歳を重ねる自分と『Happy ever after』
誕生日のちょうど2日くらい前から、
King&Princeの『Happy ever after』という曲の歌詞の一部について、
考えていた。
この部分。
この曲、本来は
現在"King&Prince"として活動している永瀬廉、髙橋海人の2人からの、ファンに対する感謝の曲なのだと思う。
6人→5人→2人と”King&Prince”の形がどんどん変わって、ファンを混乱させたり不安を与えたりしたことを、2人はずっと気にかけていた。
「ファンを安心させてあげたい」
ということを大切に、昨年5月から活動してきた。
たくさんの言葉を尽くし、伝え続け、自分たちがたのしむ姿を見せて。
この『Happy ever after』の作詞は自分たちではないが、King&Princeは自分たちが目指すもの、例えばリリース曲の歌詞に対しても、
”こういう思いを伝えたい”
”ここの表現をもっとこうしたい”
という、自分たちの意志をもとに作詞家さんとやりとりして創り上げる。
だから、この曲での彼らの意志も、作詞家の山崎さんを通して込めてもらっていると思うのだ。
「欲張りながら」 「諦めながら」
というのは、彼らの今までの歩みの中で希望をもって進んできたこと、そしてぶつかった壁に葛藤したこと、というのを表すものだろう。
「ひとつひとつ 選び歩いてきた」
ここまでくるのに、たくさんの選択をしてきただろう。3人が脱退するとなったときに
”King&Princeを続ける”
という選択をしたという今回のことが、彼らにとってはいちばん大きな選択であったかもしれない。でも、それまでにも多くの選択があってのここまでだろう。彼らだけでなく、脱退していったメンバーも。
キラキラした姿を見せてくれるアイドルだって、現実と向き合って生きる、私たちと同じ人間なのだ。
そして、そうして歩いてきたことで手にしたものを
としている。
この「Love」は、きっと混乱や不安を抱えつつもついてきてくれたファンや周りのスタッフ、先輩後輩、家族、友人など、彼らの周りにいて支えてくれたひとたちのやさしさに触れて感じたことだろうな。
「手のひらのLove」
とすることで、
”気付いたらそこにあった、いてくれた”
ともとれるし、
”たくさんあったけれど手のひらに残る分しかなくなっていた”
ことを感じさせつつも
”一握りでもしっかりと残っていたことに気づいた”
ともとれる。
このグループ体制の変化で、彼らは言わないけれどきっと失ったものも多くあった。2人で走り出したら事務所も大変な状況になった。
それでも、大切なものに気づいて、それがあったから歩いてこれたんだ、という、感謝の歌。
ライブツアーでも、これを最後の曲に選んで
と、ファンに感謝を伝え続けたようだ。
(私はレポを拝見させてもらう組だった)
(サビはこちらで聴けます↑)
(たった今解禁された映像だが、まだ観る勇気がない私↑)
そんな、彼らの歩みと一緒にすることは申し訳ないのだが、
の、この歌詞。
個人的には、”人生”だな、と思って。
鬱病12年生の私。
もちろん、こんなに長患いしたかったわけではない。
25歳で発症。
ちょうど周りがどんどん結婚出産していく中で、自分は生きていくいるだけで精いっぱい。寝たきり、家から出られたらえらい、今日は窓を開けたからえらい、お風呂入れた、という状況から、少し良くなってくるとどんどん現実が見えてきて、”私の将来なんて何もない”と〇のうとしたこともある。
少しだけ働いてみたり、面接で何度も落とされてまたお休みしたり。面接のとき鬱病だと言うか言わないかとか、厳しい就活の中で、心の病をわかってくれ(ようとす)る奇跡の支店長のもとで働けた(倉庫管理のお仕事)けれど、結局”人間は分かり合うことができない”という教訓を得た。皆さんに迷惑をかけた申し訳なさも抱えボロボロになり、11カ月で辞めた。仕事の内容はたのしかったので、せめて1年は続けたかったなぁ。
波がある病気なのは分かっていたけれど、ここまできてもなお、家の状況や様々な出来事がおこるたびに調子を落とす。
初めは連絡をくれていた友人たちも、もう何年も経ってさすがに気まずいのか、そっとしておいてくれているのか、年数がたつにつれて連絡は減り。連絡をとっても、友人がどんどん人生のレベルを上げている(子どもが3人いるとか離婚再婚したとか)現実を知るとまたダメージ。こちらが生活にいい変化があればいいが、いつになってもこんな生活なので、もう、連絡できない。
「元気?」に対する模範解答を、教えてほしい。
保〇士をしていたときに心身が言うこと聞かなくなり、ダウンした。子どもはすきなままだが、その現場や子どもたちの集団を見たりすると今もつらいことがある。一時は、当時子どもと遊んでいたもの(落ち葉や段ボールなど何気ないもの)を見てはトラウマに苦しんでいた。一度パートで保育の仕事をしてみたがそこがブラックだったし、今この病気の状況で命を預かってはいけないと実感することがあったので、もう現場には立たないと決めている。だからせめて、”我が子”が欲しかった。でも、現状、公共の場でも気持ちが安定しないことがあるので出逢いも難しいし、服用している薬もなかなか変えられず、減らせずにいる。結婚はともかく、出産、子育てということは年齢的に諦めざるを得ない感じになっていると感じる。
私の人生はもちろん、鬱病になる前からあった。
25年間、普通に学校に行ったり、社会に出て働いたりした。
そこでも、たくさん選択をして生きてきた。
そのときのことまで書くとさすがに長くなるので、今は割愛する。
鬱病だけが、私の人生ではない。
(小林麻央さんの言葉のようだけど許してほしい)
し、流れに身を任せるような性格のひとたちもいて、
”今できることやろーっと”
な感じで生きられたりする。妹や父がそんな感じだ。
無欲だと、先を考えて焦ることもないし、将来を悲観することもない。
ただ、困ったことに私は意志が強くて、欲深いなと痛感することが多い。
周りに主張できなかったり自信がもてないだけで、あれしたいこれしたいが多いし、できないとめちゃくちゃ悔しい。
それ故に、鬱病が長引く中で年々、”諦めざるを得ないこと”が増えていくと、自分の人生ってなんだろう、生きている意味ってあるのか、とか、もう絶望的なメンタルになってしまう。
鬱病も長年やっていると、さすがにいろいろなときの対処法もわかってきて、
”こうするとよかったよな” ”これは何回か経験したから大丈夫”
と思えることも増えてくる。
自分のペースではあるけれど、進んでいると思う。
そう、思わせてほしい。
ただ、
人生に関して、年相応の人間としての経験がない気がする。
もっと恋愛をしたり、結婚の準備とか、旦那様の家との付き合いとか、家を買うとか、保険をどうするとか、妊娠出産子育て関係もそうだし、何ならひとり暮らしすらまだ叶っていない。家賃、光熱費を払って、残りはいくらだからどうするとか、冷蔵庫に何もないからこうしようとか、そういうことすらできていない。
25より前に、自立する機会を逃してしまった。そして、そのまま鬱病自宅療養になり、社会的に見たら、何も進んでいない。
あくまでも、”社会的に見たら”であって、自分が進んでいると思えばいいだろ、と思えたらいいけれど、友人親戚近所など、関わるとやはりつらくなる。
歳を重ねるだけで、中身が進化していない。
老けるとかそういう怖さもなくはないけれど、それよりも、
実年齢に対して、自分がそれ相応の大人としての経験値を積んでいないことが、私はものすごくコンプレックスだ。
そういうことを特に感じるのが、誕生日前日。
このnoteを始めてから、ずっとそういう記事を書いている気がする。
2年前は少し前向きだったらしいけれど、やはり他は後ろ向きだ。
今年の誕生日はどうだったか?というと。
なんだかんだで、家族が好物のpizzaをごちそうしてくれたり(それかい)、今もつながってくれている友人から連絡がきたり。
もう、
”私を覚えていてくれることが嬉しい”
”私の生まれた日を喜んでくれるひとがいることが嬉しい”
に尽きるな、という境地にきた。
こんなに長患いなのに、いまだに会おうと言ってくれたり、この日を覚えていてくれる友人。
昨年、連絡がついにこなくなって心配した幼なじみも、一日遅れてごめん!とわざわざメールをくれた。
祝われるのもね、、、という歳になってはいると思うが、そんなことより、
こんな自分を大切にしてくれる、覚えていてくれるひとがいることが嬉しいな、もう少し生きないとな、という気持ちでいる。
それぞれの、それこそ大人の生活があるだろうに。
家族だって、ストレス因でもあるけれど、こんな歳になるまで実家においておくつもりはなかったろう。それなのに、急かすことなく、誕生日はちゃんと祝ってくれる。
母が、以前言ってくれたことを思い出した。
ひとり暮らし、自立について
「あなたが独り暮らししたいのかどうかはまずおいておいて、こっちはいつになってもいいから、焦らないでいいから」
と。
そのときは、母にストレスを強く感じていたので、心からは喜べなかった。一緒にいると刺激し合うことが多くて、お互いのためにならないと思っていた。でも、私が出ていったら、母はもっと病むだろうな、と。
ただ私も、ひとりでアパートを借りるとなると手続き関係、荷物の仕分け、業者さんとのやりとり、各種諸々をひとりでは今、確実にできない。そして、やはり、私の病気では、不動産屋さんも、なかなか部屋を貸してくれることはなさそうだ。理由はネットで調べて、だいたい把握済みだ。
そうしたら、やはり、母の言葉に感謝して、自立のためのお金を稼げるようになる心身を作れるまで焦らず、ここにいさせてもらうしかない。
家族って、大きなストレス因でもあり、いちばんの味方でもある。
幸い、そう思える家に生まれてきたようだ。
ありがたい。
自立したい、と焦るほどにうまくいかない就活。それによってどんどん社会から遠ざかっていく私の病状。
でも、全て諦めればいいのか?
いや、そんな人生、生きている意味がない。
置かれている状況に、感謝しないといけないのに、
感謝の仕方が、本当に下手だ。
感謝について攻略本みたいなものがあったら教えてほしいくらい、下手だ。
「手のひらのLove」に、気づいて、しっかり感謝しながら生きたい。
「欲張りながら でも諦めながら」
が、あまりにも、私の鬱病人生を表していることに気づいたので、歌詞をもとに自分のことを書いてみた。
でも、
「ひとつひとつ 選んで歩いてきた」
ことも、また確かで。
働きたい、と思ったこと。
働いてみたこと。
〇のうとしたとき、やめたこと。
何度も何度も、やめたこと。
具合悪いから無理だと思ったけど、ともだちに会ってみたこと。
思ったより気にしなくてよかったので、体調を理由に”会いたいのに会わない”をやめたこと。
今いてくれる友人を信じること。
すきな音楽、お笑いで、心をポジティブな方向にもっていこうとしたこと。
息が苦しくなったとき、推しを見て心を楽にしようとしたこと。
祖母との関係で、母(同じく鬱病)が苦しかったとき、その祖母が亡くなって親戚がごたついたとき、母のそばにいたこと。
弱った母の話を聞いたこと。
noteを始めたこと。
続けていること。
ここで、話したいことを話そうと思ったこと。
サポステのチラシをハローワークでみつけて、これだ、と思ってハロワの受付のひとに相談したこと。
相談してしまったことによって、回された部署で嫌な思いをしてますます就活ができなくなったので、体調を戻してからやはりあのときの直感を信じてサポステに電話し、通うことにしたこと。
自分の直感は当たると思い、信じることにしたこと。
Wordの検定を受けようと思ったこと。
受けたこと。
合格したから、今年は次の級を受けよう、と目標を立てたこと。
障害年金の受給を申請したこと。
やりたいことを、やってみること。
鬱病は、判断能力が低下する病気。
でも、こんなに、選んでくることができた。
十分だ。
”社会的に”、でなかったら、十分進んでいる。
私の「手のひら」には、そういうことを認めてくれるひとが、一握りいてくれる。
を、そばにいるひとにほど、伝えなくては。
あたたかくてやさしいこの曲のおかげで、
書いていて、本当に自分がしあわせなのだということに気づけた。
いつも自分のことで精いっぱいだけれど、やさしくありたい。
今、他のひとがしている生活とは違う生き方をしている自分だけれど、
だからこそ、できる何かがあることも信じたいし、
精神的、社会的弱者に寄り添うことなど、私にできることがあるかもしれない。
それを、”ひとつひとつ選んで”、これからも、生きていく。
この曲に助けられたことも、いつか、King&Princeに伝えたい。
出会ってくれて、ありがとう。
自分のペースでしか進めない道を、これからも進んでいくよ。
それでいいんだ。
多分。
※『Happy ever after』収録のアルバム『ピース』と、ライブツアー円盤のリンクがこちら。
欲張りすぎず、諦めすぎず、自分のペースでひとつひとつ、この先を進んでいけますように。
「手のひらのLove」に、気づいて感謝できる人間になれますように。