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「なんでもない」が積み重なって、人間が作られていく 【今日もいち日、ぶじ日記(高山なおみ 著)】

なんでもない日常に、価値を見出すこと。
なんでもない日常を面白がって、エッセイにしたためたり、絵に描いてみたり、
案外、誰かを面白がらせるのって、誰かの何でもない日常から生まれ出たものなんじゃないかって思います。

高山なおみさんの「今日もいち日、ぶじ日記」を読みました。

高山なおみさんの作品は何冊も読んでいますが、高山さんの作品からは
どれも、なんでもない日常を、そのまま文章にしたためている、という印象を受けます。
特別美化することはせず、ただありのままの出来事を書く。
(その日の献立は必ず書く)
それを追体験するかのように読んで、なんだか癒される。
私が体験したことでないはずなのに、私が体験しているかのようで、その匂いや雰囲気を一緒に味わっているかのよう。
そして不思議に居心地の良さや色んな感情が生まれていく。
高山さんの本の魅力って、そこなんじゃないかなあって思います。

本書で高山さんは、田舎の古民家を買い、前の住人の持ち物などを整理しながら、受け継いでいくことについて下記のように書いています。

この本を読んでいたのは、どんな人だろう。
私が生まれる前に、若くして亡くなった父方の叔父も、本をたくさん読む人だった。
「高山蔵書」という紅いハンコが押されたおじさんの本が、実家の物置にもしまってあった。
埃まみれになりながら、いちど箱から出して調べてみたことがあったけど、東京に持って帰っても置き場所がないから、けっきょくは、そのほとんどを置き去りにしてきた。
そのうちに、実家を建て替えることになり、本は根こそぎ処分された。
私がきちんと向かい合うことをしなかったせいで、かけがえのないものを、簡単になくしてしまった。
それがこうして大人になり、私の準備ができた頃、もういちど目の前に現れてくれた。

今日もいち日、ぶじ日記(高山なおみ 著)

誰かの所有していたもの、というのは、誰かが「いいな」と思って手に入れたものであって、
(誰かがそのまた誰かから譲り受けたものかもしれませんが)
つまり誰かの感性によって選ばれたもの、ですよね。
だから、そういった誰かのものを譲り受ける、というのは、宝物を譲り受けるのと同義のような気がして、ちょっと神聖な気持ちになります。
誰かに「いいな」とか「かわいい」とか、思われて所有されていたものって、それだけで価値が増すような気がしてなりません。
まさに、誰かのなんでもない日常そのもの、が生み出したお宝だと思います。

私たちの隣には、60代前半から70代の老夫婦が2組、それぞれ向かい合ってごはんを食べていた。
子供たちも大きくなり、独立していったあとの親たちは、もう親ではなくてもちろん恋人どうしでもない。
いろんなことを知りつくし、許しあっているような。
旦那さんがやけに子供じみて、奥さんに甘えているような。
あるいは学校のクラスメイトみたいな。
そんな感じがした。

今日もいち日、ぶじ日記(高山なおみ 著)

人間関係も、愛情も、なんでもない日常の積み重ねなんじゃないかって思います。
でも、無心で続けることが必ずいい結果を生むかと言ったら、そうではない、とも思います。
例えば、最初はとても居心地の良かった関係の中に、ある日突然何かしらの事件が起きて、拒否感や違和感を感じながらも、
それと向き合うのが怖いから、自分の感情に蓋をしながら、知らないふりをしながら、なんでもない日常を取り戻そうとする、みたいな。
だから、なんでもない日常、というのは、本当は「なんでもない」なんてことはなくて、その人がちゃんと生きてる証なのであって、「なんでもない」んじゃなくて、その人の勝ち取った居心地の良さ、がつまり「なんでもない」なんじゃないかって思います。
その「なんでもない」の積み重ねによって、物にも、人間関係にも、重さや想いが増し、宝物になっていくんだと思います。
「なんでもない」日常を過ごせている人は、「なんでもない」を勝ち取った、自分で作り出した素敵な人。
「なんでもない」日常に、万歳!

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