不自由さからの解放は自分次第
敵がいない。無敵であること。
無敵でありたい、そう強く思うことがありました。
それは、自分には敵がいる、むしろ敵しかいないと感じていたからでしょう。しかし、なぜ人を敵と感じたのでしょうか?
振り返ると、幼少期の記憶が自己防衛として働いていたことに気づきます。親が守ってほしい時に見守ってくれなかったこと、学校でのいじめの経験、これらは私にとって恐ろしいものでした。
そのため、自己防衛として、他者を敵視することで危機を回避しようとしていたと考えられます。そして、そんな状況を体験するしかなかった自分を、どこかで嫌っていたのかもしれません。
心に関する書籍を読み込んで知識はあるものの、私の敵視は改善されませんでした。書籍では私は私を見つけることができませんでしたが、私自身に向き合う具体的なプロセスを知ることで自己理解を深め、すべてを受容することができました。
「あの人が嫌い」自分が自分へ持つ「怒り」という感情すらも受け入れることができるようになります。「悪魔のように文句を言ってしまう自分」「母親を憎いと思う自分」も受容すると、それらに対して抵抗がなくなり、自分の内側の「嫌い」という感情を他人に投影することがなくなります。
すると、だんだんと日々が平穏で穏やかになっていったのです。
満員電車の中とホームでの変化が一番顕著でした。
通勤ラッシュ:男性に対する敵視→元夫への理不尽さの怒りを抑圧していた。
元夫の浮気なのに慰謝料は払えないから→払えないものは仕方ないと弁護士が言う。23年前なすすべなく、引き下がるしかなくこどもを抱え鬱になりながら、悲観した私に、あの時確固たる自分軸があったら、きちんと調べることも主張することもできたのに、もう今となってはどうにもならないので、”なかったことにする”という方法で自分の心を守ることしかなかったのです。
そんな怒りが沈んでいたわけです。
怒りを沈めてたということですね。
怒りを出すことができない自分に腹が立っていたということ。
怒りを出すと嫌われてしまうという、謎の意味づけもあったからです。
母親への憎しみには怒りがミックスされています。
子どもには何のメリットもない修行でしかないやりたくないこと=宗教の教義を守ることは、何度懇願しても意見を聞き入れてくれない、非情さに愛を感じられません。
大人なのに建設的な話し合いができない低脳な母親への怒りは染みついたシミを消す以上に困難ですから、後どのくらいこの怒りを抱えた自分で生きなければならないのだろう?と絶望を感じます。
怒りも愛して、怒りを沈めるしかなかった自分をもそれで良かったんだよ、と受容する日々を過ごしていくと、生活の中で男性を敵視することは無くなりました。
ただ一点の後悔は、慰謝料も支払わないクズな父親の血を引いていると知った我が子の苦痛までも予想せずに、迂闊に離婚の経緯を話してしまったことが、悔やまれます。
成人してから、深く傷ついていたと聞いたのです。
僕はきっと結婚はできないだろう、自分にはそんな資格ない、あの父親の血を引いているから・・・。
しかしそれもまた、私自身の私に対する深い愛情を示すことで、我が子の心の情動さえも緩んでいったことをここに残します。
駅のホーム:怒鳴る人をしょっちゅう見かけていました。それを見かけて気になることも、自分の内側の現れなのです。
あんな風に怒るのは間違っていると思うのか、あんな怒り方して恥ずかしくないのだろうかと思うのか、あんな怒り方は父親を思い出すと思うのか、うるさいなあ、迷惑だなあと思い見下すのか、いずれかの感じたことが自分へのお知らせです。
お知らせだと分かっていれば、間違ってると思うのは正しさを基準に生きていることがわかります。
恥ずかしいと思うのは何故なのか?問いかけができます。世間体や周りの目を気にして周りを基準に生きていたり、良い人物であろうしていたことがわかります。
怒った父親を怖がっていた幼少期を思い出し、父はなぜあんなに怒ったのだろうか?を考えることができます。父は小心者なので家で偉ぶることで会社の不都合さを発散していたかもしれません。また寂しかったのかもしれません。
見下したのは、まだ優劣を基準にしている自己価値の低さがわかります。
あの人はできて優位、私はできなくて劣っている、と無意識のうちにジャッジメントを行っているのです。
理由が分かれば、怖がることもなく、恥ずかしくなることもなく、良い人になろうと取り繕うとすることもなく、周りの目を気にすることもなく、周りの基準に振り回される社会通念を気にすることもありません。
間違っているかどうかなんてどうでもいいわけです。
正しいこと、正しくないことを基準に生きていると「自分の気持ち」は見えなくなります。
確かに正しいこと、正しくないことの基準は必要ですが、そんなことに囚われないで生き始めると、そんなことを映し出す現象も出来事も、目の前に現れなくなるのです。
この仕組みを知らないのが、これまでの隷属意識の生き方でした。しかし今は変わったのです。自分次第で自由と不自由を選ぶことができるということを。
社会通念に縛られて生きるもよし。
これはこうあるべきという決めつけや、ルールに従うのか、これはそうあるべきでもないよね、という
俯瞰した観点を得れば、常識からも制約からも解放され、自由になります。
本当にそれは本当にそうなの?
それは誰が得するの?
常識は一体誰のためなの?
常識だろ、といまだに言う人がいますが、常識は誰かが誰かのために作られたものです。誰かの都合を良くするために作られたものですから疑うことがあってもよし。
AI.やLGBTなど物理的な自由さを受け入れますが、人はまだ心の自由さについては後退的です。
悪循環は悪循環しか生まないわけではなかった。
悪循環は自分で断ち切ると決めるとそこから新しい芽がでることを体験できたことは何よりの宝です。
怒りも愛するということは、抵抗のない日々が展開され、敵などはじめからいなかったのだと感じられるようになります。
この平和で平穏な感覚は、敵を映し出すことのない、純粋な自分自身の一部なのです。
しかし、敵を映し出すことにも一つのメリットがあります。それは、人生をゲームのように広げ、まるで自分を遊ぶように「私」という存在を体験できることです。
時には、クエストが投じられ、持っている宝石を組み合わせて、俯瞰力を強化したり、新しい自分への何重もの扉を開いたりすることもあります。
無敵とは、誰かを打ち負かすことではなく、自分を理解し、受け入れることから生まれるものです。
敵を作らないこと、なんて社会では言われていますが、その真意を語る人は少ないと思いませんか?通り一遍のおべっかや気遣い、迎合なんかで敵を作らないことを言っているのではありません。
全ての事象は自分の内側の投影であることを知っていることほど、軋轢のないスムーズな人生に至福を感じることはありません。
求めているものは本当に平穏な生活なのでしょうか?
本当はちょっと面倒くさいくらいがいいと思っているのではないでしょうか?
だから、わかっていても不平不満を言うことをやめることをしないのではないですか?自分を許すことだけで不平不満を言うシーンがなくなると、多くの人が語っているのに、素通りしているように感じます。
自分と向き合うことが、真の無敵への道だと思います。
あなたはどんなことが無敵だと思いますか?
是非お聞かせください。
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