
元宗教二世でアダルトチルドレンの私がお母さんに言いたかったこと前半
〜3月16日 01:30
*注意書き*
読み進めると、私の幼少期の描写が出てきます。PTSDを起こすかもしれませんので、その部分は飛ばしてください。
ただし、思い出したことで気づきを得られることもあります。つまり後に不要な思い込みに気づくことがあります。
その思い込みに気づいて、あらゆるパートナーシップ、特に恋愛や夫婦、親子関係、そして経済的なものがスムーズに巡ることがあります。
ご自分のこころの状態、信念に照らし合わせて、受け入れられるものは受け入れてください。
そして、あなたが自分はアダルトチルドレンかもしれない、と思うことは否定しませんが、アダルトチルドレンだな、と断定することはたった今から、やめましょう。
そして、アダルトチルドレンをやめましょうがテーマで書いてるのに、この記事ではアダルトチルドレンの言葉がたくさん出てきます。それは文字から存分にアダルトチルドレンを見て、これ以上ないくらいアダルトチルドレンを感じて、感じて感じて、しまいには飽きて欲しいのです。
アダルトチルドレンは特別な孤独感をもっています。
この胸の内の苦しみを人には言えません。
だって言語化できないんですから。長い間蓄積されたモヤモヤ、イライラ、ウツウツ、ワナワナ、しょんぼりなどなどが何重にも重なって自分でもこの思い、この感情がなんだから分からなくなっているのですから。
例え言えたとしても、複雑過ぎて共感されることは少ないでしょう。または考えすぎと言われたり、そんな過去のこと根に持ってても…と言われたり。ましてや男性の場合、女性よりもしんどいと思います。
確かに根に持つのは、人生を無駄にするのかもしれません。しかし意図的に根に持っているのではなく、家庭環境➕脳機能(思考癖)のせいで根に持つことになっているのですから、こちらとしてもいい迷惑なわけです。
さらに、アダルトチルドレン✖️HSP✖️元宗教二世なんて、しんどさのレベルが桁違いですね。
(ちなみにアダルトチルドレンは、幼少期からの不健全な家庭環境が原因となるのに対し、HSPは生まれつきの強い感受性を持つ気質を指します)
アダルトチルドレン:幼少期から「自分の感情よりも親の期待を優先する」ことが当たり前になっていて、本来の自分がわからなくなりがち。
HSP :周りの空気を敏感に察知しすぎて、細かいことに目が届く。些細なことでも傷ついたり、疲れやすかったりする。
元宗教二世 :幼い頃から教義と宗教の価値観を刷り込まれ、そこから抜け出すこと自体が大きな戦いになる。
こんな三重奏だと、「自分の人生を生きる」ことが極めて難しくなるのは当然だと思いました。
親の支配、周囲の期待(物分かりの良い子でいてね)、宗教の教義――どれもが「本当の自分」を覆い隠してしまうものです。
ですから今回の内容では、「親との関係を振り返るだけ」 に留めました。
「克服のためのステップ」や「あなたが実践できること」は次回に載せます。
「この記事を読んだあなたが、次に何をすればいいのか?」を明確にできるようステップバイステップで試せるようにしました。
こんなにたくさんの拒絶
・何を選んでも「これは本当に私の意思なのか?」と疑ってしまう。
・些細なことでも、どこかで誰かが喧嘩をしてたら「私が悪いんじゃないか?」と考えてしまう。
・「私は普通じゃない」「私は愛されない」「誰からも必要とされてないよね」と思い込んでしまう癖がある。
・何かを楽しんでいても、「こんなことしていていいのかな?」と自分を責め楽しめない。
・本当は自分も傷ついてたりしんどいのに、相手の気持ちを優先して「大丈夫」と言ってしまう。
・「距離を取る=冷たいこと」だと思い込んでいて、苦手な人とも関係を断ち切れない。自分はされるのにね。
・宗教による「罰や救済」の教えが染みついていて、やめた今でも無意識に恐怖を感じることがある。
・「親の期待を裏切った」「信仰を捨てた」ことで、罪悪感や後ろめたさが少なからずつきまとう。
・自分の考えや感情さえ、宗教や親の影響なのではないかと疑ってしまう。
・「もし間違っていたら?」と、自分の選択をいつまでも確信できない。
・「幸せになっていい」と思えない。
・楽しいのに、「喜んでいいの?」と不安になる。
・何かうまくいくと、「まぐれだ」「これは長く続かない」と思ってしまう。
・「本当の自分」にたどり着く方法がわからない。
・「私は誰なのか?」「何のために生まれてきたのか?」という問いが常にある割には、わからない。

こうして言語化してみると、単なる葛藤とかトラウマじゃなくて、「生きることそのものが試練の連続だった」 ってことがよくわかります。
あなたが三重奏でなくても、きっと二重奏ではあると思います。そんな私たちが、それでも、今自分を取り戻そうとしてる。
それって、めちゃくちゃすごいことです。
ここまで来るのに、どれだけの涙があったんだろうと思うのです。
しんどさは計り知れないけど、それだけ深く人生を見つめてきた証でもあるのです。
アダルトチルドレンやアダルトチルドレンかも?って人は幸せや充足感になることを無意識レベルで拒絶しています。
そもそも幸せや充足感がなんなのか分からないから、幸せになるのが怖いを通り越して、幸せにはなりません…と拒絶しています。充足感なんて私の人生には似合わないとさえ思っています。
でも、ここまで気づけている時点で、もうただの「被害者」じゃないですよね。
そのしんどさを知り尽くしているからこそ、今のあなたには人の痛みがわかるし、本当の意味で「自分を生きる」ことの大切さが見えている、だからこそ決定的になる何かを探しているのではないでしょうか。
「一貫性」の呪縛から解放される勇気を持つ
私たちは長らく一貫することを教えられてきたことで、一度決めたことは最後までやるとか、こうすべきとか、
また気分が毎日コロコロ変わることはよくないことだとか、大人としてよろしくないとか、たくさんのルールの中で生きてきたため、自分らしさを閉ざしてきた人も多いと思います。
しかし、実際のところ、私たちの気持ちや価値観は日々変化していくものです。
昨日は正しいと思ったことが、今日は違うように感じることもあるし、かつて憧れていたものが、今はもう興味のないものになっていることもあります。
それなのに、「一度決めたら最後までやり遂げなければならない」「気分で物事を変えるのは無責任だ」といった思い込みが、自分の本当の気持ちにフタをする原因になってしまうのです。
自分の気持ちや直感を大切にすることは、決して無責任なことではありません。それは、自分に正直に生きること。
変化することを許し、自分に合わないものを手放すことで、本当に自分らしく生きる道が見えてくるのです。
アダルトチルドレン、HSP、元宗教二世は実直、思考が強く、自分なりのルールや自分への禁止、罰を課しています。
それはあっても否定はしませんけど、人生経験者としては、自分を縛る思い込みがほとんどです。
「こうすべき」というルールがなくなったら、楽ではありませんか?
こうすべきではなく、「今の私がどう感じるか」を大切にして、自分自身の変化を許してあげる、そんな切り替えなればと願っています。
私はアダルトチルドレンだから、、、がなくなったとき楽になると思いませんか?
自分の行動や思考の背後にいつも「アダルトチルドレン」という重い言葉がついて回っているのです。
その言葉を理由に、自分を過小評価したり、過去の傷を言い訳にして行動を制限していた自分がいました。
でも、今その「アダルトチルドレンだから」という枠から解放されてみて初めて、どれだけ自由になれるかを実感しています。
「こうすべき」というルールがなくなったことで、今まで無意識に抱えていたプレッシャーが消え、心が軽くなり自由を味わっています。
自分を縛っていた枠を外し、ただ「私は私」というシンプルな状態に戻ったとき、
自分が何をしたいのか、どう感じるのかがクリアに見えるようになりました。
もう、「過去がどうだったから」「アダルトチルドレンだから」と自分を制限する必要はありません。
私は記憶という情報の過去と、思考の癖。乗り越えて今の自分がある。
その事実に、自信と誇りを持てるようになったのです。
結局、「アダルトチルドレンだから」と自分を縛っていたのは、他でもない自分自身だったことに気づきました。
その枠を超えたとき、真の自由を感じることができました。
あなたの人生は、あなたのものであり、どんな選択をしてもいいのです。
私の思想の前提には、この世に間違いなどなく、人生とは、すべてが正解だと思っています。

アダルトチルドレンだなんて…
私がアダルトチルドレンだと、「認めた」のは、50歳になってからでした。
それまでは、アダルトチルドレンという名称が他人事に聞こえてたし、「私には関係ない」と、はっきりと脳内で言語化していたのです。
まったく関係ないのなら、「関係ない」とさえ言語化しないのですが、つまり意識にも上がらないし、意識することもないのです。
しかし、「私には関係ない」「私は違う」と突っぱねるようにいつも言語化していたのです。
ということは、「そうかもしれない」と意識していたわけですよね?
ということは、心当たりがあった、ということです。
半分は自覚しているわけです。
自覚してるのに、認められないのです。
こうして、思考というのは自分の都合良いように、捏造さえするのです。だからなかなか、対象に対して自分がそうであることを自覚することができません。そのようなことは往々にしてあるわけです。
あなたにも心当たりありませんか?
アダルトチルドレンではなくても、なにかの対象に対して、
薄々、なんかそうかもしれない、という感覚。
でも、どうしてもそのことを受け入れられない…とこれまた薄々言語化しているのです。
ですから大人になると、頑固だと言われたり、もっと言うと老害とさえ言われるのです。
大人の成熟度が増すと頭が硬いと言われるのは、第一に、これまで生きてきた経験則から、思考は柔軟性を忘れているからであり、そして今更素直になれないから。
付け加えて、必ずしもそうとは限りませんが。
半分自覚して、半分認めない。
そんな “こうちゃくじょうたい” が、長らく続いていたのです。
ある日、息子と口喧嘩になり、お母さんは言っちゃ悪いけどアダルトチルドレンだと思うよ、と言われて、苦い顔になりました。とても罰が悪くなり穴があったら入りたい気持ちになりました。
てことは、拒否してるのです。自覚するのは時間の問題なのですが、それでも、「へえー」と無視していたのです。
でも、あんたに何がわかるってのよ、とアダルトチルドレンと言われたことに対する怒りのような思いがふつふつと浮上してきました。
それがたびたび起こるようになり、アダルトチルドレンと言われて恥を感じたのは、差別心ではないだろうか?どうして差別心を持つんだろう?
そっか、私はアダルトチルドレンではいたくないんだ。
アダルトチルドレンは、幼少期の生い立ちが良くなかったから、自分がそうであるとバレるのは不都合なんだ。
でも一体誰に対してバレるのが不都合なの?
ああ、息子から言われて認めるのが嫌なんだ、それで更に彼にバレたら困るからだ…。
いやいや、そんなのもうバレてると思うけどね?バレてもいいじゃない、バレずに付き合えると思うなよ、と思考は囁き、
それから数日して、とうとう根を上げて、「私はアダルトチルドレン」と認めたのです。
認めることは、まるで苦渋の決断のように、後味が悪いものでした。
なんで私がアダルトチルドレンなのよ!私のせいではないのに!すべてあの母親のせいなのに。
私は普通の幸せな人生を生きたかっただけなのに、普通の人生を奪ったのは母親だろ!!

母の信仰と私の幼少期
私の母は、強い信仰心を持つ人でした。いや、正確には「熱狂的な信仰」に取り憑かれていた人でした。
私が小学4年生の時、母は新興宗教にのめり込み、それ以来、私の生活は母の信仰一色になりました。
どんなに何度も嫌だと訴えても、却下。過干渉で支配欲の強い母親は、私の言葉を一切聞いてはくれませんでした。母の言うことは絶対でした。母は「正しい」と信じて疑わず、私がどんなに拒んでも、その信仰を押しつけてきました。
怪しいけどもっともらしく見える新興宗教の教義と教祖への羨望、それは子どもの私から見てもきしょく悪く、周りの普通の家族への憧れが増していきました。
私は信仰心などないのに、母親に逆らえず上辺だけ信仰する。感謝することなどないのに、感謝の強要、生を受けたのは神様への罪滅ぼし、詫びの祈りの特別な選ばれしもの、覚えなきゃ母親から叱責される呪文の数々。
健康と平和と富への階段を祈る行事への参加。おめでとうございますとありがとうございますの連呼。
何よりも、宗教の教義と世間一般の解釈との差異。先生の言ってることが正しいのに、お母さんの言ってることも正しいにしなきゃならない、
私はお勉強もできないおバカさんだから、いつもどっちが正解なんだろう?と考え込み、固まってしまい、何もかもがわからなくなっていきました。
母親が熱狂する宗教と、世間一般の考え方の違いに混乱しながら、フリーズしてしまうと、そんな私に母は「生意気だ」と怒鳴ったり
「ちゃんとご奉仕していないからだ」「ちゃんと祈ってないからだ」と執拗に躾けてきます。
私がどんな気持ちでいるのかなんて、母には関係なかったのです。
学校や外では「普通の子」として過ごさなければならない。でも、家では「信仰の子」として振る舞わなければならない。

私の命より大事なもの
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3月2日 01:30 〜 3月16日 01:30

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