VR(バーチャルリアリティ)は体験とは言わない
机に向かうだけが勉強ではないのです。
僕は教員をしていた37年間、ずっと思い続け、
実践してきたのは「座学からの脱却」だったのです。
中学校と高校の理科教諭免許があるから
何はともあれ実験するのが当たり前でした。
僕は中学生の時から自分の勉強部屋は実験室にしていたので
塩酸やら水酸化ナトリウムやらで実験をしていました。
実験して検証するというスタイルは
この頃からついたのだと思います。
明治大学の農学部に進み、生化学の研究室に入りました。
毎日、実験の日々でした。
教員になってからも
この「実体験」というスタイルは変わりませんでした。
国語の「森へ」という教材では
動物写真家の星野さんがカヌーで森へ入っていく話なので、
実際にカヌーを自費で買ってきて、学校のプールに
浮かべて子供たちに体感させました。
社会の歴史体験では
縄文人になるために石の道具を作らせました。
とってきた蔓をそのまま石と棒に巻くと、
次の日には蔓がほどけてしまったのです。
とってきた蔓は湿っていますが、1日で乾燥して
緩んでしまうのです。
つまり縄文人は蔓を乾燥して巻いたことがわかります。
縄文人の知恵がわかるのです。
そういうことは教科書だけでは伝わりません。
算数では校庭の木の高さを分度器で計り、
自分の位置と木までの距離から木の高さを計算で出させました。
すると、自分の家やマンションの高さを測る子も出てきました。
自分の体を通して経験したものは決して忘れないのです。
体で経験することがまさに「体験」というのです。
僕がずっとバーチャルやデジタルを批判し続けるのは
こうした単なる「疑似体験」で済ませようとするのは脳に
体験が刻み込まれない、自分のものとならないからです。
「本物体験」と「疑似体験」では雲泥の差があるのです。
もちろん、全てが本物体験できるわけではないので疑似体験を否定はしません。
否定はしませんが、本物の方がいいに決まっているのです。
「体験」は成功体験だけでなく、「失敗体験」も重要です。
失敗すれば、脳は防衛をします。
医学の世界では免疫ができることです。
「失敗は成功のもと」であり、
「成功するまでやればやっていることは失敗ではない」
というエジソンの言葉もあるほどです。
バーチャル(仮想空間)はあくまで仮想。
リアル(現実)こそ体験すべきことなのです。
しかも人生の早いうちに。