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EP.003 今田知佐子 / CHISAKO IMADA(アート・広島)

Chisako Imada
https://www.chisakoimada.com/

”私は以前介護の仕事をしていた。看取りをすることもあり何度か立ち合う事もあった。その経験をする前は、死=全ての終わりと思っていたのだけど、その時私は生命の力強さを強く感じ、死ぬ事は終わりではなく新しい始まりなのだと感じとても感動をした。その時感じた生命の力強さを私は作品で表していきたい。”

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こんばんは.   よしもとばななの小説みたいな人.   心がほぐれる.   弱さを抱きしめる.   江田島を拠点にアート活動.   出会いのきっかけ.   アーティストだと自覚したとき.   人に見せたいという感情.   観る側の人間ではなく観せる側の人間.   開き直る感覚.   LOOK AT ME.   自画像.   絵とコラージュ.   モチーフとしての人体.   増殖.   もっともっと創りたい.   自分の足らなさ.   観る側に託す.   バルセロナ.   覚悟を決めた瞬間.   場所がないと展示できない弱さ.   ライブコラージュ.   ピンクの時代.   子宮の部屋だけ柔らかい.   パターンからモチーフへ.   真っ黒な背景.   作品とストーリー.   衝動的なエネルギーから意図したエネルギー.   看取り.   下顎呼吸.   死と生.   エネルギーが再生される瞬間.   鼓動が刻みたい.   生まれるにつながる.   ギラギラから溢れる.   小さなちさんと大きなちさん.   気づいちゃった.   感謝をしたい.   誰かの何かになるために.   恩返しの最中.   意識するから「今」という時が現れる.   壊すときが自分を拡張するとき.   次へのバトン.   扉を開けてもらうための対話.   バトンのタイムラグ.   もうすぐ起きること.   放ったものが戻ってきている感覚.   次への未来.   意識があって浮かび上がってくるもの.   軸をもって大いに揺らぐ.   未来の糸と結ぶ.   振り子の中心点

 --ayako 
生命って「生まれる」からはじまるものだと思ってたけど、「死(=無))からはじまるのかも。種というのも生命の亡骸なのかなと今ふと思いまして。「無」というのは空っぽということじゃなくて、うーんなんというか「無」というエネルギーが込められているというか…

動的なエネルギーじゃなくて
静的なエネルギー?

 --ayako 
「死」というのは、生命にとってどういう行為なんだろう…

--chisako
福岡伸一さんの著書『せいめいのはなし〗の中にエントロピー増大の法則のことが書かれていて「一生懸命壊すのは、壊さないと新しいものが作れないからです。それから、壊すことによって捨てるものがあるからです」と書いてあって、またエントロピー増大の法則に生命現象が追いつかなくなると個体の死となり、、私を通り抜けた分子は、その時に既にこの地球上のどこか他の秩序にバトンタッチされている。と書かれていた。

私は正にこの生命現象を看取りでいよいよという習慣に立ち会った時に体感したのだと思う。死とは次への再生で、生命の循環。

「無」とは空っぽということじゃなくてってところだけど、無って私達が認知できていない領域の事なのかなと。

潜在意識の部分に近いイメージ
そこに次への糸が隠れてるイメージ

--miyabi
死=無というイメージはどこからやってきたのだろう?

生きるって自分の体内で血液とかエネルギーとかさまざまなものが外部と入れ替わりながら巡っているイメージ。循環。

死って体内、あるいは私やある個体の中での循環がストップして、細かく分解されて、さまざまなものにバトンタッチされてくイメージ。こっちは大きな循環の始まり。だから、生きてる間は私たちは何かの媒体で。

死は解体で散り散りになって新たな媒体のパーツになる。

--chisako
そもそも、無から生まれたよね。無は誕生だったはず。

--miyabi
無から生まれたのは何?

--chisako
生命、宇宙の誕生、今もなお誇張しつづけてる宇宙。

--miyabi
それさえも解明されてないから本当に無から生まれたのだろうかという疑問。

--chisako
そおね。まだ見えていないから無と言ってるのかもね。無ってスタートなんじゃないかな。死ってスタート地点にもどることなんじゃないかな〜

--miyabi
膨張しつづけている説はビッグバン理論で多数派が支持しているんだけど。最近、歴史を辿っていく過程でその時その時に唱えられている理論が常識として捉えられていて、モノの見方も考え方も、変遷していってるんだよね。だから、もしかしたら思いもよらない事実が先の先の先にあるのかも。

--miyabi
生きてるが動的なエネルギーに感じるのは媒体である私と外の循環が起きていて。死が静的なエネルギーに感じるのは、自らがエネルギーを運ぶのではなくて、分解の過程で微生物とか他者が介入するからかなー。自然界へと循環されてく。

エネルギーの絶対量は実は変わってなくて、その場をぐるぐる回ってるか。自然界へブワッと解き放たれたか。

--miyabi
死んで土に還ります。
私は分子となって元の宇宙の一部になります。
そしてまた形を変えてさまざまな生命の一部となります。
一旦カタチ、輪郭としては無となる、無となっていくんだけど。散り散りながらも在って。また再構築されてくのかな。

だから広義な意味で、宇宙の一部に戻る=スタートに戻る。になるんだけど。生きてる間に細胞も入れ替わるし、あらゆるものが循環されて生まれた時の私、と死んだ時の私でさえも別物で。ただただ、死んだ後に宇宙の一部に戻っていく、、、

そんなことを考えていたら頭の中がぐるぐるして宇宙みたいになってきた。笑

--chisako
うんうん。そもそも無なんてないんじゃないかな〜って思ってきた。だって私たちの細胞は止まる事なく死の間際まで活動しつづけ、更に次へのバトンになり、どんどん循環していっているわけで、無の状態なんてないんじゃないかなー。宇宙だねー。

--miyabi
今、また生命の一部となると言ったところで。ふと。物の一部になることもあるのかもな。と。人間ってほぼ炭素と酸素と水素。気付いたらダイヤモンドになってたってこともないんかな。笑

--chisako
あると思う!
で、今思ってたのが次に何なるって時の対話を言うならば無の時なのかも。分子さんがね。

--miyabi
あー。関係性が定まる前が無の状態なのかも。

--chisako
うんうん。そう思った。

--miyabi
ちなみに、気になってググってみたら。人骨からダイヤモンド作られてたよ。笑

--chisako
なんと!そうだよね。私たちはたまたま今このカタチ。
でもなににもなりうる。

--ayako
あーちょっと待って〜笑
「私」という存在が大きな循環の媒体だと考えると、なんかいろんなことが紐解けていけそう。カタチあるか(見えるか)ということか。

でも、見えるかどうかは人間基準の可視領域の話なので、やっぱり大きな循環の中で考えていくのが素直なのかもしれないです。

循環の動きがストップすること、バランスが崩れてしまうこと、エントロピーが成り立たなくなってしまったときに、振子が止まる=ゼロになっちゃいそう。

無とゼロは違うということか?

--chisako
無は逆にゼロのイメージないかも。私。循環の動きはストップしないじゃないかなー。個体の死でさえも、次へのバトンだし。振子さんと、生命の循環はまた別々のストーリーかも。

振子さんは今を作る
生命の循環は永遠
区切りが違うんじゃないかなー

と、感覚で思いました。

--miyabi
①自然界という大きな循環(分解・合成含む)
②媒体としてカタチづくられた私の中で循環するものと、③私を介して循環するもの。

②の媒体としてカタチ作られた私と、
④媒体としてカタチ作られたあなたあるいはそれ。
との関係性の変化=振子の関係

みたいなイメージかな。
振子が自力で動くのは生きてる間(媒体である私の中でエネルギーがぐるぐるしてる時)

--chisako
うんうん。今の私によって意識されたものが振子さんよね。

--ayako
あーなるほど。
振り子が止まったときゼロになると感じたのは、自力(私のなかのぐるぐるエネルギー)が止まるからだ!

だけど、それはあくまでも④の話で、①という大きな循環を考えると関係性の中で生まれる磁力?みたいなものが動力となってるから、そういう意味での動きは止まらない!

--ayako
というところで、
「死」というのは、カタチが一旦終わることではあるけれど、エネルギーがなくなってる訳でなく、原子レベルで散り散りになって再構築されていくのね!

ゼロ(=0)はあくまでも記号だから、「カタチ」ってことだな。なので「無」とは違うのね。

--miyabi
あー!もしかしたら。
無の反対は有る。有るがあって無が現れるのかも。だって有るから「無」を感じるわけで。始めから「無」だったら無いことさえも感じれないかも。

この世に有ったこと、存在したこともないから大多数の人は「無」と思ってて(無とさえも思ってなくて)でもまれに、カタチはないのに、有ることがわかってて、無いを有るにできる人がいる。

だから、無はゼロではないんだ。

ついつい無をスタートと考えるけど。有るの方がスタートとも取れるかも。

--ayako
ちょっとズレるかもしれないのですが、無いを有るにできる、というところから

デカルトの
「我思う、故に我在り」というのがパッと出てきて

世の中のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない、ということ。らしいというのが一つ。

--ayako
インドの人が発見(定義?)した「ゼロ」という概念。
7世紀初めごろのインドの数学者ブラーマグプタの書物には、「いかなる数にゼロを乗じても結果は常にゼロであること」、また、「いかなる数にゼロを加減してもその数の値に変化がおこらないこと」というゼロの性質が記載されているという。

つまり、ゼロは変化しない(=エネルギーがない?)

無は、見えないけれど
エネルギーを持っている

--chisako
ちゃんと言えるかわかんないけど、無に限をつけると無限で限りないってなるじゃない?それは有るってことだよねって思った。無にはいっそ沢山のエネルギーがあるのかもと思った。無にはいっそ沢山のエネルギーがあるのかもと思った。 有と無の関係があるから実体が浮かび上がってくる。「無い」ということを証明することはできない。無いと言ってしまえば逆に有ったこと/有りうることを前提にしてしまう。

そして、無ってどんな感じだろうと考えてて、無の状態って満ち満ちている時も無になるなーと思って。満たされてもいるなと思った。無欲とかね。

そして、福岡伸一さんの『せいめいのはなし』の中で養老先生が、相互補完について話してるんだけど、今の社会は何でも一面的になっているんじゃないかという話で、「ある」と「ない」これは反対語ではなくて補完語ですって書いてあって、「生」と「死」なんて、まさにその最たるもので決して切り離せないって言われていて、有と無も補完語だなと。

なんカ、ゼロと無って似て非なるものな気がする。無を意識した時、有も現れて補完的な物を感じるけど、ゼロはそれがない気がする。

--miyabi
ロゴス。
結局は人間が認識、物事を深めるために生まれた概念なのかもね。
綾子ちゃんの言うように、ゼロは言葉でなくて数字で数のシンボル、記号だよね。でも、無は言葉だから対義語の有があるけど。

書いてて、言葉自体も媒体みたいだなーと思った。言葉にもさまざまな意味やエネルギーが含まれていて。循環を考えた時に、直感的に要素の一つとして「言葉」が浮かんだのは、言葉が媒体みたいなものだからかもしれない。言葉はカタチないものを届けることができる媒体なのかなー。

--chisako
私たちは生まれた時から1人で生きることよりも他者との関わりによって生きていくことを選んだ。その中で発達したものって言葉だよね。言語ゲームは私達を形成するし、また他者と対話することができるようになって物事を深めることができるようになった。

動物たちは、今というものを認識できないから、過去も未来もなく、瞬間、瞬間で生きてるけれども、私たちは言葉を持つことによって瞬間、瞬間ではなく、連なりを作ることができるようになったのだと思う。

--ayako
コミュニケーションの方法には2つあるようで

①言語コミュニケーション
会話や文章などの「言葉」
カタチないものを概念化
物事を深く細かく説明できる
言葉は「文字=記号」がなくても(識字できなくても)コミュニケーションとれる。

②非言語コミュニケーション
「言葉」以外のもの
写真、ビジュアル表現、表情、視線、身振り、声のトーン、音
非言語でしか伝えられない情報がある

※補足
手話は、非言語じゃなくて他言語かも。

で、何が言いたかったかと自分で整理してますが(笑)人間がなぜコミュニケーション能力を発達させた生物なのか。自分の意志を伝えたくて、他者の意思を理解したくて、知らないことを知りたい欲求。他者との関係性。

--ayako
パスカル先生より
「人間は自然のなかでもっとも弱い一茎の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」広大無辺な宇宙に比べれば、人間は無に等しく、「一茎の葦」のごとく弱く悲惨な存在にすぎないが、それは「考える葦」であり、思考によって「宇宙を包む」ことができる。ここに人間の尊厳があり、偉大さがあるという。このような偉大と悲惨、無限と無という相矛盾しあう二律背反のなかで、揺れ動く人間の存在。

改めて調べてみたら
パスカル先生のメッセージにキーワード詰まってますね笑

--chisako
詰まってるーーーーー
すごい。うまく言えるか分からないけど。

他の生物達は繁殖し、生命を繋ぐ事が使命。それが生きること。自分の生命と引き換えに生命を繋いでいく。人間は生命を繋ぐことより、人間らしさを追求する、自分がどう生きるかを追求する生き物だと思う。様々なコミュニケーション方法で伝えたり、理解したり。

ここで、「時間」のことを考える。
人間以外の生物って大きな生命の循環の中の一部。世界の一部のような感じがする。生命を繋ぐ事で世界を繋ぐというか‥‥
人間はその中で「今」を作り出し、流れる時を区切れる。過去と未来が作れる。新しい世界を作ってる感じがする。人間そのものが矛盾な存在。揺れるもの。揺れるということは対話。だから、新しい世界が作れるのかもと思ってみた。

そして、私達人間は壊す生き物。壊すから新しいものが作れる。
私たちは新しい世界を作り出す生き物。それで、新しい世界を構築するのにコミュニケーション能力が発達したんだろうなー。

--miyabi
循環というテーマで作品を作りたいと前から思っていて。直感的に初期段階で「言語」を要素の一つとして組み込みたいと思ったのは、今まさに対話している内容が関連しているからかもしれない。

考えていく中で、一つのモチーフにしてしまうことも違うのかもと思ってきていて。さまざまな切り取り方、時間的な切り取りと視座的な切り取り方があって。

多面性のあるものを多面的に表現する。その行為自体も、言語と非言語双方のコミュニケーションであり、循環でもあるかも。

私自体も大きな循環の媒体
言語・表現も媒体

作品が出来上がった時、それ自体も媒体になる。作品がミクロとしたら、宇宙がマクロみたいな。宇宙の循環を感じて作った作品(ミクロ)から、宇宙の循環(マクロ)を感じる。これ自体も循環。

Wic project(今田知佐子と今田雅のアートユニット)の
生と活つの作品、「無自覚の操縦者」をもっと多面的に表現したようなもの。

--ayako
もしかしたら、すでに共有してもらってるかもなんですが、Twitterに流れてきたので改めて◎

2025大阪万博
デザインシステム
テーマ:いのちの循環
https://www.expo2025.or.jp/overview/design_system/

大阪・関西万博のデザインシステムが表現しているのは、「はじまりも終わりもない時と、いのちの流れ」です。私たちの日々を彩る多様な生は、ひとつの中心をつくるのではなく、あるときはつながり、あるときは離ればなれになりながら、決して画一化されることのない「いのちの輝き」を教えてくれます。異なるものが融け合い、響き合うことで生まれる美しさは、私たちを新しい未来へと導いてくれるでしょう。

(中略)

私たちはいま、膨大な「いのち」に囲まれた世界の中で、個人としても、社会の一部としても存在しています。ひとつであると同時に、全てでもある。

今まさに、アフタートークしてるキーワードがたくさん落ちてるので、ピリはじらしく結んでいきたいなぁ。

--chisako
様々な環世界の重なり合い、それぞれがその集合体の一部でお互いに関わり合い、補い合い、終わりない流れの中にいるんだろうね。なんか、波を感じる。

--miyabi
キーワード転がりすぎだね。ちょっと閃いちゃったことがあるから。それは、アフタートークから飛び出たところでカタチにしていきたくて。お楽しみに!

--ayako
楽しみしてます!

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