なくしたものを数えるな。積み重ねたものも数えるな。
2022年を迎えてから早くも3日目。
ここで過ぎるのが早いと思っておかないと、気づいたら年末を迎えて居そうでビビっています。そうか、心臓がノミサイズだから生命の危機を感じる期間も短いのか。こんにちは。アイコンはヒヨコのぴこつです。
ぼくって昔からマイナス思考の人間で、とにかく自分の失敗を後悔したり、何年も経って急にふと思い出したりして落ち込むようなことをいつもしてる気がする。
無謀な投資で損失を出した
子供の頃に誰かにひどいことを言った
仕事でやらかした
スマホを落として画面がバキバキになった
月に一度のゴミの日を忘れて翌月に持ち越しになった
みたいに過去の失敗とか考えてもどうしようもないことなどにムダに心を持っていかれてしまうことばかり。
こんなことしていてもどうしようもないとは分かってはいても、ふと思い出しては心の中で「ワーーーっ!!」となってしまう。それはもうそういう性格なので、それこそどうしようもないことなのかもしれないとも思っている。
それでも、いつかどこかで誰かが言っていた「なくしたものを数えるな」っていう言葉を聞いてから、自分の失敗したことやなくした何かを思い出してしまった時はその言葉で落ち着かせるようにしている。
なくしたものとか壊れてしまったもの。それが形のあるものだとしたら特にだけど、絶対に戻ってなんかこない。
例えば、食器の洗い物をしてる最中に皿を落として割ってしまっとしても、その皿が戻ってくることはないよね。当たり前だけど。だけど「割ってしまった」という記憶はぼくの頭に残っていて、ある時に突然その記憶が呼び戻される。
その時、皿が戻るわけでもないのに、自分の記憶の中には「割れる前の皿」が残っている。
話していて思ったけど、ぼく記憶力は壊滅的に悪いのに、こういう失敗したこととか「なくした何か」の記憶だけはメチャクチャ鮮明に残っていたりするのはなんなんだろう?もっと大事なことを記憶するためにメモリを使ってくれよ、頼むから。
壊れた皿はもう戻らない。つまりは「なくしたもの」だ。
しかも余計なことに、記憶の奥底に残っていた別のなくしたものを引っ張り出してきて芋づる式に連想してしまうこともある。
こうなると「あの時はこんなことをしてしまった」「そういえばあの時も…」みたいにどんどん気分が沈んでいく。
そんなふうになくしたものをいくら数えたところで、なくしたものは戻らないばかりか、もう存在しないもののために自分を窮地に追いやるという、意味のないことに人生の時間を使ってしまうのはすごくもったいない。
だから、戻らないと分かっているような「なくしたものを数える」ことをやめて、まだ存在しているものに感謝をしたり、これから生み出すもの、手に入れるもののために頭も心も使おうと努力している。
反対に、自分自身が残した成果とかやってきた実績はどうだろう。
例えば今お読みいただいているぼくのnoteの記事。
これもぼくの一つの実績だ。何記事書いたかは定かじゃない。たぶん数えてみたら、書き始めた当初に自分が想像していたよりもはるかにたくさん書いているとは思う。
最初は、長続きしないぼくの性格を自覚しているから、「1週間続けばいいかな」とも思っていたくらい。
それが深く考えることなく、なんとなく書いている内に今の状態になっているんだけど、これをもしも改めて数えてみると、たぶんぼくは続かない。
きっと自分の積み重ねた実績に満足してしまうだろう。これも40年生きてきて自分がそういう人間だということを分かっているから断言できる。
こういう自分の特性を20代とかでちゃんと見つめ直せている人はすごいと思う。
ぼくは子供の頃から「ある程度」にできたことに対してすぐに満足してしまっていた。逆に最初からあまりうまくできないことには挑戦しようともしない。今でもきっとそういうところはあるし、治らないと思っている。
だけど、それではたぶん何も成長していかない。このままでは40歳の今まで「なんとなく」で生きてきた人生の繰り返しになってしまうだろうね。
そんな自分だからこそ「ここまでできた」なんていう満足感を持しちゃいけない。
自分自身に「ある程度できた」と思わせてしまったらぼくの負け。
かといって、竈門炭治郎よろしく「自分はまだまだダメだからガンバレ!」なんていうハングリー精神も持ち合わせてはいない。
満足感を持たせてはダメ。できていないと思わせてもダメ。
この絶妙なバランスを取らせてやることがぼくのモチベーションになる。
「やる気」のことをモチベーションと仮定するなら、これを「モチベーション」とも言っていいものなのかもよくわからないけど。
自分自身がめんどくさい人間だということはもう嫌というほどに分かっている。
だからこそこの自分にとってどんな思想が合っているのかを自分の頭で考えて解決する。これも人生の一つの目的とも言えるのかもしれないね。
人生で何をやって、どんな風に進めるのかを考える上でも、まず最初にプレイヤーである自分自身の特性を知ること。
剣士に魔法を使わせようとしてもムダ。
魔法使いに武術を覚えさせてもムダ。
僧侶に武術を教えるのはワンチャン賢者になれるかも。
自分に合ったことで、自分に合った方法で自分を成長させる自分でなくちゃならない。
ぼくの人生がいい感じになっているかどうかは、見ている誰かが判断してくれればそれでいい。ぼくはひたすらに自分がやってみたいと思ったことに手を出して、続けていくだけ。その結果が誰かのためになっていたら、最高だね。
じゃあ、またね。
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