
解決したかったわたしとコンステレーションの今
コンステレーションが好きな理由
コンステレーションというワークへの『好き』が乗じて、10年+の月日が経過した今、仕事の一環として提供する側になりました。
コンステレーションとは、テーマを設定し、グループの中で誰かを代理人として選ぶことで、無意識の領域にに働きかけるワークです。
その『好き』には、様々な理由がありますが、敢えてものすごく端的な言葉にしてみると、
それまで見つけられなかった自分の中の何かを見つけてあげることができるから。
とでも言えるでしょうか。こうして書いてみると、『そう、そう。』と頷く自分がいるので、そうなのだと思います。と同時に、記憶に浮かび上がるコンステレーションが一つあります。
以下は、一部、関係者の承諾を得て書いています。
『課題:部屋の片付けができない』から見えたこと
『部屋の片付けがなかなかできない』という『課題』を、コンステレーションの会で話してくださった方がいました。
その話を糸口にコンステレーションを進めていくと、見えてきたことがありました。
・本人の両親に対する怒りの感情が、消化されないまま心の奥底に強く残っていたこと
・本人の記憶から消えかかっていたけれど、本人とその兄弟以外に、幼くして亡くなった子どもがいたこと
といった本人にとっての『事実』でした。
『部屋を片付けられない』という課題の糸口からは到底結びつかないようで、それでいて『事実』でもあることが、連鎖的にその場に現れたわけです。
コンステレーションでは、これらの『事実』が『事実』として扱われる前に、まず代理人を担ってくれている人たちの動きによってそれらが『事実である可能性』を見せてくれるところから始まります。よって、誰かが意図的にそのように思わせた、とか、無理やり本人に尋問してそのようなことを言わせたわけでもありません。
聞こえていなかった声が聞こえる瞬間
こんな風に、可視化された『事実』を本人が目の当たりにすると、その人の中の何かが動くことは、様子を見ていてまず間違えないと思うのです。感情がわかりやすく出る人もいれば、静かに受け止めるような様子の人もいて、それぞれの反応は十人十色ですが、その人の中で『何かが動いた』ことだけは毎回感じられます。
このような機会に数え切れないほど触れ続けていると、何気なく暮らしているわたしたちの背後に、または意識下に、長い時間横たわり続けているものがあって、それを抱え続けながら人は生きているんだ、と思うようになりました。
糸口はなんであれ、問題視せざるを得なくなるようなことが浮上したり、日々を暮らす中で『煩わしいこと』『自分を生きづらくさせていること』として認識するようなことがあるときは、いずれにせよ自分の意識下からのサインのようだ、とも思うようになりました。つまり、
課題や問題は、解決することがすべてなのではなくて、それを課題視・問題視している自分のさらに背後に、何かを訴えている自分がいて、その声を聞き出せる機会なのかもしれない。
と。
問題解決欲がモチベーションだった頃
そんな風に思うようになったのは、実はまだつい最近のことです。コンステレーションに出会ったばかりの頃から、ファシリテーターのトレーニングを受け始めてしばらくするまで、常に『問題解決欲』がわたしを動かしていました。課題を抱える人はその課題から、生きづらさを感じる人はその生きづらさから、解放されてほしいし、解放されるべきだ、と思っていました。コンステレーションでそれを実現できる、と信じてもいました。
もっと遡ると、人生で初めて『セラピー』というものに出会うきっかけになったオーラソーマを学び始めた頃から、わたしの『問題解決欲』はその猛威を振るっていたと思います。ちょうど、20代の終わりの頃です。
それほど『自分の中のどうにかしたい自分』が居たようで、今現在も居ると思います。
あの頃から20年+の時間が流れ、特に40代の終わりから50代の入口にかけて、
何をどうがんばっても、抗えないことがある。
という壁にぶつかり続ける日々が続きました。そんな時間が流れていた間、一気にそれまでの『問題解決欲』が、溶けて流れはじめている、そんな風に感じています。
再考・コンステレーションが好きな理由
じゃあ一体なぜ、解決を目指さないのにコンステレーションとわたしは関わり続けたいのか。
ここまで書いてみて、やはり冒頭に書いた、
それまで見つけられなかった自分の中の何かを見つけてあげることができるから。
というところに戻ってきます。さらに、
それが例え、日々の問題を直接的に解決することに至らなかったとしても、それまで固まっていた自分中の、または目の前のその人の中の何かが動くことに信頼があるから。
なんて付け加えたくなるのです。
至って抽象的ですよね。
もっと具体的に言葉にすることもできるのかもしれませんが、今のわたしはこの曖昧な感じのまま、敢えて書き残しておきたいです。
見つけてあげられなかった自分を見つける
というのも、わたしの体験に基づいた、結果論でしかないのかもしれません。
体験は人それぞれ違うし、感じることも、起きることも、違って然り。具体的に言葉にすると、それはわたしだけの体験でしかなく、限定してしまう感じがして、そこに抵抗を感じてしまうんです。
アストロロジーでいうところの、客観視点の『風』が強いせいにしておきます(笑)。
わたしは、どうやらまだまだ見つけたい自分の何かがあるようで、活動の軸にしているコンステレーションもアストロロジーも、はじまったばかりだな、なんて思う51年目の秋を過ごしています。
来月江の島で、2人の長年の友人たちと共に、『旅じたく』と名付けた体験型ワークショップを開催することになりました!わたしは、占星学の視点からの情報の提供や、コンステレーションを実際に体験してもらう担当をします!詳しいことは、以下のリンクからどうぞ!