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長恨歌について
まえがき
4年前の今日10月1日は、ちょうど中秋の名月だったらしい
ちなみに今年は9月17日だったので、半月ほど早く旧暦では満月(旧暦8月15日)を迎えた。
中国では、お正月のように中秋節快楽!と挨拶を交わす。
白居易の詩に
銀台金闕夕沈沈
独宿相思在翰林
三五夜中新月色
二千里外故人心
渚宮東面煙波冷
浴殿西頭鐘漏深
猶恐清光不同見
江陵卑湿足秋陰
がある、左遷された友人を思う詩である。白居易は翰林学士として宮中で活躍の折詠まれた詩である。だが、白居易自身も朝廷から睨まれていて5年後に左遷されることになる。
さぁ そんな白居易の特に長恨歌について、復習してみようと思う
白居易と長恨歌
長恨歌は、唐代の詩人白居易が創作した120句からなる長編叙事詩であり、その文学的価値と歴史的影響力において中国古典文学の傑作と称される。
白居易は772年に生まれ、846年に75歳で没した唐代中期の著名な文人官僚である。字は楽天、号は香山居士。若くして学問に励み、35歳で科挙に合格して官途に就いた。左拾遺や翰林学士などの要職を歴任し、政治の中枢にも関わった。しかし、その批判的な姿勢ゆえに幾度か左遷を経験している。文学面では、平易な言葉で社会の矛盾を鋭く指摘する「新楽府」や、閑適な生活を詠んだ詩などで知られる。現存する詩文は約3800首に及び、中国文学史上屈指の多作な詩人として評価されている。
白居易の恨み
白居易が政府に対して抱いた恨みは、主に彼の改革志向と現実の政治との乖離に起因する。彼は理想主義的な儒教思想に基づき、民衆の苦しみを軽減し、社会の不正を正そうとした。しかし、その姿勢は保守的な官僚たちの反発を招き、815年には武元衡暗殺事件に関する上書が越権行為とみなされ、江州司馬に左遷されている。また、楊国忠をはじめとする権力者たちの腐敗や、玄宗皇帝の政務怠慢に対しても批判的であった。これらの経験は、白居易の政治に対する失望と、文学を通じた社会批判の志向を強めたと考えられる。
長恨歌における政府への恨みは、直接的な批判としてではなく、巧妙に隠された形で表現されている。例えば、玄宗皇帝の女色への耽溺と政務怠慢を描写する部分は、表面上は悲恋物語の一部として語られているが、実際には為政者の無責任さへの批判を含んでいる。また、安禄山の乱の勃発を「漁陽鼙鼓動地来」と描写する箇所は、国家の危機を招いた政府の無能さを暗示している。さらに、楊貴妃の処刑を描く場面では、為政者の身勝手さと民衆の怒りが対比的に描かれており、これも政治批判の一形態と解釈できる。
長恨歌に関する研究の一例として、中国の学者王運熙の論考を引用する:
"《长恨歌》不仅是一首叙事诗,更是一首抒情诗。白居易通过对玄宗与杨贵妃爱情故事的描述,深刻反映了当时的社会现实和人性。诗中既有对人世无常的感叹,也有对权力滥用的批判,更有对真挚情感的歌颂。"
(訳:「長恨歌」は単なる叙事詩ではなく、抒情詩でもある。白居易は玄宗と楊貴妃の恋愛物語を通じて、当時の社会現実と人間性を深く反映させている。詩中には世の無常への嘆きがあり、権力の濫用への批判があり、さらには真摯な感情への讃美がある。)
玄宗皇帝
玄宗皇帝の非道徳性は、長恨歌の背景となる史実において顕著である。最も象徴的なのは、息子の妃であった楊玉環(後の楊貴妃)を奪ったことである。玄宗は楊玉環を一旦道観に入れ、その後還俗させて自らの後宮に迎え入れるという策略を用いた。これは単に倫理的に問題があるだけでなく、皇室の秩序を乱す行為でもあった。また、楊貴妃への溺愛は政務の怠慢につながり、楊氏一族への過度な寵遇は朝廷の腐敗を助長した。さらに、安禄山の乱が勃発した際、玄宗は自らの保身を優先し、楊貴妃を処刑することで軍の不満を鎮めようとした。これらの行為は、為政者としての責任感の欠如と、個人的欲望を国家の利益に優先させる姿勢を示している。
詩の中ではあくまで、楊貴妃は楊家の箱入り娘で描かれている。
この時代でも道ならぬことであったのである。其の実、息子の嫁を自分の妻とする例は歴史に多い、たとえば、織田信長は息子・信忠の妻である氏家直元の娘を奪ったとされる。豊臣秀吉は、養子・秀次の正室であった前田利家の娘・まつを側室とした、このような人物が歴史上重要人物とされる意味がわからないくらい、いまでは考えにくい行為である。
もっとも、家系の存続においてやむをえずこうした結婚は成立した。
レビラト婚という。古くは旧約聖書の申命記にも出てくる
"Si des frères demeurent ensemble, et que l'un d'eux meure sans laisser de fils, la femme du défunt ne se mariera point au dehors à un étranger, mais son beau-frère ira vers elle, la prendra pour femme, et l'épousera comme beau-frère."
もっとも、申命記では、兄弟の例である兄弟がなくなった場合、その妻をほかの兄弟が娶るというものである。寡婦の保護を目的としていたと言われるがいずれにせよ、眉を顰めたくなる。
さて、閑話休題。
長恨歌の文学的偉業
長恨歌の文学的素晴らしさは、その巧みな構成と豊かな表現力にある。120句という長大な形式を用いながら、緩急自在のリズムで物語を展開し、読者を飽きさせない。冒頭の「漢皇重色思傾国」から始まり、楊貴妃の登場、二人の愛情の深まり、安禄山の乱の勃発、楊貴妃の死、そして道士による魂の探索と再会という展開は、まさに一篇の叙事詩として完成度が高い。
また、白居易の卓越した描写力も特筆に値する。例えば、楊貴妃の美しさを「回眸一笑百媚生,六宮粉黛無顔色」と表現する箇所は、その艶やかさを鮮やかに伝えている。また、「在天願作比翼鳥,在地願為連理枝」という有名な一節は、二人の永遠の愛を象徴的に表現し、後世の文学にも大きな影響を与えた。
さらに、長恨歌の特徴として、史実と虚構を巧みに融合させている点が挙げられる。玄宗と楊貴妃の恋愛譚という史実を基盤としながら、道士による魂の探索という幻想的な要素を加えることで、現実と理想、歴史と文学の境界を曖昧にし、より深い思索を読者に促している。
白居易の詩作の特徴として、社会批判的な要素と抒情的な要素を巧みに融合させる能力が挙げられる。長恨歌においても、表面上は悲恋物語でありながら、その背後に鋭い政治批判を潜ませている。例えば、玄宗の政務怠慢を「春従春遊夜専夜」(春は春遊びに従い、夜は夜を専らにす)と表現する箇所は、一見艶やかな描写でありながら、為政者としての無責任さを批判している。
また、長恨歌の言語表現の豊かさも特筆に値する。例えば、「春寒賜浴華清池,温泉水滑洗凝脂」という一節は、視覚的・触覚的イメージを鮮やかに喚起し、読者を物語の世界に引き込む力を持っている。このような表現力は、白居易の詩人としての才能を如実に示すものである。
儒教的な理想主義と現実社会の矛盾への深い洞察が見られる。長恨歌においても、玄宗と楊貴妃の愛情を描きつつ、その背後にある政治的な問題や社会の歪みを示唆している。これは、白居易が官僚としての経験を通じて得た洞察と、詩人としての感性が融合した結果と言える。
長恨歌の文学的価値は、その形式美にも見出せる。七言古詩の形式を用いながら、韻律の変化や対句の使用によって、詩全体に変化と統一感を与えている。例えば、「在天願作比翼鳥,在地願為連理枝」という対句は、音韻的にも意味的にも完璧な均衡を保っており、白居易の詩作技巧の高さを示している。
さらに、長恨歌の特徴として、時間と空間を自在に操る描写力が挙げられる。玄宗と楊貴妃の出会いから別れ、そして魂の再会まで、長大な時間の流れを120句に凝縮しながら、同時に現世と仙界という異なる空間を行き来する構成は、読者の想像力を刺激し、物語に深みを与えている。
長恨歌の解釈については、時代とともに変化してきた。初期の解釈では、主に悲恋物語としての側面が強調されていたが、近代以降の研究では、その政治的・社会的な含意にも注目が集まっている。例えば、中国の学者王運熙は次のように述べている:
"《长恨歌》不仅是一首爱情诗,更是一首政治诗。白居易通过玄宗与杨贵妃的故事,深刻反映了唐朝中期政治的腐败和社会的动荡。诗中对权力的批判和对人性的探讨,至今仍具有现实意义。"
(訳:「長恨歌」は単なる恋愛詩ではなく、政治詩でもある。白居易は玄宗と楊貴妃の物語を通じて、唐朝中期の政治の腐敗と社会の動揺を深く反映させている。詩中の権力への批判と人間性への探求は、今日でもなお現実的な意義を持っている。)
玄宗皇帝の非道徳性は、長恨歌の背景となる歴史的文脈において重要な意味を持つ。玄宗は治世の前半、「開元の治」と呼ばれる太平の世を築いたが、後半は女色に溺れ、政務を顧みなくなった。特に楊貴妃への溺愛は、単なる個人的な問題を超えて、国家の存亡に関わる重大事となった。楊貴妃の親族を要職に登用したことで朝廷の腐敗が進み、これが安禄山の乱の遠因となったとされる。
長恨歌の文学的価値は、その普遍的なテーマにも見出せる。愛と別離、権力と欲望、人生の無常といったテーマは、時代や文化を超えて人々の心に響くものである。白居易は、これらのテーマを玄宗と楊貴妃の物語に巧みに織り込むことで、単なる歴史上の出来事を超えた、普遍的な人間ドラマを創造することに成功している。
長恨歌の影響力は、文学の枠を超えて、絵画や音楽など他の芸術分野にも及んでいる。例えば、唐代の画家張萱による「楊貴妃上馬図」は、長恨歌の一場面を描いたものとして知られている。また、日本の雅楽には「長恨歌」という曲目があり、これも白居易の詩に着想を得たものである。
なんといっても紫式部であろう。
紫式部への影響
紫式部が「長恨歌」から受けた影響は、『源氏物語』の随所に顕著に表れている。特に「桐壺」巻と「幻」巻において、その影響は顕著である。「桐壺」巻においては、桐壺帝と桐壺更衣の悲恋が、玄宗皇帝と楊貴妃の物語を下敷きとして描かれている。桐壺帝の更衣への寵愛ぶりや、更衣の死後の帝の悲嘆は、「長恨歌」における玄宗と楊貴妃の関係を彷彿とさせるものである。「幻」巻においては、紫の上を亡くした光源氏の悲しみが、「長恨歌」の玄宗の嘆きに重ねられている。巻名の「幻」自体が、「長恨歌」で楊貴妃の魂を探す道士を指しており、光源氏の紫の上への思慕を表現したものと解釈できる。さらに、『紫式部日記』には、紫式部が中宮彰子に「白氏文集」(「長恨歌」を含む)を講義したという記述が見られる。これは、紫式部が「長恨歌」を熟知し、その文学的価値を十分に理解していたことを示す証左である。このように、紫式部は「長恨歌」の構造や表現技法を巧みに取り入れ、『源氏物語』の重要な場面で効果的に用いることで、物語に深みと情感を与えることに成功している。「長恨歌」は紫式部の創作の重要な源泉となり、『源氏物語』の文学的達成に多大な貢献をなしたと言えよう。紫式部の文学的才能は、「長恨歌」の影響を単に模倣するにとどまらず、それを昇華し、日本的な美意識と感性に基づいた独自の文学世界を創造した点にある。『源氏物語』における「もののあはれ」の美学は、「長恨歌」の悲哀の情を日本的な繊細さと深みをもって表現したものと解釈できる。また、紫式部は「長恨歌」の物語構造を巧みに利用しつつ、より複雑で重層的な人間関係と心理描写を展開している。これは、「長恨歌」の影響を受けながらも、それを超越した文学的達成と評価できる。さらに、紫式部が「長恨歌」を通じて中国文学の伝統を吸収し、それを日本の宮廷文学の文脈に巧みに融合させた点も特筆に値する。これにより、『源氏物語』は単なる恋愛物語を超えて、政治的・社会的な含意を持つ重厚な文学作品となった。このように、紫式部の「長恨歌」受容は、単なる影響関係を超えて、東アジア文学の伝統を踏まえつつ、独自の文学世界を創造するという、高度な文学的営為であったと言えよう。
あとがき
この文章は中秋の名月にかけて書かれている。
今日はコーヒーの日なので、
来年はコーヒーについて書いてみよう。