語がない/貧しい。というくらい嫌々なんだけど…映画の中で、家福は高槻に対して「君は自分を上手にコントロールできない。社会人としては失格だ。役者としては必ずしもそうじゃない。君は相手役に自分を差し出すことができる。同じことをテキストにもすれば良い。自分に差し出してテキストに答える。テキストは君に問いかけている。それを聞き取って答えれば…」と。聞いていて衝撃的だった。たとえば濱口竜介監督は、自分の映画の主演男優が、主演女優とできてしまって、そのことで男優が離婚したり世間からバッシングを受けても、役者としては面白いと思っているんだと。そしてそれを実行する監督なんだと。大事なのは相手役の役者に向かえるかどうか、その前にテキストに向かえるかどうか、そしてテキストに書かれている相手役に向かえるかどうか…そしてテキストに書かれている役の人を、自分に迎え入れられるかどうかだ。と、クールだ。(かなり考えさせられる…)
「チェーホフの言葉が身体の中に入ってきて身体が動く。戯曲の流れをほんとうに全部頭に入れておく必要がある。」(家福/濱口の台詞)チェーホフをどう読むかは必要なくて、チェーホフのテキストにちゃんと向かってまず流れなり特質なりを受け止める、向かい合うことが必要だ——と言っている。向かい合って、その間に、できたら一回テキストを身体の中に入っておく。できたらチェーホフの身体も…テキストの身体には、日翻訳者の身体もあり、そしてチェーホフの身体もあるのだ。ゆっくりそのずれも差も身体に入れる必要がある。そして離れる、そうすると向こうから役が来る。山崎努は云う「要は役の人物の存在を信じることなのだ。リアに自分が滑り込む。リアに身体を貸す。それはどちらでもよい。~そして本番前日~「リアは居るか?居る。明日はリアに身体を貸すのだ」と。ボクは現実に起きることが大好きなので…現実がくにゃっと歪みこの世ならぬ時空になることに魅了され続けた。だからテキストの身体が役者の身体に宿る方向が好きである。自分がテキストを読むのでも、忘我、テキストそのものになって、向こう側に行き、そしてテキストも我も忘れ、ある日、こちらに来てくれる、そのときにもう一度、テキストを舐めるように慈しむ。なかなかなったことはない、多くの作家の力を借りて、カフカで微かに味わったのみ。本番が近くなって、山崎リアは自分自身だと信じるようになる。ボクは『ドライブ・マイ・カー』に一心に入っていっている。
『ワーニャ伯父さん』の場面的1つの山場は、ワーニャがピストルを持ちだすところ。そして撃つ。ゲネプロのそのシーンで事件が起きる。その結果、家福は、代役でワーニャを演じなければならなくなる。さて家福は映画の中でなぜワーニャを演じないのかということを高槻に問われてこう答えている。「このテキスト(ワーニャ伯父さん)にはそういうことを起す力があるということだ。チェーホフはおそろしい。彼のテキストを口にすると自分自身が引きずり出される。そのことにもう耐えられない。そうなるとこの役に自分を差し出すことができない。」と——。差し出せない自分を差し出してしまった(ワーニャ伯父さんを演じた)家福に何が訪れるかと云うと、自分自身が引きずり出されるということが起きるということだ。「ワーニャ伯父さん」の文脈で言えば、今まで抑えていた(かどうかも意識していない)闇が引きずりだされるということだ。だからうっ積したものを爆発させ、ピストルまで撃つのだ。(ワーニャが)では、映画の中のワーニャをやってしまった家福の闇は、うっ積していたものは、…そう…音が男たちと寝ていたこと…それでも自分を愛していたこと…それを咎めなかったこと。それは家福が無意識にも意識的にも押し込めて出さないようにしてきたことだ。映画の中では、家福は劇中劇の上演が終わったあと、ワーニャ伯父さんがピストルもって自分をさらけだしたように、自分をさらけ出して暴発しなければならなない。そしてそのシーンは来る。そう、映画『ワーニャ伯父さん』いや『ドライブ・マイ・カー』もう1つの山場である。ピストルはない。家福だから。静かにそして内から激しく号哭するのだ。『ドライブ・マイ・カー』は、『ワーニャ伯父さん』演劇的実験を行いながら、その過程を映像化しながら…映画でできる/映画でしかできない虚実の新たな方法を試みた作品である——。ボクにはそう読める。勝手にそう読んだ。読んであっているかどうかは分からないし、あっていない確率もかなり高い。なにせ、初めて尽くしの上に、村上春樹を未読で映画を見ているからだ。でも、自分は、そう接線を引くことによって映画をもの凄く愉しめた。映画の中にはいっていけた。俳優や監督やスタッフの…この映画を撮っている時の息遣いを感じた。
濱口竜介の使っていた『ワーニャ伯父さん』のテキストは、古典新訳文庫だった。ロールテロップにも出てきた。余りにもぴったりだったので、途中からああ、この訳を使っているんだなと確信した。二つの難所は、二つとも劇中劇のゲネプロで上演されていた。役者たちは、全力でその場を演じていた。いい舞台だ。映画の中で、役者は二つのトーンをこなさなければならない。劇中劇は本当に素晴らしい演出だ。通しで見れるならボクはそれが韓国の田舎だろうが、カンヌの映画祭だろうが見に行く。広島国際映画祭の特別上演としてやってもらえないかな。もちろん見に行く。で、ボクの私見だけれど、他の訳を使ったら、また少し違うものになっていったような気がする。チェーホフの戯曲には、一人の台詞の中に[間]と書いてあるところがある。チェーホフは舞台の上にちょっとだけ手を出している。で、その[間]の記述の仕方は訳によって異るわけで、当然、そのこと1つとっても舞台には影響がでてくる。テキストとはそういうものだし、濱口竜介は、それをよくよく知っている。
最後に、劇中劇を見たいといった大きな理由は、ラストシーンだ。劇中劇のラストは、前に引用した…「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。そしてあたしたちの最期のがきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ。」という台詞が手話で語られるシーンなのだが、手話のユナと家福が見たことのない素晴らしい演出によってこの場面を演じる。ご存知だと思うが、歌舞伎とか商業演劇では、対話する二人が顔を見合わせず、観客の方へ向けて台詞を言う。小劇場やアングラでも、若干その傾向はある。二人だけの親密な台詞や、二人の俳優の力によって向き合ってしかできあがらない演技…この最後の台詞もワーニャために、ソーニャがワーニャに向かって言うのであって、ワーニャはそれをそらすことなく全部受け止めるという形になる。観客に向かって台詞を朗詠すれば、その二人の役者が起せたものが、消えてしまう。立ち稽古を外でやるシーンがあって、そこで二人の役者にすばらしい関係、屹立するものができた。そのとき家福は「今何かが起きていた。それは俳優の間で起きているだけだ。次の段階では観客にそれを開いていく。一切それをそこなうことなく劇場でそれを起す。」と、言う。一切そこなうことなく…えー。とボクは思う。そりゃ難しい。ダンスでもデュオで相手に向かってだけ踊っていけば、凄い踊りになる。しかしダンスでも客の方へは向かなくてはならない。開かなくてはならない。ダンスでもダンサーは大半観客席を見ている、シーリングとスポットの明りが顔にあたっている。そうじゃない起きていることを優先するダンサーもいて…勅使川原三郎だけれど…彼は二人で起しているものを観客に見せる。観客は見に行かないと見えない。で、『ドライブ・マイ・カー』の『ワーニャ伯父さん』のラスト、ソーニャと家福の二人は、二人とも観客席を向いている。一人は手話、後ろから抱きつくりょうにして、ワーニャの眼の前で、手話を使う。ここの場面の台詞はソーニャからの一方的な台詞だから、手話で台詞を伝え続ける。家福は、眼の前の手を見ながらその台詞を受けていく。親密な二人が演じられ、なおかつ観客は二人の顔を見られる。観客にも100%伝わる。こんな演出があるんだと。本当に吃驚した。このシーンの演出があるために、手話の俳優というシチュエーションを組んだのではないかとすら思う。
そうしてボクはここでこの文章を終える。映画を論じているわけではないのでまとめはない。
二冊の文庫を手に、自分の少ない経験を思い出しながら…ボクは映画を充分に愉しんだ。ちょっとだけ価値観が変わったかもしれない。
ps
しばらくして、もし気が向いたら、今度は、村上春樹の『女のいない男たち』を携えて『ドライブマイカー』に乗ろうと思う。映画はまた別の輝きを見せるだろうし、村上春樹を好きになるかもしれないし…。