「君の名は。」と、かつてもっと繊細だった私
「君の名は。」の公開当時、私はまだ大学生だった。
その時私には付き合っている人がいた。よく覚えている。一緒にこの映画を観に行ったこと。
当時の私は、精神的に崩れてしまい、大学を休学して、少しずつ回復したりしなかったりしていた。
彼は、私の繊細さが好きだと言っていた。だから私にとって、繊細さは唯一見出せた武器でもあり、大切なものだった。
同時に、こんな自分を好きでいてくれるのは彼だけだし、彼から嫌われたらどうしようと、いつも恐れていた。
とにかく自分に自信が持てなかった。だって私はなにも生み出してはいない。誰のためにもなっていない。ただ呼吸をしているだけだった。
生きてるだけでいいと言ってくれる人がいるのは理解していたけど、生きている「だけ」では、あまりに苦しかった。
彗星の美しさに一瞬で飲み込まれることができるなら、それでも生きようと思えるだろうか。そう言った私に、彼はその感性が好きだと言ってくれた。
社会人になってしばらくして、彼とはお別れした。少しだけ自我と自信が芽生えてきた頃だった。
「君の名は。」の映像と音楽に、揺さぶられた当時の感情が湧き出る。あの時、私のフィルターを通した世界はいろんなことが細かく見えすぎて、美しくもあり、だからこそ世界の小さなことに胸を痛めていた。
でもそれだけでは生きていけなかった。無力だった。
痛くてもご飯を食べて、眠って、明日も笑顔で頑張る力が必要だった。当時と比べると、たくましく、いろんなことを飲み込んだり受け流せるようになったと思う。
見方によれば鈍感になってしまったのだけれど、きっとこれくらいがいい塩梅なのだ。
生きるのが苦しくなるほど、自分の手の届かない範囲にも胸を痛めてたら、自分も、自分の近くにいる人を救えなくなってしまう。そう少しずつ分かるようになった。
(自分の手の届く範囲以外のことに無関心で良いと思っているわけではない。ただ適切な距離を取ることが私には必要だという意味)
もう5年か6年か、それくらいの時間が経った。鮮明だったはずの夢が記憶から抜け落ちていくように、隣にいた彼の温度も会話も、思い出せない。
時々なにか大切なものを失っているような気がする。少女だったから、夢を見ていたのかもしれない。本当に大切なものだったら、たとえ失っていたとしても、また出会ったときに気づけるだろう。
過去の私も、美しかった。けれど、今の自分も好きだ。今の自分のほうが好きだ。
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