日々是徒然/『一匹のトカゲが焼けた石の上を過った』/笠井久子
いろいろな人生があって、人それぞれなんだという、ほんとうにあたり前のことが、ようやくうっすらと分かりかけて来た頃に、人生は終わりを迎える。そんなものなのだろう。とくに半ちくに生きてくれば。
編集のまねごとをやってきたからなのか、もともとそういう性だったのか、人に従って生きてきた。人の欲望を見ながら伺いながら過ごしてきた。
人の欲望は、自分の欲望に置き換わり得ない。それでもそれを興味としてきた。生きるエネルギーにしてきた。
ここで云う欲望とは、演劇をする欲望、絵を描く欲望、人形を作る欲望…そんな欲望のことだ。動物が共通にもつ欲望のことではない。食べることとか好きだから、完全にことではないと云いきれないかもしれないが、できるだけ特化している他人の欲望をターゲットにしていた。
本もそうやって読んできた。誰かが面白い、そう聞くと、その本をもとめ読んできた。当然のことながら、本を教えてくれた誰かの、読む影響を受ける。読み方も無意識には似たものになる。
踊りも演劇も…。でも土方巽とか笠井叡とか寺山修司とか…だから、彼らの創作の欲望に、自分の感覚が重なることなどできるはずもない。けれどもどうやって創作の動機をもったのか…とか、この作品の描く欲望は何か?とかには、興味をもって、自分なりに身体に入れようとしてきた。
そうしたたくさんの人たちのいろいろなジャンルの欲望が…そこから派生したものの見方、本の読み方が、自分の中で混在し、錯綜しながらいまの自分が、ここに居る。
あるときから、そこに疑問をもちはじめた。他人を生きる自分のあり方に。自分の見方、読み方ができないかと突然思うようになり…それから、試行錯誤でもがきはじめた。10年やっている。口ではそんなことできるはずがないと云いながら、どうにかならんかと、苦しんでいるうちに、迷路のどんずまりまできてしまった。
さて、最近、『一匹のトカゲが焼けた石の上を過った』笠井久子
という本を読んだ。笠井叡の同名のダンス公演を見て、その原作として使われていたからだ。
読み終わって――何か肩の荷がおりたような気がした。自分にとっては生きる学びの本になった。
それはさておき、本には、副タイトルがついていて、昭和・平成・令和を笠井叡と共に生きる――とある。いつも笠井叡の舞台には立ち会っていて、それはもちろん共に生きているだろうけど、共に生きているのは確かだろうけど…感覚としては久子さんは、笠井叡と共に踊っている——。
『一匹のトカゲが焼けた石の上を過った』を原作に笠井叡が踊る舞台を見に行った。たまたま座席のすぐそばに、久子さんが車椅子にのって開演を待っていた。そのまま舞台ははじまり…舞台は凄い出来だったが…だいぶ時間がたってから、スタッフに押されて退出していった。あれっ…具合でも悪くなられたのかな…と、心配したが、すぐに舞台に気持ちがのめっていった。
突如、舞台に全裸の久子さんが登場して、舞台を横切りだした。身体がお悪いので、ゆっくりゆっくりだが…歩いて…踊りだ! 普通にそう感じる。全裸というのは、センセーショナルな感覚の対極としてある。全裸なのは、たぶん、笠井爾示が撮った写真集れとも関係ある、ある種の常態なんだと思う。
出演するなら袖で待っていればよいものを、ぎりぎりまで客席で見守っている久子さんは、観客席でともに踊るという行為をしている/してきたのだと思う。ずっとずっとそうして踊ってきたのだ。ともに踊ってきたのだ。
比喩ではなくて、『一匹のトカゲが焼けた石の上を過った』の文章、文字自体も、笠井叡と一緒に踊っているのだ。笠井叡が『一匹のトカゲが焼けた石の上を過った』は、俺自身だからどうやって踊りにしようかとちょっと困ったと語っている。でも見事な作品にしあがった。
この本を台本に踊る笠井叡は、あの舞台で、笠井久子とのデュエットを…(一緒に踊ってはいないが…)見せて、連れ舞い、添い舞いの集大成をしたのだ。いや集大成ではないな…二人はこれからも踊り続けていく、共に…。本には、その姿勢と感覚が感じ取れる。さらに自分にとって衝撃的だったのは、未だに踠き続けている(常人とはまったく違うレベルであるが)ということだった。
たとえば、
『晩祷』――リルケを読む――を読みながら、本を読むということは、正直に自分に向きあうことなんだ、ということを教えて頂いた。あと数年で七十歳にならんとする時まで、こんなことがわからなかった自分に呆れる。
「自分の考えを自分の言葉で書け」という言葉を引いて「自分の言葉とは自分の生き様そのものだと思ったとき、そこにリルケがいた」という先生(志村ふくみ)の文章を読んだ時、ふと肩が軽くなったような気がした。
という文章…。
七十歳すぎても、わからないことがある。それを心から思い、晒して書くということ。だからこその全裸のパフォーマーであり、舞台のダンスである。分からないこともあるけれど、でも踊る。でも書く。存在するという決意である。
それは、踊りの形式を決めず、その舞台、その時に、忠実に生きて踊ろうともがく笠井叡の姿とも重なる。僕は、生涯の中で、何度も笠井叡が、この先どう踊る?と、立ち尽くす姿を見てきた。本番の舞台でだ。それは、限りなく純粋で、限りなく美しい踊りのひとつの姿だ。
笠井久子のこの文章は、美しい立ち尽くしであり、それが故の気づきであり、また歩んでいくことに他ならない。到達や完成はないのだ。
ところで少し自分のほうにもどさせてもらうと、「自分の考えを自分の言葉で書く」ということをしてこなかったのだから、突然それをやろうとしても不可能なのだということに強く気がつかされた。
この本には、「言葉とは自分の生き様そのものだ」という一文があって…自分はそれをこれらからの座右にしようと決心した。
――笠井久子さんの言葉を借りて云えば、そんなことにこの歳になっても気づかなかったのか――と呆れる部分もあるけれど、生きているんだからまぁそんなこともあろうかと…。
人の欲望、人の読み方を自分の欲望にしてきたが、実は、その人というのは、誰でも良いということでは絶対にない。
リルケの読書は何度も挑戦したが、身体にまったく入ってこなかった。導き人がいなかったわけではないが、やはりその人と頭のヴァイブレーションが合わなかったりすれば、うまく入っていけない。
久子さんがこの本に書いている『晩祷』を読むと、すっと言葉が身体の中に入って溶けていった。これならリルケが読める。そう確信した。
「自分の考えを自分の言葉で書け」には、他にも導きの本があって、順にそれを読んでいこうと思っている。
この十年の苦しみがまだまだほどけたわけではないが、これからも笠井叡と笠井久子の踊りを見ながら、自身は愉しみ踠く日々を送っていこう。
『一匹のトカゲが焼けた石の上を過った』感謝の一冊。
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