「かわいそう」っていう言葉
ふと思ったこと、というか、結構常々思っていたこと。
自分としてはそれが普通の日常と思って生きてきた事柄に対して、
「かわいそう」
と、突然言われて
「?」
となった経験、ないだろうか。
今となっては、ほんのちいさなこと。
私は、チョコレートが食べられない。
匂いからもうダメな、結構マイノリティーな人種だ。
お菓子を食べる場面で、女子ならきっとチョコレートを食べられたならかわいげも出るだろうに、我慢して食べることも無理なほど、近くで誰かが食べているとき匂いで”うっ”と気づいてしまうほど、本当にダメなのだ。
ましてや、チョコレートの湯せんの現場や、チョコレートフォンデュのある現場なんて、絶対にそこにいられない。
学生の頃。バレンタインの日に、いわゆる”友チョコ”としてせっかく友人が私にも手作りのチョコレート菓子を渡そうとしてくれようとして「あっ」と、相手が気づいたときの切なさ。そこで、こちらが気を遣って受け取ろうとするのも違うし、申し訳ない気持ちに何度なったか。
あと、バフェやクレープなんかにはチョコレートソースがかかりがちだ。食べたいのに、それゆえに諦めることもある。
(甘いものはだいすき)
女子でチョコレートが無理だというのは結構レアだったので、友人には結構覚えてはもらえた。
ただ、
”チョコレートが食べられない”
という私の事実に対して、
「かわいそう」
、、、、、、と、言われたことが、何度かある。
バカにしているテンションではなく、普通に。
こういうエピソードを書いた後で言うのもおかしいかもしれないが、
私は、チョコレートが食べられなくても、日常生活には支障がない。
誰しもがもつ食べ物の好き嫌いと同じだし、しかも食事ではなくおやつなので、野菜のように大人に「食べなさい」と言われるようなものでもない。
普通に生きてきた。
それを、「かわいそう」と言われたことで、疑問を抱く。
”チョコレートを食べずに生きている私、これまで生きてきた私って、かわいそうなの?”
きっと、相手はそこまでの思いで言っていないだろうし、ただ自分がチョコがすきだから、こんなにおいしいものを食べられないなんて、という気持ちだったのだろう。
ただ。
こういうことって、チョコレート云々に限ったものではなく、結構経験しているひとが実は多いのではないだろうか。
よくあると思われるのは、障害や病気になったひとに対して。
”普通”の生活ができないひとに対して、「かわいそう」と憐れむ。
たとえ本人が、自分のしあわせを見つけ前向きに人生を送っているとしても、それを知らない他者が勝手に憐れんで、「かわいそう」に思ってしまう、というのはよくある話だ。
しかも、悪気はなかったりする。
ただ、そのひとにとってのいつもの、”普通”の日常を送っているところに、
「かわいそう」
の言葉が入ってきたら、どうだろう。
それが、そのひとの肉親とかなら、そう思う気持ちは間違いないだろう。どんなにか苦しいだろうと思うし、かわってあげられたらとも思うだろう。
でも、本人に「あなたはかわいそうだ」なんて、言うかな?
私も病気と闘っている。
いつ治るのか見通しが立たない、鬱病。
かわいそうだと思われるだろうし、いまだに闘病していることを知っている友人はきっと様々に思うだろう。
実際、いろいろ経て鬱病になった過程を知っている元同僚や、親友なんかは、
「私も何かしてあげられたらよかった、話を聞いてあげられたらよかった」
「正直、主治医に早く治せよって言いたいよ」
なんて、言ってくれたことがあった。
(しあわせな人間だな、自分、、、、、、)
ただ、そのひとたちは「かわいそう」というより、自分が何かできたのではないかという気持ち、もどかしい気持ち、、、、、、どんな言葉をかけたらいいのかも分からないような中で、言葉にしてくれたのが、先ほどのような言葉だ。(と信じている)
ただただ憐れんでいる、第三者とは違う。
寄り添おうとしてくれているし、実際今も、頻繁に連絡をとらないにしても、物理的に距離が離れているにしても、気にかけてくれていることが伝わる。
だいすきだ。
絶対に、しあわせになって恩返ししないといけない。
何が言いたいのかというと、
「かわいそう」
という言葉がひとを傷つける可能性って、結構あるのではないかということ。
チョコレートの件以外にも、たびたび考えることがあって、私は、できればこの言葉は、軽々しく使わないように気を付けようと思っている。
例えば、ひとり親で育ったひと。
例えば、極貧家庭で育ったひと。
例えば、性的マイノリティーのひと。
例えば、いじめを受けていたひと。
例えば、毒親に育てられたひと。
、、、、、、、なんでもいい。
そういう”くくり”でひとをみて、恵まれていないとか、弱い立場だとか、そういうふうに第三者として決めつけるのは違うと思うのだ。
見方によっては、そう決めつけて「かわいそう」と言ってしまうひとは、その対象のひとをどこか下に見ている、と思われてもおかしくない。
仮に、誰かの身の上話を聞いていて「かわいそう」と思ったとして、心が本当に傷んだとしたら、寄り添いたいとか、ここまで過ごしてきたそのひとを讃えたいとか、そういう気持ちになったなら、「かわいそう」以外の、何かしらの言葉が出てくると思うのだ。
逆に、興味がなければ、「ふーん」で終わるだろうし、、、、、、
ただ、自分の今の状況がやばいことに気づいていないひとには、「かわいそう」というよりも、「あなたは今大変な状況なんだよ」と、教えてあげることも必要だったりする。
私でいうと、鬱病になる手前の、病的に必死だったとき。
あと、DVを受けていながらまだその相手を求めていたり、、、、、、とかかな?
ここまで言っておいてなんだが、
私が本当に「かわいそう」と、心から思うこともあって。
それは、
例えば、SNSで悪口を書いて暇をつぶす、ストレスを発散することしかできないひと。
例えば、ひとの心を理解しようと思うことを知らないひと。
私は今、病気の影響で悲惨なニュースを受け付けないことが多いのだけれど、朝、ニュースをTVで流していると必ず悲惨、卑劣、残酷な事件を取扱う。心ない犯行など、観ていて悲しくなったときは、
「そういうことでしか生きられない、かわいそうなひとなんだ」
と、自分に言い聞かせて、気持ちを落ち着かせることもある。
合っているかはわからないけれど、私の「かわいそう」の唯一の使い方だ。
情けなくはある。
ただ、これは確実に、ひどい犯罪だなと思ったとき、自分のほうがまっとうに生きていると言い聞かせないと、心が落ち着かなかったりする。
、、、、、、、、、もしかして、
「かわいそう」が口癖のひとって、そういう、自分を保ちたいという気持ちがあるのかな?
読んでくださった方には申し訳ないくらい支離滅裂な文章だけれど、こうして「かわいそう」を考えただけで、結構深いなと思った。
自己満でごめんなさい。
憐れむより、寄り添う、讃える、そっちがいいよね。
「同情するなら金をくれ」
って、結構理にかなっているかもな、、、、、、
鬱病が手伝って、感情移入過剰になっているから、気を付けていこうと思う。
言葉って、大事。
自分も、どうしても言葉に繊細だから。
自分の言葉にも気を付けたい。
寄り添って、讃えてくれるたいせつなひとに、必ず恩返しができますように。