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Mother moon - 母に見る個性化のプロセスと自分の記録 -

内的ザワつきのはじまり

3月に入って、夫が所要でマレーシアに戻った途端、急に物理的にも心理的にもスペースが空いたからなのか、わたしの内側がざわつく日々が途端に始まった。出来事が引き起こす感情(夫が一瞬いなくなることへの寂しさ)が、さらにその奥に眠らせていた過去の感情を引き起こすトリガーになるんだな、という仕組みがあることが、だんだんとわかってきた。

夫がいない期間、日中は仕事するために実家へ通うのがルーティーンになっている。自宅から車で5分の実家に行くと、昨年秋頃から顕著になりだした母のどんよりした様子が今まで以上に目につくようになった。そのことが、わたしの心のざわつきを加速したのか、それとも、そのざわつきが最初にあってからの母のことなのかは、今をもってしては最早わからない。

娘として身近に母を見てきたこの一年。

良くないことがこのように重なることって本当にあるんだ、と疑った昨年の4月。母にとっての長兄であるわたしの叔父の突然死、そして次兄ーもうひとりの叔父の入院・手術が重なったのが昨年の4月。すでに亡くなって数時間経過した状態だった長兄の第一発見者となってしまった母。父も一緒にいた。その日朝から叔父と連絡が取れないと慌てる母の悪い予感が当たってしまったのだった。両親が叔父の元へ行くので、実家にいて留守していてほしいと頼まれたのが遅めの時間だった。その後、母から叔父の死を電話で聞き、警察の聞き取りや検死などがあって、両親が疲れ切って帰ってきたのは翌日の明け方だった。

突然の叔父の死と、止まった母の時間

その頃のわたしは、コロナの国境閉鎖のせいで約二年半待つことになってしまった婚約者の来日と、新居を探しながら仮住まいに住む、といった新たな生活が始まり、叔父の死の知らせを聞いたのは、今の住まいに引っ越す数日前。自分ごとで何かと忙しなく過ごす日々のさなかだった。彼の来日が可能になるのは政府の方針次第。今か今かと首を長くして待っていていたその日が唐突にやってくることになり、自分の生活が一気に変わった。来日した彼もさることながら、それまでわたしと同居していた両親にも、それは突然のことだっただろう。そんな最中で、2日前に元気な声を電話で聞いたばかりの母の長兄ー叔父が、なんの前触れもなく突然逝ってしまった。

叔母が10年ほど前に先立ち、独居だった叔父に母は定期的に食事をつくって差し入れしたり、父も何か用事をつくっては叔父に会いにいっていた。わたしも、母と一緒によく叔父に会いにいっていた。亡くなることを知る2日前に、せめて電話で結婚の報告をできたことが、今となってはありがたいと思えてならない。とても元気な声で、祝福してくれた。葬儀で母の代わりに喪主を務めた父は、挨拶で泣いていた。父も母も叔父を兄として慕っていたのがわかる、わたしたち家族とはそんな間柄の叔父だった。

叔父葬儀が終わってからの母は、まるで彼女の時間がその時で止まっているような感じにすら見えた。

叔父の一周忌法要が近づくにつれて、母のコンディションの悪さが目立っているようにわたしには感じられた。わたしの目が一気に母に向けられたことがそう見せているのかと何度も思い直してみたけれど、やはり、それまでとは様子が少しずつ違っていた。母自身は『一周忌が終わったら、肩の荷が下りる。』と何度も言っていたものの、聞く度に浮上するわたしの中の一抹の疑いは、なかなか消えなかった。

法要が終わった翌週の母は、日毎にコンディションが違っていた。今もそんな様子だ。元気そうに振る舞う日があると思えば、翌日は動くのすら嫌そうな様子だったり。まさにアップダウンが激しい。そんな母の様子を父と一緒に見守りながら、

ああ、この人、きっと秋頃からずっと鬱っぽい状態だったんだな。

と強く思った。秋頃というのは、その時期から母の話し方に変化を感じた時期だ。一言で言えば活舌が悪い。普段はものすごくハッキリとした物言いをする人なので、その違いは余計に目立つ。脳に何かあるのか、家族だけでなく母と話した叔母からも、『病院で調べさせて』と言われるほど周囲には顕著だったが、その一方で話す内容はそれまでと何ら変化もない。少々の物忘れ以外は、普段通りの明晰な母だった。のちに、奥歯が痛いというのがきっかけで歯医者へ行くと、長年の食いしばりの癖からくる顎関節症の気がある、と先生に言われ、わたしも母も至極納得したが、わたしは母にそんな癖があることを知って、食いしばらなくてはいけない理由の一旦を自分が担ってしまったのではないかという思いと罪悪感が湧いてきたのと共に、少しのショックを受けた。

母の言う『一周忌が終わったら肩の荷が下りる』は文字通りで、叔父との別れには区切りが一旦ついたのだと思う。そうなることで、自分の状態が以前とは全く違ってしまっていることに、ようやく母自身の意識が向いたように見える。もちろん、本人じゃないので彼女に起きていることはもっと違うことかもしれないけど、わたしのスクリーンにはそのように映っているのだ。

無意識のパターンとそれが生まれる背景

2月からザビエとの仕事で、自分の『無意識のパターン』というものにはたらきかけることを提案するワークショップを行っている。仕事であっても、もれなく自分自身にも作用していることが、この母との日々を通してわかってくる。

恐らく複数あるであろうパターンのうち、自分が今日現在認知しているのは、『自分にとって嫌な感情は、湧いてきたとしてもなかったことにする。』というもの。これは、認知し始めてからそれなりに年月が経っているものでもある。今となっては、気づけば感じるようにはしているけれど、それが意識的にできるのは、例えばDLTリトリートのような安心して自分に潜れるスペースだったり、信頼できるコンステレーションのトレーニングやワークの場だったりして、日常の中ではなかなかそのパターンは今も根強く発揮され続けている。

このパターンと言われるもの、その中身は何であれ、いずれにせよ子どもの頃の環境や雰囲気の中で安心安全を求めてサバイバルするために、自分なりに構築したものだという。もちろん無意識に。

4人の大人ー両親・父方の祖母・父の弟ーに常に囲まれて生活していた子どものわたしは、その頃それぞれの大人たちの間に起きていた衝突、そこに付随する様々な種類の感情を感じ取っていたんだと思う。この4人の大人たちは、衝突したとしても大声を出したり、怒りを顕にするようなやり方は、わたしの記憶にはなくて、だからこそ、表面化しないけど確実にそこにある空気を読む・感じることを子どもなりにしていたんだと思う。

わたしの感情の扱い方のパターンはそのあたりの関連している、と自分で理解している。ということは、わたしの親たちのどちらかが、わたしのパターンと似たような感情の扱いをしていたと考えるのが、ここでは少なくとも妥当だと思う(そうではない場合も多々あると思うけれど、あくまでもわたしの場合)。その視点で占星術をヒントにするならば、山羊座である父にはあまり違和感は感じない。その一方で、魚座である母には違和感を抱く。たまに祖母との衝突で涙する姿は見ていたけれど、普段は何事もなかったかようにいつもニコニコしていたし、母がわたしに怒るときは、決まってわたし側に母の怒りを買う理由がいつもあったから。

母の感情表現に抱いた違和感は、そのまた実母である母方の祖母の人物像に対する興味へとわたしを運んでいく。このようにして、自分よりも上の世代に起きていたことを知ろうとすることが鍵となるときがあるのは、何よりもコンステレーションがわたしに与えてくれた知恵なのだ。遺伝子が人間の想像を超える量と種類の情報を次世代へ伝達していることは、遺伝子工学の世界ですでに明らかになりつつあり、コンステレーションで上の世代のエネルギーを垣間見ることが持つ価値の根拠ともなっている。

常に謎だった祖母の人物像

母方の祖母は、わたしにとって『少々破天荒で、社交的で、とても美味しい赤だしのお味噌汁を作ってくれる人』であると同時に『わたしを海外に行かせてくれた人』だ。祖母の誕生日が、太陽星座が水瓶座であることに示しているのに納得のいく要素が、この一文にも散りばめられている。両親にとって大反対だった娘の海外留学を『行かせておやり。』の一言で覆した人なのだけれど、その人物像はつい最近まで謎だった。

謎というのは、過去にコンステレーションで母との関係を見たときに見て感じたことに繋がってくる。もう6〜7年以上前になるだろうか。当時参加していたコンステレーションのファシリトレーニングで自分のケースを扱った時のこと。わたしがその時見たかった自分の原家族ー父・母・自分ーのコンステレーションで見たのは、父とわたしに背を向けて、人生で叶わなかったものを追い求めている母の姿だった。「きっと母は、わたしと父の方を向いて凛と立っているだろう」というわたしの想定をことごとく崩したその姿に衝撃を覚えながらも、その時すぐに、母がかつてよく話してくれた『美容師になりたかったけど、母に絶対に許してもらえなかった。』という言葉を思い出した。そんな風に、自分の想定が、全体像のほんの一部または思い込みでしかなかったことを教えてくれるコンステレーションがわたしは本当に好きだ。もちろん時に怖さを感じるけれど。

今思えば、あのコンステレーションでわたしがみたものは、母がつきたかった職業のことだけでなく、もっと大きな『自分らしく生きる』ことを追い求めていた母のエネルギーだったのかもしれない。当時は全くそんな風に思えなかったけれど、今ならそう思える。

その時見たコンステレーションから垣間見えた、母をそれなりにコントロールしたと想定できる部分の祖母の人物像は、母や母以外の人から直接聞くことはほとんどこれまでなかった。わたしにとっては、なんせ留学に賛成してくれた『話の分かる祖母』だっただけに、母の体験とは一致しない。もちろん孫と娘だからこその違いかもしれないけれど。だからこそ、この機会に『もっと客観的に祖母のことを知りたい』とわたしに思わせることになり、このタイミングでザビエとのセッションにチャートを持ち込むに至らしめたのだった。そしてこれもシンクロニシティといえるのだろうか、それまで誰もがうろ覚えで不明だった祖母の生年月日を明確にしたのは、叔父の死亡届にはじまる様々な手続きのために取り寄せた戸籍謄本だった。

戦争の影

今年の3月、ザビエの帰国直前に、主に祖母と母のつながりが知りたくて、ザビエにセッションを申し込んだ。ザビエがチャートから感じ取る水瓶座ステリウムの祖母の人物像に耳を傾けると、『人に囲まれつつも時に敵多し』という印象に加えて、『自分の理想には1ミリも妥協しない。』という強い女性像。大正生まれで、自転車に乗って田舎の女学校へ通っていたという祖母。実家は裕福な家だった、と母から聞いたことがある。祖父と結婚して住まいを東京に移したところで、戦争の影響が色濃くなる。祖父は東京・上野で小さなはんこ屋を営んでいたが、空襲が激しさを増すに連れ、母をお腹に抱えた祖母は、当時幼かった母の兄二人を連れて、地元の愛知県へ疎開のために帰ってきた、と母から聞いた。そして、東京の空襲で家屋も含めほぼすべてを失った祖父は、手元に残った洗濯板一枚をもって自転車で、ひとり地元の愛知県まで帰ってきたと聞いた。

ザビエは、

お母さんは、お祖母さんのお人形のように扱われていたと思うよ。

と静かに言った。実は、このくだりを聞くのは初めてではない。昔むかし、母のチャートだけを見たときに同じことを言っていたのを思い出した。

『着る洋服も、髪型も、美容院に行く頻度も、習い事も、就職先も全部、母が決めていた。きっとわたしが長女だったから。貧乏人の娘じゃなくて、外に出しても恥ずかしくない娘にしたかったのだと思う。』

母の口から最近聞いたことだった。わたしの中にとっさに浮かんだ疑問『なぜおばあちゃんにその時反抗しなかったの?』を即座に聞き返すと、

『戦争の後、食べ物が少なくて、プライドの高い母が近所の農家の家に行って、頭を下げては食べ物をもらっていた姿を見ているからだと思う。』

と母は静かに涙目で言った。何も言えなかった。

ザビエとのセッションと、母とのこのやりとりで、わたしの中の祖母の人物像という謎は、ほとんど謎ではなくなったのだった。

母が月おとめ座である所以

わたしが子どもの頃から母に見ていた姿・像を言葉にするならこうだ。

何でも段取りよくしかも質良くこなす。料理も完璧、掃除も隅々まで行き届いていて、庭の花々もきれいに手入れする。暮らす日々の中で見る家族の何気ない表情も捉えていて、必要なら声をかける。夫であるわたしの父のことを決して愚痴る・ボヤくもなく、むしろ「お父さんは凄い人なんだよ」と常にわたしに諭すように話す。仲が決して良くは見えなかった姑である祖母のことも、必要なときは親身にケアする。それに加えて、家業も担い手の一人としてこなす。大きなお金を動かすのにも躊躇ない。子どものわたしに対するしつけも、ダメなことはダメとハッキリ言う一方で、話もよく聞いてくれた。誰よりもわたしのことを気にかけてくれた。しかもこれら全て、毎日怠らない。外の世界では、誰とでも仲良くなるし、PTA役員もサクっとこなす。気づくとご近所さんがいつもおしゃべりや相談にきていて、未だに交流のある学生時代からの友人も多い。

小さな子であるわたしの眼に、母は少なくともそんな風に映っていた。その像はわたしが大人の年齢になるまで変わらなかった。そうやって、完璧な母親像がわたしの中に着々と作られていったのだ。と同時に、自分の年齢が50目前になってようやく、これが母の全体像ではなかった、ということにようやく気づき始めている。さらに言うと、わたしの見ていた母親像は、母の太陽魚座よりも月おとめ座の要素が圧倒的に強かったということにも気づく。そして、その背後には、そのよう(=良妻賢母)に娘を育てることで彼女の幸せを願った、祖母の存在がここまで再び浮き彫りになるのだった。

わたしにとって、母に見た完璧な姿はいつしか自分が内的に抱えるコンプレックスになっていった。

母のような女性には、絶対なれない。
あんな完璧な母親には到底なれるわけがない。

わたしが今の夫に出会うまで頑なに「結婚したいけど、子どもはさほどほしいわけじゃない」と思って生きてきたことの真の理由は、ここにもあるのかもしれない。そんな風に思ったとしても全く不自然ではないほど、わたしは母に「完璧な母親像」を投影してみていたことや、それも今となっては、母というひとりの個人の放つホログラムのほんの一部だったのだということに、ようやく自分の理解が及んでしまう。

どんどん魚座らしくなる母の姿

時間軸を今に戻す。

叔父の一周忌法要が終わったあとの母は、まるで風見鶏のように日に日にコンディションが違う。端的に言うと『気分屋』のように見える。そんな姿は見たことがなかったので、一緒に暮らす父も、わたしも戸惑いを隠せない。昨日はよしとしていたことを、今日になって嫌だ、と言ったり。突然『気持ち悪いから病院へ行く。』と言って診察を受けて異常なしと言われた翌日は『やっぱり気分が悪い。』と言ったり。

母の太陽魚座に、生き方そのものの変化を促す「土星」がやってきていることは以前から知っていたしザビエからもそれなりの示唆を受け取っていた。それがどんな風に母にとって作用するのかは想像もつかなかったけれど、一周忌の前から、その先しばらくは母にとってアップダウンが続くんだろうという自分なりの想定を持つことの助けにはなっていた。そのおかげで目の前の母が実際にそうであることに極端に慌てることはないものの、心配までは拭い去れないのも事実で、いつの間にか父もわたしも『母の心配をする』ことで1日が終わっていくような日を過ごすこともある今日この頃だったりもする。

先日、1泊で友人と温泉旅に出かけた時に、今の母の様子を聞いてもらっていると、占星術のエキスパートである彼女は「それってまさに魚座だね~!」と話してくれた。彼女の言う「それ」は、今の母が表現している「気分屋」の様子を指していた。加えて、最近父が「最近やけにお母さんがくっついてくるんだよ。抱きしめてほしい、と言ってくることが多いんだ。」とボソっとわたしに話したことも、わたしに「魚座っぽい」という印象を加えた。確かに、これまでわたしが「これぞ母という人物だ」と思っていた彼女の表現と、今母に見る表現は明らかに一致しない。その変化にわたし自身かなり戸惑いつつ、時に不安を感じながら、同時に皮肉にも「今の母の姿こそが、彼女の本来の姿に近いのかもしれない」という仮説が浮かび上がってくるのだった。

Emotion is the taste of life. (感情こそが、人生の味わい)

そんな仮説が浮かび上がった数日後、わたしにとっては奇妙なことが起きる。朝から実家にきて、法人税の申告をするための残務処理を1日かけてその日は行う予定でいた。でも、朝家を出る時からすでに、気分がよくない。身体の不調ではなく、居心地の悪さを感じていた。その日やるべき期限が迫っている仕事にもかかわらず、やる気も全く起きない。むしろ実家にも行きたくない。それでも、母の様子も気になるので、実家に行くには行ったけれど、ノートパソコンを開いたまま何もせず時間だけが過ぎていった。

しばらくすると、その居心地の悪さが、イライラムカつきのようなものに様子を変えていくのが自分の中でわかった。そんなことが起きること自体も珍しいのだけれど、起きたとしても無視して目の前のことに没頭するのが、従来のやり方だ。これが、先に書いたわたしの「無意識のパターン」というやつなのだ。そんな中、ザビエがこのところワークショップやセッションで示唆している言葉が脳裏を駆け巡る。自分で何度も日本語に訳して伝えているので、一言一句明確に再生されるのだ。

『子どもの頃に築いたやり方(パターン)は、大人になってもうそれが不要なのに使い続けると、自分の中の葛藤や不調和にしかつながらない。』

致し方なく、その感情とやらを取り上げて感じてみるのに時間を割くことにした。苦々しい感覚がやってくるとのと同時に、悲しみのような寂しさのようなものがこみあげてくる。「怒りの背後には、必ず悲しみがある」と言った誰かの言葉を同時に思い出す。そして、「自分に湧きおこる感情を感じる権利をその人は持つ。その感情こそが人生の味わいなのだ。」というザビエの言葉も一緒に。

Be open to what you are feeling now.

だんだんと涙が出てくるのが止まらなくなってしまったので、帰宅することにした。もう夕方だった。「あとは家で仕事するから今日は帰るね。」とだけ伝えて帰ろうとすると、夜ごはん用に買っておいてくれたらしい牛丼のお弁当を母が持たせてくれた。言葉少なげに家を後にしたので、翌日母に「何か怒らせるようなことしちゃったのかと思った。」と言われてしまうくらい、わたしの様子は外側に駄々洩れなのがわかってしまう様子だったよう。きっとどこかでそんな気分でいることを母に気づいてもらいたかったのだとも思う。

家に着いてしばらくすると、マレーシアの夫からSkypeで電話がかかってきた。友人たちと断食明けの食事へ行く途中のようでご機嫌だった様子。わたしの曇り顔を画面越しに見るやいなや、「何があったの?体調悪いの?それともお母さんに何かあった?」と矢継ぎ早に聞いてくる。夫が話せば話すほど、こちらは涙が止まらなくなってしまった。こうして夫の前でだけは、大人ぶらずに我慢しないで自然に泣けることが、共に暮らすことでわかってきていた。夫には、母の心もとない様子、そして意味不明の感情が突然湧いている話をすると、夫のいつもの揺るぎない現実的かつ客観的視点で、「お母さんの状況は1日で大きく変化するものじゃないから、仕方ないよ。それはNaokoも自分で言っていたでしょう。今はそっと見守るしかないし、心配し過ぎても仕方ないんだよ。」と諭されるように言われると、わたしも妙にムキになってしまい、「だって勝手に悲しくなるんだから仕方ないじゃん!Amin(夫)の前だからこうして自然でいられるんだから、今はそうさせて!」と強めに言ってしまった。すると夫は「Okay, okay.  I understand you.  Just relax. Be open to your feeling as much as you want.(わかったよ。リラックスして。自分が感じるままに好きなだけ感じたらいいよ。)」と言って、わたしたちはその日の会話を終えた。こんな風に自分を隠すことなくいさせてくれる夫には心底感謝している。

想定内と想定外のこと

なんとなくまだ泣き足りない感じがしてわたしのとった行動は、もうすでに何度も観ていてスッカリ「泣きたい時のお供」のような、とある韓国ドラマの特定のエピソードをフルで再視聴することだった。毎度決まって涙を誘う数々のシーンに浸って、ただただ泣きまくった1時間強。泣いてスッキリ!という感覚には程遠かったけど、それでも内側で起きていた大きな波のうねりのようなものは、徐々に静かになっていった。仕上げにお風呂に入ってサッパリすることにした。夜のセッションの時間が少しずつ近づいていた。

通訳ー特にザビエと一緒に行う通訳の仕事は、他に気がそれることを1秒たりとも許してくれない作業なので、こんな時はかえってありがたかったりする。自分で設定した「通訳」というフィールドにスポっと入ると、たちまち双方向のエネルギーを行ったり来たりすることに意図しなくても集中を促され、あっという間に90分が経過する。

セッションが終わってクライアントさんが退室された後、その後の日程確認の打ち合わせを少しすることにしたついでに、その日起きた感情デトックスの話をザビエに聞いてもらった。ザビエからコメントとして返ってくる言葉にわたしなりの2つの目星がすでについていた。そしてザビエは教えてくれた。

  1.  その感情は、わたしが遠い過去に本来感じるはずのものだったもの。

  2. その感情は、同時に、母に属するものでもあること。

やっぱりね、と自分の内側で言葉になった。そして更にザビエが付け加えたのは、

「Naokoさんがその感情を感じることで、お母さんは楽になっていくはずです。あなたもお母さんに投影しているし、お母さんもあなたに投影しているのだから。そして、今Naokoさんが見ているお母さんの姿が、本来あなたか子どもの頃に見れるはずだった姿なんですよ。」

というコメントだった。ここだけは想定外だった。言われた後しばらく、自分の中に空白の時間が生まれたことは言うまでもなく。

母に見る個性化のプロセス

ここのところザビエの口から何度も出ている「個性化 Individuation」そして「個性化のプロセス」。初めて聞いたのは、オーラソーマのLevel 1ターコイズの色彩言語だった。当時、本当のその意味も分からず使っていたことを、このタイミングで知らされることにもなってしまった。

心理学者のユングが提唱している概念だ。

個性化とは個性ある存在になることであり、個性ということばが私たちの内奥の究極的で何物にも代えがたいユニークさを指すとすれば、自分自身の自己になることである。したがって、「個性化」とは、「自分自身になること」とか、「自己実現」とも言い換えることができるだろう。

自我と無意識 C.G.ユング 松代 洋一/渡辺 学 訳(第三文明社)

わたしは今の母にまさにその「個性化のプロセス」を見ている気がする。母は今年で77歳。いくつになっても、人は「本来の自分へ還る」ことが促されているのだな、と感じずにいられらくなっている。もちろん、体験は人それぞれであって、どんな種類のことにも正解・不正解があるとは思わない。ただ、すべての生きとし生けるものと「変容」というプロセスは切っても切れないものだ、ということは、認めざるを得ない。「生」も変容であり、「死」も変容なのだから。個性化のプロセスも、その変容の一部に集約されるのかどうかまではわからないけれど、人間に与えられた「機会」であることは間違えないようだ。

感情ドラマを一通り終えた翌日、再度実家に行ったわたしは、ことの顛末を可能な限り簡潔に母に伝えることにした。ザビエの言葉も交えて。言わなくてもいいことかもしれない、と思ったが、わたしの中では、母には伝えておきたい、と思う気持ちが強かったからだ。それは、この半年の中で、今更ながら母に見出してきた「感情的知性」というものが、わたしにそう思わせていたのだと思う。きっと母は何かをそこから感じ取る、という確信もあったからだ。

その場に一緒にいて聞いていた父はひたすら、「そんなことってあるのかなあ?」と懐疑的だったが、母は「わかる気がする。そうやって話してくれると胸のあたりがどんどん楽になる。じゃあ、わたしも、もっと自由に、感じるままに生きていいんだね。」と言うのだ。加えて、「わたしはまだまだ死ぬ気はないの。せっかくこうして自由になったんだし、兄ちゃん(叔父)も潔く逝って楽にしてくれた。だから、今からまだまだ楽しみたいの。」と、いつになくハッキリと言うのだから驚かずにいられない。そして、わたしもそんな母の姿をこの先まだ何年でも見せてもらいたい、と思う。

今日で何かが解決されたわけではない。今日も母は、顔をのぞきこむと、昨日とは打って変わって「今日はあんまり調子でない~体がだるい~~。」とブツブツ浮かない顔で言っている。「最近あんまり動いていないなあ。」と言うので、朝一緒に、近くの神社まで参拝がてら散歩に誘った。こうして、母に振り回されていると言えば、今日もかなり振り回されていることは、ほぼ変わらない。父の母を心配する表情も、今日も変わらない。でも心なしか、父(82歳)はここのところ「若さ」を少し取り戻したような風に見える。夫婦間に起きていることは、子どものわたしにはわからないけれど、娘のわたしにこれだけ色々感じさせる出来事なのだから、パートナーである父にも何かしら作用しないわけがない、と思っている。

何かが大きく変わらなくても、なんとなく、今日この時点に「点」を打っておきたくて、これを昨夜からものすごい勢いで書いている。あまり考えることなく、湧き出てくる言葉をつらつらと並べているので、支離滅裂な記録になっているかもしれないけれど、いつか振り返りたい時が来た時に、「ああ、あの時のこと、、、」と思い出したくなるのは間違えない気がしていて、それと同時に、言葉にすることは、わたしにとって自分がどんどん落ち着いていく作業でもあるから。そして、こうしてまだ親たち二人が生きてその変容のプロセスを見せてくれていることは、幸運以外のなにものでもないと思っているからこそ、時間を割いても記録をしておきたいと思った。可能な限り生々しく。

先ほど引用したユングの本の訳者の前書きに、わたしにとって「個性化」を理解する上で大切な一節があったので、それを最後に書いておきたいと思う。

個性化過程とは心理学的個体になる経過を意味する。これは一般に自己実現と呼ばれるが、単に通俗的な意味で個性的になることとは一致しない。なぜならばそれは、個人の主体性でもって一定の集合的な文化流行などを受け容れてそれと同一化することと変わりがないのであって、それはユングの用語を使えば、ペルソナのレベルの問題でしかないからである。むしろここでの問題は、個々の自我主体の本来的で個体的な同一性、つまり個性の確立にある。この課題は適切な自己認識の過程によってもたらされる。

自我と無意識 C.G. ユング 訳者まえがき 渡辺 学

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