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”人間は他人の気持ちが理解できない”という、大前提のもとで

なんだか、最近の私は、自分探しをしているようだ。

自分の性質、苦手なことなどについて本などで必死で勉強してしまう。学生時代より意欲的かもしれない。

これからを、よく生きたいようだ、自分。

(メンヘラとでもなんでも言って下さい、ところでメンヘラって何?)



私は、自分を分かってもらいたいという思いが、どうやらすごく強い。

しかし、それを自分でうまく主張できないために、ストレスがたまりにたまる、、、そして、心労がたたって今の鬱病pizzaができあがったのだ。


今、家にいて、母の言葉に対して強い感情を抱くときは、

「そうじゃない!」「”いつも”やってるわけじゃない!」

、、、、、、と、”自分を理解してもらえていない”と感じたときだ。

これは、言えずに飲み込んだりしているが、パニックになって言ってしまったりすると、呆れられる。

相手が言いたかったことの本質より、言葉自体に心が反応してしまう。どうしても。

そういう経験を日常的にしているひとは、きっと私だけじゃない。


いろいろ勉強した結果、どうやら、やはり”わかってほしい”という思いが強すぎると、よくないようだ。自分で主張出来て、周りの反応にも動じないひとならまだいいが、私のように、言いたいのに言えない、そのわりに思いは強い、な人間は、苦しい一方だ。

鬱病であること、それによって苦手になること、同じことでもできるときとできないときがあること、ひとそれぞれ症状は違うこと、などなど、、、どんなにこちらから説明しても、実際経験しないと相手には分かり得ないことばかりだ。


昨年働いていた職場で、面接時はwelcomeであたたかかった支店長。支店長の奥様が同じ病気だったという。面接で、鬱病を含めた自分をこれだけ受け入れてもらえたことが初めてだったので、すっかり安心してしまった。そして、雇ってもらえたことも奇跡だと思うし、本当に職場の全員にお世話になった。

でも、結局、働けているということは治ったということだと思われていたり、どんどん覚えて動けるようになったと思ったら急に効率が落ちていった私に、みんながイライラしだして、、、その空気にどんどんメンタルがやられ、鬱症状(判断力や作業効率の低下)が増して、苦しくてたまらなくなった。鬱調子の波が下降線に入ってしまった。

そりゃ、働いている側としたら、謎すぎると思う。この間までできていたのに、どんどんできなくなることなんて、おかしいもんなぁ。困るよね。厳しく言ったら心に負担をかけることもあるし、どう声をかけていいか、本当に困ったと思う。イライラすると思う。

大迷惑をかけたことは確かだ。

ただ、こちらが自分のことをちゃんと話したとしても(結構話してはいた)、実際、そんなところまで配慮できないなんてこともある。協力しないと仕事なんてできないし、私の病気の配慮だけ考えてもらうわけにはいかない。仕事をしている以上、社会とつながっている、お客さん(取引先)など相手がいる、、、そこで言い訳はできない。

でも、私は、わかってもらわないと、自分が自分としてそこにいることができなかった。そういう状態だった。


相手に期待しすぎては、いけないのだ。

分かってもらえるなんて、思ってはいけないのだ。


、、、、、、こう言うと、悲しいイメージをもたれるかもしれないが、わりと大事なことだと思う。

『君の名は。』のごとく、全身全霊入れ替わるようなことがない限り、人間は、どんなに知りたいと思っても、他人の考え、気持ち、心身の状態を理解することはできない。

「わかるー!」と言われたとき、”いや、あなたなんかにわかるわけない”、と思ったこと、ないだろうか。(私はあります)

同じ経験をしたひと同士、分かり合える同士、というのは、実際には、”似たような経験がある” ”考え方が似ている” ということであって、完全一致はあり得ない。

人間、生まれ育った環境も、生まれ持った性質も、考え方も、感じ方も、何もかも違う。この世に同じ人間はひとりもいない。家族であっても。

でも、そのなかで、何かが一致することを感じるひとに出逢うことがある。気が合うな、なんだか心が楽だな、という、特別なひと。

ほんのわずかな、共通すること。共鳴できること。

そこを感じあえて、繋がれることって、本当に奇跡で、その幸運は心から喜びたい。


ただ、信じすぎて、その相手に期待しすぎ、依存するのはよくないのだ。

ほんの少しの、一部の共鳴し合えることがあるだけでいい。それ以上を望み、勝手に期待して、勝手に裏切られたような気持ちになってはいけない。それで相手を恨むようなことになっては、いいことはひとつもない。


ここの判断が、昨年の職場ではできなかった。難しかった。

家族に自分のような状況のひとがいる長だったら、わかってもらえる気がした。それまでの面接では、病気を公表し続けずっと不採用だったから。ようやく受け入れてもらえた、と思って、全身全霊で身を預けてしまった。

でも、それがあっての今。11か月もこの身を置いてもらえただけで。そして、この経験があったから、”ひとに自分のすべては理解してもらえないんだ”、ということが分かった。


同じ精神の病気でもいろいろあるし、同じ鬱病患者でも、症状は全員違う。鬱病同士が話し合っても、理解し合えないかもしれない。


”わかってほしい” という感情。

人間なら、誰しもがもつものだけど、ひとに求めすぎてはいけないんだ。

でも、理解してもらう努力をしないと、生活ができない場面もある。

難しいね。


”理解してもらう” ことはできないけれど、やさしいひとは、弱い者の感情に ”寄り添ってくれる” ”理解しようとしてくれる” ことがある。

そんなとき、心から "有難い” と感じ、「ありがとう」と言えるひとになりたい。”有る”ことが”難い”のだから。



相手に過大な期待を抱かない。

共感、やさしさを受け取ったとき、それは奇跡。”有難い”ことだという認識をもとう。


そして。

誰かに嫌な言葉、傷つく言葉を言われたときは、その言葉は相手の感情のほんの一部分であると考えよう。

その一部分は、どうしてそんな言葉になったのか、その方向に意識をもって話を聞いてみよう。

自分は、相手の気持ちが理解できないのだから。自分の気持ちを押し付ける前に、想像してみないと。


ひとは、相手の気持ちを理解できないからこそ、思いやりのきもちがもてる。全部お見通しだったら、”思いやり”、”やさしさ”、”配慮”なんて言葉はこの世になかった。

そう考えたら、理解し合えないことを、すこしたのしめそうだ。


言うべきときには、ちゃんと言い返せるようにもなりたい。

勉強しているので、後日、またそれについては書くと思う。

私に、「感謝の気持ちが足りない」と母が言うのは、心が言葉自体に反応してしまって、そこから思考が進まない、相手の言いたかったのはどういうことかを理解しようとしないで、いつまでも自分の心の傷ばかりみていることを考えたら、なんだか納得かもしれない。

このままじゃ、この先また社会に出ても迷惑をかけて終わるだろう。

(ただ、これを母から言われたときは本当に嫌だった、、、)



変わりたい。


なかなか、時間がかかるけれど、私は変わりたい。


つよく、やさしく変わりたい。



そして、この鬱病生活を、絶対無駄にしない。




もう少し、自分を探してみよう。



明日も、少しでも、前に進めますように。

未熟ですががんばっております。治療費にあてさせていただきたいです。よろしくお願いします。